泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 文化祭を二週間後に控えた金曜日。

 俺は、ようやく作品を仕立て終わり、今日は家庭科室ではなく調理室に居た。
 ここのところ、裁縫や布ばかり触っていたから、たまには調理もやらなきゃ――そんな気持ちで、クリスマスケーキの練習を兼ねてケーキのスポンジを焼いていた。

 オーブンの前に立ち、少しずつ膨らんでいく生地をじっと見つめる。
 ほんのりと漂う甘い香りが、心を少しだけ落ち着かせてくれる。
 今日は、うまく焼けそうな予感がしていた。

 スマホを取り出して、どんなデコレーションにしようかと画像を検索する。
 クリームの色合いやフルーツの配置、チョコレートの細工……あれこれ考えているうちに、ふとカメラロールの隅に目が止まった。

 先輩とコハネとして、二人で撮ったツーショット。
 指先がスマホの画面に触れるのをためらった。
 触れれば、心臓が今以上にぎゅっと締め付けられそうで。
 あの日の先輩の視線、笑い声、腕に触れた感覚――思い出すだけで、胸の奥が甘く痛む。

 完成したスポンジを少し冷ましながら、俺はそっと生クリームをナッペする。
 イチゴは用意できなかったから、絞りでいろんな形を作り、ちょっとずつ表情をつけていく。

「出来た……」 

 完成したケーキを前に、スマホで写真を撮ろうとしたその時だった。
 控えめに、けれど確かにドアをコンコン、とノックする音がした。

「上野。……今、話いい?」

 低く、けれどどこか遠慮がちにそう尋ねる声が、ドアの向こうから届いた。

 顔を上げると、そこには九藤先輩が立っていた。
 ポケットに両手を突っ込み、背を壁に預けるようにしながら、いつもの威圧感は影を潜めて、ただ静かにこちらを見ている。

 直接言葉を交わすのは、あの日以来。もう二週間ぶりだ。
 喉の奥がひりつくように乾き、呼吸が詰まりそうになる。
 俺は、震えそうになる指先に力を込めて、そっと生クリームの絞りをテーブルに置いた。

 言葉を探して口を開こうとした、その前に――先輩はゆっくりと部屋に入ってきて、俺の斜め向かいの椅子に腰を下ろした。

「俺なりに……その、いろいろ考えたんだけどさ」

 そう切り出した先輩の声は、驚くほど静かだった。
 いつもみたいな強気さも、周りを圧する自信もなくて、まるで壊れものに触れるみたいに慎重で。

 ――俺を怖がらせないように、言葉を選んでる。
 それにきっと、先輩ですら、自分の気持ちを口にするのが、少し怖いんだ。

 調理台に寄りかかったまま、先輩は視線を逸らしたまま、ぽつぽつと言葉を落とす。

「最初はさ……正直、騙されたって思ったし。
 バカにされたのかって、めちゃくちゃショックだった。
 でも……よく考えたらさ」

 一拍、間があった。

「どっちも、上野瑚珀なんだよな」

 その一言に、思わず息を呑んで顔を上げる。

 ロリィタを着る“コハネ”と、着ない“上野瑚珀”。
 俺ですら、その二つの自分に心の中で線を引いて切り分けていたのに。

 先輩は、まっすぐ俺の目を見て言った。

「ロリィタ着てる時の『コハネ』も、普段の『上野』もさ、どっちも同じお前で。
 性別とか、ぶっちゃけこだわる必要もねぇじゃんって思ったし。
 そう考えたら……俺、普通に『ロリィタが好きな上野瑚珀』を、
 最初から好きになってたんじゃねーのかな、って思った」

 淡々とした口調なのに、その一言一言が胸の奥に深く沈んでいく。
 少しだけ眉を下げて、先輩は続ける。

「ずっと会ってなかったしさ。連絡もしなかった。
 でも……それでも。
 お前のこと、二重の意味で『好きだ』って気持ちは、全然変わんなかったわ」

 その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
 隠してきたものも、分けて考えてきた自分も、
 全部まとめて抱きしめられたみたいで。

 頭のどこかでずっと覚悟していたのは、責める言葉や、失望の声だった。
 なのに、先輩の口からこぼれたのは、まるで真逆の想いだった。

 張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
 冷たいと思っていた世界が、急に温度を取り戻したみたいに、目の前の景色が柔らかく滲んでいく。

「てゆーか、学校で会った時に言えよな!……本人に恋愛相談して、ムダに恥かいたわ」

 先輩は照れ隠しみたいにそう言って立ち上がると、間近まで来て、俺のおでこに軽くデコピンをした。
 軽い衝撃のはずなのに――鼻の奥がツンと痛み、視界が一気に滲む。

 先輩は俺の顔を覗き込み、驚いたように眉を上げた。

「え、マジか、痛かった?」

「く、九藤先輩……ご、ごめ、なさい……」

 堪えていたものが、とうとう決壊して、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
 止めようとしても、どうしても止まらなかった。

 先輩は、信じられないくらい狼狽えた表情になって、慌ててポケットを探り始める。

「マジごめん、俺、ハンカチもティッシュもねーわ」

 そう言いながら、袖口で乱暴に――でも、不器用なくらい一生懸命に、俺の涙を拭おうとしてくれる。
 その仕草がたまらなく優しくて、たまらなく愛おしくて、涙はますます、止まらなくなった。



 俺の涙が少し落ち着くと、間にケーキを挟む形で、先輩と向かい合わせに座っていた。
 あの日のぎこちなさや罪悪感が少しずつ溶けて、今はただ、甘い匂いと温かい空気の中にいる自分がいた。

