泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 先輩との蟠りがなくなってからは、ラインでのやり取りよりも、電話をすることのほうがずっと多くなった。

“文字だけだと、瑚珀が何考えてるかわかりにくいからさ。やっぱ、声で聞きたいじゃん”

 そんなふうに、さらっと言われたのがきっかけだった。
 照れる様子もなく、当たり前みたいに言うのに、俺のほうだけが一人で動揺して、胸の奥がうるさくなった。

 それからは、いつの間にか、それが当たり前になって。
 夜になると、自然とスマホを手に取ってしまう自分がいる。

 そして、今日も――
 放課後、渡り廊下を歩いていると、すれ違いざまに、ぐいっと腕を掴まれた。

 一瞬、心臓が跳ね上がる。

 振り向く前に、先輩は少しだけ距離を詰めて、周りに聞こえないくらいの声で、ぼそっと呟いた。

「……今夜、電話してもいい?」

 たったそれだけの一言なのに、耳の奥に、じんわり熱が残った。
 先輩の声は、低くて、少し掠れていて、やけに甘く聞こえる。
 それだけで、胸の奥がふやけそうになる。

「……は、はい」

 そう答えた声が、思ったより裏返ってしまって、先輩は小さく笑った。
 それがまた、ずるい。

 ――それからずっと、頭のどこかで、先輩の声が鳴りっぱなしだった。

 勉強をしていても、ノートの文字が上滑りする。
 お風呂に浸かっていても、天井を見上げたまま、今頃、先輩は何をしているんだろう、と考えてしまう。

 早く夜になってほしいのに、時間はやけにゆっくりで。
 でも、近づいてくるほどに、今度は緊張で胸が苦しくなる。

 ――あとは、もう寝るだけ。

 部屋の灯りを少しだけ落として、カーテンを引いて、ベッドに腰を下ろす。
 スマホを両手で包み込むみたいに持って、深く、小さく息を整える。

 まだ、鳴っていないのに。
 それなのに、もう心臓はうるさいくらいに脈を打っていた。

 画面に映る「通話」の文字。
 その向こうに、先輩の声がある。

 指先が、わずかに震えているのが自分でも分かる。
 ただ話すだけのはずなのに、どうしてこんなにも、胸が高鳴るんだろう。

 ――意を決して、通話ボタンを押す。

 その瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられて、世界の音が一瞬、遠くなった。
 毎晩のように繰り返しているはずなのに、このときめきだけは、どうしても慣れてくれなかった。

『あー、瑚珀ごめん。弟たちが全然寝なくて』

 通話がつながった瞬間、耳に流れこんできたのは、先輩の少し疲れた、でもどこか優しい声だった。
 その奥には、きゃらきゃらと弾けるような子どもたちの笑い声。
 ドスン、と何かが倒れる音。
 続いて飛んでくる、少し荒っぽい叱り声。

 ――ああ、本当に賑やかな家なんだ。

 七人兄弟だと聞いた日の、あの現実味のない驚きが、今さらになって蘇ってくる。
 俺は、実際に見たこともないはずのその光景を、なぜだかやけに鮮明に思い浮かべてしまった。

 散らかったリビング。
 走り回る弟たち。
 その中心で、少し困った顔をしながらも面倒を見る、先輩の姿まで。

『……大丈夫ですか? 邪魔だったら、切りますけど……』

 遠慮がちにそう言うと、間髪入れずに先輩が返してきた。

『あー、ちょっと待ってくんない?』

 受話口の向こうで、コホン、と大きな咳払い。
 次の瞬間に響いたのは、学校ではあまり見ることのない、容赦ない“兄”としての声だった。

『お前らマジでさっさと寝ろ!
 ……はぁ? うるせぇ、黙れ。明日寝坊すんぞ』

 けれど、その一喝で大人しくなるかと思いきや、弟くんたちは逆にテンションが上がったらしく、ギャハハ、と笑い声が一段と大きくなる。

 その様子が目に浮かんで、俺は思わず口元を押さえて笑ってしまった。
 学校では落ち着いていて、ちょっと怖いくらいの先輩。
 それなのに、家では振り回されてるのかもしれないと思うと、胸の奥がくすぐったくなる。

 しばらくして、騒がしさが少しだけ遠のく。
 それから、ふっと疲れの混じった、いつもの先輩の声に戻った。

『……で。明日のデート、瑚珀。どっか行きたいところある?』

 その一言で、胸が小さく跳ねた。

 ――デートなんだ。

 そう意識した途端、布団の上で膝を抱える指先まで、じんわり熱を持つ。

 少し迷ってから、意を決して言った。

『……えっと。よかったら、なんですけど』

『うん』

『先輩の……いつも行ってるところに。連れて行ってほしいなって……』

 言ってしまった瞬間、布団の端をきゅっと握りしめる。
 顔が熱い。
 耳まで赤くなっている気がする。

 でも、先輩は驚くほどあっさり、いつもの調子で言った。

『わかった』

 その一言だけで、胸の奥がふわっと軽くなる。

『瑚珀、明日どんなの着てくる?』

 その問いかけに、俺は電話を耳に挟んだまま、そっとベッドを抜け出して、クローゼットの前に立った。
 扉を開けると、ずらりと並ぶロリィタ服。
 ――どれなら、先輩にいちばん、よく見えるだろう。

 白。
 ベージュ。
 ピンク。
 ハンガーに触れたまま、しばらく指が動かなくなる。

『……えっと、まだ悩んでて』

『あとで写真送って。似合ってるほう、俺が選ぶから』

 そんなことを、まるで当たり前みたいに言うから。
 心臓が、またひとつ大きく跳ねた。

 ――先輩が、俺の服を選ぶ。
 その事実だけで、胸が苦しいほどに高鳴る。

 そのあと、待ち合わせの時間を決めて。
 「遅れるなよ」「はい」と他愛ないやりとりをして、ようやく通話を切った。

 スマホの画面が暗くなる。

 急に静かになった部屋の中で、先輩の声だけが、まだ耳の奥に残っている気がした。
 弟たちを叱る声。
 優しく名前を呼ぶ声。
 明日のことを聞いてくれた声。

 ――明日、先輩と、二人で出かける。

 胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
 少しこわくて、でも、それ以上にどうしようもなく楽しみで。

 布団に潜り込んでも、しばらくは目を閉じられなかった。