泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 待ち合わせ場所に向かうと、すでに先輩がベンチに腰かけていた。
 片手には缶コーヒー。足元に影を落とす街路樹をぼんやり眺めていて、どこか気の抜けた横顔だった。

 ――見つけた。

 たったそれだけのことなのに、心臓がきゅっと縮む。
 歩み寄る足取りが、急にぎこちなくなる。

 俺の気配に気づいたのか、先輩が顔を上げた。
 そして、視線が合った瞬間――時間が、ぴたりと止まったように固まった。

「え、瑚珀……?」

 驚きの声が、少し裏返る。

「お、おはようございます……」

 先輩の目が、まばたきを忘れたみたいに開いたまま、俺を映している。
 今日は、いつものウィッグじゃない。
 鏡の前で何度も迷って、時間をかけて巻いたハーフツイン。

 それに――
 あの日、何気なく渡されたヘアピンを、そっと片側に留めてきた。

 先輩は、しばらく言葉を失ったまま俺を見つめてから、ようやく息を吐くように言った。

「……そのパターンは、予想してなかった」

 胸が、ちくっと痛む。

「……嫌ですか?」

 自分でも驚くほど、弱気な声になってしまった。
 すると先輩は、慌てたように首をぶんぶんと横に振る。

「ち、ちげーよ。そういう意味じゃなくて――」

 視線が泳いで、俺から外れたり戻ったりする。

「普段も……可愛いんだけどさ。
 これはこれで、なんつーか……その、破壊力が……」

 言い切れなかったのが悔しいみたいに、照れ隠しの咳払いをひとつ。
 その仕草があんまりにも不器用で、胸の奥がふわっと温かくなる。

 ――あ、これ、もしかして……かなり照れてる?

 そう思っただけで、さっきまでの不安が、嘘みたいに溶けていった。

 先輩は缶コーヒーを飲み干すと、少し乱暴にゴミ箱へ放り込んでから立ち上がる。

「……行くぞ」

「はい」

 並んで歩き出す。
 距離は、肩が触れるか触れないかくらい。
 近いのに、近づききれない。

 緊張のせいか、俺の足音がやけに大きく聞こえる。
 歩調がずれるたび、意識がそこに吸い寄せられる。

「……今日さ」

 先輩が、前を向いたまま言った。

「俺の、いつも行ってるようなトコで……ほんとに、よかった?」

「はい。
 先輩が普段、どんなところに行くのか……ちょっと、気になってて……」

 そこまで言って、恥ずかしくなって視線を落とす。

 すると、先輩は「へぇ」と小さく笑って、俺のほうを一度だけ、盗み見るように覗いた。

「……そーゆーの、ずるいわ、マジで」

 ぽつりと落とされたその一言が、胸の奥に静かに響いて。
 気づいたときには、さっきよりほんの少しだけ、歩幅が揃えられていた。

 ただ並んで歩いているだけなのに、
 それだけのことなのに。

 胸が、うるさいくらいに高鳴っていた。



 最初に連れて行かれたのは、街の角にある楽器屋さんだった。
 壁一面に、色とりどりのギターがかかっている。

「先輩、ギター弾けるんですか?」

 興味深げに尋ねると、先輩は当たり前みたいに頷いた。

「うん。幽霊部員だけど、一応軽音楽部だよ。普段一緒にいるアイツらもそう」

「そうだったんですね……!」

 知らなかった一面に目を丸くしていると、先輩は慣れた様子で店員さんに「試奏いいですか?」と声をかけた。

 アンプのそばに腰を下ろすと、ギターを抱え、ケーブルを差し込む。
 そして、軽く指で弦を弾いた。

 ……びん、と澄んだ音が空気を震わせる。
 オレンジ色の照明に照らされた先輩の横顔は、いつもより少しだけ大人びていて、俺は思わず息を呑んだ。

 前屈みになる瞬間、前髪がそっと目にかかって、その陰に隠れた表情が妙に色っぽい。
 長い指が弦を押さえ、滑らかに動く。
 細かい動きひとつひとつが自然で、まるで普段からギターが身体の一部であるみたいだった。

