泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 階段の入口は、地上の喧騒からぽっかり切り離されたみたいに暗かった。
 小さな照明がぽつぽつと光る階段を降りていくと、壁一面にポスターが貼られていた。
 ポスターのすきまを埋めるように、バンドのステッカーが無数に貼られている。
 扉の向こうで何度も音を合わせているらしく、アンプを通した生々しい音がドアの隙間から漏れている。

 ステージの上には、先輩といつも一緒に居る友達の三人がいた。

 練習前の、まだバラバラな音。
 ドラムのスティックがリムを叩く乾いた音、ギターが適当に鳴らすジャラッという試し弾き、ベースの低音のうなり。
 その全部が空気の中でぶつかり合いながら、だんだんと馴染んでいく。
 ゆっくり混ざり合って、少しずつ“曲の形”みたいな輪郭が生まれかけていた。

「あ、キズナ来た~」

 最初に気づいたのは、ギターを抱えた茜先輩だった。
 弦を軽く鳴らしていた手を止めて顔を上げ、俺たちのほうを見る。
 その視線が、後ろに居る俺――つまり、今日の俺の姿に向けられた瞬間、茜先輩の表情がはっきりと固まった。

「……キズ。どこの国の、お姫様さらってきたの?」

 本気でそう思っている声音だった。
 冗談ともツッコミともつかない、あまりにも自然な一言に、空気が一拍、完全に止まる。

 それを合図みたいに、スタジオにいた他の先輩たちも一斉にこちらを振り返った。

 薄暗い照明に、アンプのランプが点す赤い光。
 むき出しの鉄骨、壁に雑に貼られたフライヤー、踏み潰されたガムの跡。
 いかにもバンドの溜まり場、という無骨な空間のど真ん中で、俺のロリィタ服だけが、あまりにも異質に浮き上がっていた。

 フリルに、リボン。
 淡い色の揺れるスカート。

 視線が、吸い寄せられるみたいにそこへ集中する。
 誰も言葉を失ったまま、瞬きすら忘れて俺を見る。

 ――やばい。
 空気が、完全に凍ってる。

 ここは、絶対に俺が立っていい場所じゃない。
 そう頭では分かっているのに、ひりつくような視線に足先がすくんでしまいそうになる。

 そのときだった。

 先輩が、がさっと音を立てて上着と荷物を床に放り投げ、何でもないことのように言い放った。

「俺の好きぴでーす」

 ……え?

 一瞬、言葉の意味が処理できなかった。
 あまりにも雑で、あまりにも無敵な紹介。
 その直後、先輩は俺の手首を軽く掴み、ぐいっと自分の隣へ引き寄せる。

 怠そうで、面倒くさそうで、いつもと変わらない声。
 なのに、その距離の近さだけがやけに生々しくて、心臓だけが大きく跳ねる。

 ――予想通り、世界が壊れた。

「は????」

「いや待て、さすがに意味わからん」

「キズ……お前、自分が何言ってるか分かってんの……?」

 ツッコミが、滝のように一斉に降り注ぐ。

 そりゃそうだ。
 先輩みたいなタイプが、俺を好きだなんて。
 冗談か、酔いどれの妄言か、悪ノリにしか聞こえないに決まっている。

 けれど先輩は、俺の手を離すと、そのまま何食わぬ顔でギターのストラップに腕を通し、もう一度だけ、はっきり言った。

「ガチ。だから、手ぇ出すなよ」

 ぶっきらぼうなのに、妙に低くて、威圧感のある声だった。
 観客ゼロのライブハウスに、その一言だけが、驚くほどくっきりと響き渡る。

 ……静寂。

 俺も、先輩の友達も、誰一人として次の言葉を出せず、ただその場に固まっていた。

 やがて、恐る恐る誰かが口を開く。

「……で、その姫の名前は?」

「……上野。宿泊学習の時の」

 先輩はギターを構えたまま、顎で俺をしゃくった。

 ――次の瞬間だった。

「…………………………は?」
「……え?」
「……ええええええ!?」

 理解が追いついた三人のリアクションが、一拍遅れてまとめて爆発する。

「キズ、ちょっと待って!? え、あの班一緒だった上野!?」

「声小さくて、カレーの時だけ俺らにメッチャ怒鳴ってた上野……!?」

「性別どこいったん??? 情報量が多すぎて処理できねえ!」

 完全に阿鼻叫喚だった。

 言われるとは思っていた。
 ――でも、こんなにもあっさり暴露されるなんて、思っていなかった。

「キズ……ちょっと整理させて……えーと……男で……ロリィタで……お前の……」

 そばにいた康先輩も、仁先輩も、ついに頭を抱えはじめる。

 俺は、小さく一歩前に出て、ぺこりと頭を下げた。

「あ、あの……女の子になりたいとかじゃなくて、こういう服が好きで……趣味で着てます……」

 声が、わずかに震える。

「……今日は、俺が、九藤先輩のギター、弾いてるところを見たくて……連れて来てもらいました。
 お邪魔だとは……思うんですけど……」

 場違いなのも、異物なのも、全部分かっている。
 それでも――今日は、どうしてもここに来たかった。

 俺の言葉をまとめるように、先輩が短く言い切った。

「性別は男。服がロリィタ。……俺の好きなやつ。以上!」

 若干キレ気味に怒鳴るその勢いに、

「はーい……」

 三人のメンバーは、ほぼ同時に、緩く、けれど即答で頷いた。

 空気がふっと緩んだかと思ったら、すぐにスティックが空気を割る乾いた音が落ちる。

「……じゃー、とりあえず合わせよっか!」

 アンプのボリュームが少しだけ上がり、ギターの弦が軽く撫でられ、ベースの低音が床を震わせる。
 練習が始まった。

 俺は観客が一人もいないライブハウスのど真ん中――
 最前列の、一番特等席で、その光景を見つめることになった。

 カン――というスネアの鋭い音が合図みたいにフロアを切り裂き、次の瞬間には、ベースの重低音が床下からせり上がってくるみたいに響いた。
 その振動が足元から太もも、胸の奥へゆっくり登ってきて、思わず息を呑んだ。