 知らず知らずのうちに、胸の奥が熱くなる。
 目線も動かせない。

「せ、先輩……カッコいいです……!」

 我慢できずについ漏らしてしまったその声に、先輩は驚いたように顔を上げた。
 そして、少し照れたように口元をゆるめた。
 その笑顔は、ギターの音よりも胸に響いた。

「……ありがと」

 たった一言。
 それだけなのに、心臓が跳ねるほど嬉しかった。

 そのあとも先輩は、俺をいろんな場所へ連れて歩いてくれた。

 駅前の大通りから少し外れた、細い路地裏にひっそりと佇むレコードショップ。
 ドアを開けると特有の古い紙と木の匂いが混ざり合っていて、壁一面には色褪せたジャケットが飾られている。
 先輩が指先で縦に並んだレコードをぱらぱらとめくる音が、妙に心地よかった。

「これ、昔よく聴いてたやつ」

「へぇ……先輩、こういうの聴くんですね」

 音楽の話で盛り上がっていると、気がつけば外の時間がゆっくり流れていた。

 それから訪れたのは、先輩が「たまに掘り出し物がある」と言っていた古着屋さん。
 外観は少し古びているけれど、中はきちんと手入れされていて、ラックには色とりどりのシャツやジャケットが並んでいた。

「これどっちが似合うと思う?」

「どっちも、似合うと思います!というか、先輩は何でも似合うんじゃ……」

「ちゃんと選べって」

 鏡の前に立つ先輩がそう言うので、俺もつい真剣な顔でどっちが似合うか悩んでしまう。
 シルエットが微妙に違うから、首を傾げて唸っていると、不意に先輩が耳元に顔を寄せた。

「瑚珀はどっちが好き?」

 その距離の近さにドキドキして、俺は「わ、わかんないです……」と情けなく顔を覆ってしまった。
 それを見た先輩は楽しそうに笑いながら、その後も近場の古着屋さんを二軒ハシゴした。

 どこへ行っても、俺たちは目立っていた。
 俺の服装はもちろんだけど、先輩自身も人目を引くタイプだから、視線が集まるのは仕方ない。

 ただ、時折あからさまな視線やひそひそ声が聞こえると、先輩はすぐに気づいて、そちらを静かに睨んだ。
 その眼差しは強くて、守られているようで、少しだけ胸がきゅっとした。

「気にすんな。見せとけ」

「……はい」

 そんなふうに肩を軽く叩いてくれるだけで、不思議と安心した。



 夕方が近づいた頃。
 先輩は、少しためらうような顔をしながら足を止めた。

「ここは普段行かない場所だけど……瑚珀、こういうの好きかなって思って」

 案内されたのは、アパートの一室を改装したような小さなお店だった。
 外観は控えめなのに、窓辺に飾られた小さなリースや手書きのポスターがやさしい雰囲気を醸し出している。

「SNSで見てさ。瑚珀、こういうの好きそうだなって」

 先輩は少し照れくさそうに顎をかきながら視線をそらした。
 その仕草がどうしようもなく優しくて、胸の奥がぽっと温かくなる。
 ただのデートで適当に入った店じゃない。
 俺の好みを思い浮かべて、わざわざ探して、ここまで連れてきてくれたんだと思うと、じんわり嬉しさが広がって、息まで柔らかくなった。

 看板には “permanent” の文字。
 その下に “handmade & select shop” と、手書きみたいな丸い字体で記されている。
 通りすがりの人なら見逃してしまいそうな、こぢんまりした外観なのに、そこだけゆっくり時間が流れてるみたいな空気が漂っていた。

 そっとドアを押すと、やさしいベルの音が鳴り、ほわんと甘い草花の香りが鼻先をくすぐった。
 店の奥から入ってくる光に照らされて、天井には色とりどりのドライフラワーのブーケがいくつも揺れている。
 赤や青、紫、それに名前も知らないくすんだ金色の花まであって、思わず息を呑んだ。