 最初のコードを鳴らした瞬間、鳥肌が立った。
 普段の先輩の弾き方は丁寧で――音が繊細で、弦を弾く指のひとつひとつに熱があった。

 歌い出した声を聞いた瞬間。
 本当に、心臓が一拍遅れた。

 先輩の普段の声は低くて落ち着いてるのに、歌った声はほんの少し高くて。
 でも無理してる感じじゃなくて、自然に伸びていくその声は、どこか切なさが混ざっている。

 それに、先輩が歌ってる表情が……反則みたいに綺麗だった。
 目を少し細めて、眉尻がほんの少し下がってて、喉が滑らかに動いて、唇がマイクに触れそうな距離で震えて――
 ただの練習なのに、本番以上の迫力があって。

 俺の胸が勝手に熱くなる。
 視界が先輩だけにピントを合わせてくる。
 手のひらが汗ばんで、心臓が強く脈打っていた。

 音が押し寄せてくるのに、先輩の声だけは、はっきり、真っ直ぐ届いた。
 ステージの上の先輩は、普段の何倍も遠く感じられて、何倍も魅力的だった。

 曲が終わった瞬間、胸の奥に溜まってた熱が一気に吹き出した。
 興奮が抑えきれなくて、思わず前のめりになる。

「すっごいカッコイイです! 先輩も……皆さんも!」

 言ってから、ちょっと息が上ずってるのに気づいた。
 でも止まらない。

「俺っ、音楽とかあんまり詳しくないんですけど、もっと聞きたいって思いましたし……
 あの、CDとか出してないんですか!? 買いたいです!」

 勢い任せにまくし立てた俺の声が、広いフロアに吸い込まれていく。

 そのあと、ちょっとした沈黙が落ちた。
 ステージの上。
 先輩も、他のメンバーも、全員きれいに揃った“ぽかーん”顔でこっちを見ていた。
 息ぴったりすぎて、ちょっと笑いそうになるけど、俺は至って本気だった。

 手前にいた仁先輩は、ベースを抱えたまま苦笑いして言った。

「めっちゃ素直で可愛いんだけど。CDなんか腐るほどあるから。好きなだけ持っていきな」

 その言葉に、俺は思わず口元を緩める。

「てか、マジで上野なんだよね?言われないと全然分かんない……」
「あの恋愛嫌いのキズナがねぇー。ちょっと、練習終ったら詳しく話聞かせろよ」

「俺、あと三十分やったら、瑚珀のこと送るから無理。さすがに八時までには帰さねーと」

 その言葉が落ちた瞬間、俺の胸の奥がキュッと縮んで、次の瞬間には“ぎゅんぎゅん”と跳ね上がっていた。
 送ってくれるなんて聞いてない。
 聞いてないけど、めちゃくちゃ嬉しい。

 思わず先輩の横顔を見ると、九藤先輩はケーブルを繋ぎ直しながら、当たり前みたいな顔で言葉を継いだ。

「だって、見た目これだし。
 こんなとこ一人で帰らせたら、あぶねーだろ。普通に」

 言い方は雑なのに、その雑さの奥にある気遣いがあからさま過ぎて、俺の鼓動がさらに追い打ちをかけてくる。

 その横で、仁先輩が「うわ、前方彼氏面」とニヤニヤしながら言った。
 「うっせーわ」と即答で返す九藤先輩の耳が、さっきより赤い気がした。

「つーかキズ、恋愛は面倒だからしないんじゃなかったの?」

 康先輩が、完全に分かってて、わざとらしく首を傾げてくる。
 口元には、にやりとした意地の悪い笑み。

 スタジオの空気が、また一段、ざわりと揺れた。

 その中で、先輩は何でもないことみたいにギターのストラップを調整しながら、ほんの一瞬だけ――
 ほんの一瞬、俺のほうへ視線を流して、

「こいつは別だから」

 低く、唸るみたいに、短くそう言った。

 ――その瞬間。

 俺の心臓は、完全に許容量をオーバーした。

 キュン、なんて可愛い音じゃなかった。
 ぎゅん、と胸の奥ごと掴まれて、握り潰されるみたいな、痛いほどの鼓動。

 熱が、一気に顔に集まる。
 視界がぐらついて、息の仕方すら分からなくなって、俺は反射的に俯いて、顔を隠すことしかできなかった。

 膝から、すうっと力が抜けていくのを感じる。
 このまましゃがみ込んだら、たぶん二度と立てない気がした。

 それでも、視線だけは、勝手に先輩を追ってしまう。
 でも、先輩は何事もなかったみたいな横顔でギターのペグを回している。

 ――ずるい。
 こんなの、耐えられるわけがない。

 声には出せなかった。
 出したら、全部壊れてしまいそうで。
 でも、心の中では、何度も、何度も、叫んでいた。

 九藤先輩が、大好きだ。
 どうしようもなく、どう足掻いても、世界でいちばん、大好きだと。

 俯いたまま、口元を押さえて、必死に呼吸を整えながら、
 俺はもう、完全に――恋に沈み切っていた。