「すごい……」

 自然と漏れた声に、先輩が隣で小さく笑う。

「だろ? 絶対、瑚珀好きだと思った」

 ハンドメイド作家さんの作品を集めたセレクトショップらしいけど、どれも丁寧で、手作りという言葉から想像する素朴さをいい意味で裏切ってくる。
 アクセサリーだけじゃなく、刺繍の入ったポーチ、味のある布で作られたぬいぐるみ、小さな陶器の置き物まで、棚ごとに世界が違う。

 指先でそっと触れながら、一つひとつに作り手の呼吸みたいなのが宿ってる気がした。
 いつか俺も、服だけじゃなくて、こんなふうに“誰かの生活の片隅にそっと置かれるもの”を作れたらいいな――なんて、ふとそんな夢みたいなことまで思ってしまう。

 店主さんらしき、柔らかい雰囲気の女性がこちらに気づいて、にこやかに「いらっしゃい」と声をかけてくれた。
 先輩が軽く会釈を返し、俺もそれに続こうとした、ちょうどそのとき――

 ぶる、と先輩のスマホが震えた。

「……ごめん。ちょっと出てくる」

 胸ポケットからスマホを取り出しながら、少しだけ眉を下げる。

「下の入り口のとこで、待ってて」

 言いながら、いつもの癖みたいに、親指で画面を素早くスライドさせる。
 その声のトーンで、なんとなく分かった。
 学校の友達か、家族――そんな、“日常”の先輩の用事。

「はい……」

 そう答えたものの、胸の奥がちくりとする。
 ほんの少しだけ、デートの時間が現実に引き戻された気がして。

 外の階段に出ると、ひんやりとした夕方の空気が頬に触れた。
 さっきまでの店内のぬくもりが、嘘みたいに遠ざかる。

 空はオレンジ色に染まりはじめ、ビルの隙間から見える雲が、ゆっくりと群青に溶けていく。
 街のあちこちに、ぽつぽつと灯りがともり始めていた。

 ――先輩、まだかな。

 そんなことを考えていると、足音が近づいてくる。

 振り返った瞬間、ちょうど逆光の中に、先輩の姿があった。
 沈みかけた夕日を背負って、輪郭だけが浮かび上がっていて――ほんの一瞬、映画のワンシーンみたいに見えた。

「お待たせ」

 そう言って笑う先輩に、胸が小さく跳ねる。

 そのまま、なんとなく並んで駅へ向かって歩き出す。
 昼間より人の気配が濃くなって、街のざわめきが、少しずつ夜へと溶けていく。

 一歩、二歩。
 歩くたびに、先輩との距離が数センチずつ、近づいたり、離れたりする。
 肩が触れそうで触れない、その曖昧な隙間が、やけに落ち着かない。

「……そろそろ暗くなってきたし、帰る?」

 さりげない問いかけなのに、胸の奥がきゅっと締まった。

「あ……えっと……」

 ――帰りたくない。

 でも、それを言葉にする勇気が、どうしても出てこない。
 今日の時間が、あまりにも特別だったからこそ、終わってしまうのが、怖かった。

 俺が言葉に詰まっているのを、先輩はすぐに察したみたいだった。

「……俺、このあと、バンドの練習あってさ」

「あ……」

 それなら、仕方がない。
 邪魔するわけにはいかない。
 そう思って、鞄の持ち手をぎゅっと握りしめた、その瞬間だった。

 ――次の約束くらい、言おう。

 そう決めて、勇気を振り絞って口を開いた、その一瞬前。

 先輩が、ふいに、俺の手を取った。

 指先が絡むより少し控えめな、でも確かに包み込むような握り方。
 驚くほど、あたたかくて。

「……っ」

 びっくりして足を止めると、先輩は少しだけ照れたように視線をそらしたまま、ぼそっと言った。

「時間、あるなら……瑚珀も、観に来る?」

 胸が、一拍遅れて、どくん、と大きく跳ねる。
 沈んでいく夕暮れよりずっと速く、視界が、世界が、色づいていく気がした。