「めっちゃ美味そう。マジで食って良いの?コレ」

 先輩の目が子どもみたいに輝いていて、胸がぎゅっと熱くなる。
 俺は小さな声で、「い、いいですよ」と答え、ささっとフォークを渡す。
 まさか、作ったケーキを先輩に食べてもらえる日が来るなんて思っていなかった。
 心の中で、もう少し頑張ればよかった、もっと丁寧にデコレーションすればよかった、と小さな後悔がよぎる。

「うわー、俺、兄弟多いからさ。こういうの一人で食ってみたかったんだよね」

 先輩は楽しそうに言いながら、フォークを大きく口に運ぶ。
 その仕草が無邪気で、見ているだけで胸の奥がふわっと温かくなる。

 俺も恐る恐る一口掬い、口に運ぶ。
 味は悪くない。むしろ、先輩の表情が加わることで、いつもより美味しく感じる。

「……兄弟って、何人いるんですか?」

「え、ちょい待って……兄貴は家出てったから、俺と……」

 指折り数え始める先輩の手元を見て、俺は驚いた。
 そんな大家族だったとは。

「たぶん、俺入れて七人だわ」

 ざっくりした答えに、思わず笑ってしまう。
 想像するだけで、家の中が賑やかで楽しそうに思えた。

「……瑚珀は?一人っ子?」

「はい」

「だよな。じゃなきゃ、あんな部屋に住めるわけねぇもん。俺の部屋なんかねーし」

 先輩は暗に、以前送った部屋の写真を指摘した。
 ちょっと気まずくなる俺を見て、先輩はフォークを置き、言葉を続ける。

「他にロリィタの服って、どんなの作ってんの?」

 少し緊張したまま、戸惑いながらスマホを取り出し、画面を差し出す。
 先輩は身を乗り出すようにして、食い入るように画面を覗き込み、次第に目を輝かせていった。

「うわ……すげぇ。なにこれ、色も形も全然違うじゃん。これ、全部お前が作ったの?」

「……はい」

 先輩はスマホを横にスライドさせ、次々と画像を追っていく。
 その指先の動きに合わせて、俺の胸も小さく波打った。
 まるで、自分の一番奥にしまい込んでいた場所を、静かに覗かれているみたいで――恥ずかしくて、でも、不思議と嫌じゃなかった。

「……すげぇな。ちゃんと自分の世界つくってんじゃん、お前」

 ぽろっと零れたその一言が、胸の奥にじんわり落ちる。

「……普段からさ、そんなにコソコソしないで、可愛いもんが好きなの、素直に出せばいいじゃん」

 背中をそっと押されるみたいな言葉に、心の奥がぽうっと温かく灯った。
 ――それでも、すぐには頷けなくて。
 少し黙ってから、絞り出すように言った。

「……小学生の時、変だって、からかわれたことがあって……。
 街でも、ロリィタってだけで指差されること、ありますし。
 学校でも……クラスメイトとか、他の人に何か言われるかもって思うと……怖くて」

 言葉にしてしまえば、みっともないくらい弱くて、臆病な自分が浮き彫りになる。
 視線を落とすと、先輩は一瞬だけ目を丸くして――次の瞬間、冗談みたいな口調で言った。

「はぁ?……そんなの、誰かがいじめてきたら、俺がぶっ飛ばすに決まってんだろ。
 ギッタギタのボッロボロにしてやるわ」

 あまりにも乱暴で、でも迷いのない言い方が可笑しくて、気づけば小さく笑ってしまった。
 先輩はあの日みたいに頬杖をつき、にやりと笑う。

「やーっと笑った。……マジでさ、さっきから引き攣り笑いしかしねえから、俺まで緊張してたわ」

 ぐしゃ、と頭を撫でられる。
 その乱暴なのに優しい感触に、胸の奥がとろとろに溶けていく。

 先輩は少しだけ見下ろすようにして、ゆっくり、はっきり言った。

「瑚珀はさ。隠れてる時より、好きなもんに正直な時の方が、ずっといい顔してる。
 ……俺が見惚れるくらい、可愛いんだから」

 その言葉に、息を飲んだ。
 胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
 「変だ」と言われ続けてきた自分が、「可愛い」と言われる。
 その事実が、まっすぐ心を撃ち抜いてくる。

 思わず口元を手の甲で押さえると、先輩もつられたように視線を逸らし、窓の方を見る。
 耳の外側だけが赤く染まっているのが、やけにはっきり見えた。

 その沈黙の中に、二人だけの甘くて、温かくて、逃げ場のない空気が満ちていく。

 ケーキの甘さよりも、先輩の言葉の甘さに、酔ってしまいそうだった。

「――瑚珀」

 そっと名前を呼ばれただけで、胸がきゅっと締め付けられる。
 顔を上げると、先輩は少しそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに続けた。

「……お前が嫌じゃなかったらさ。また、出かけたりしたいんだけど」

 頬杖をついたまま、照れくさそうに、でも逃げずに俺の顔を覗き込む。
 膝の上で、小さく拳を握る。
 喉が渇いて、唾を飲み込む音だけが、やけに大きく響いた。

「……えっと。それは……」

 言葉に詰まった俺に、先輩はすぐに柔らかく付け加える。

「フツーにさ。お前が好きな、ロリィタの服で来いよ」

 その一言が、胸の奥にストンと落ちる。
 ――着ていいんだ。隠さなくていいんだ。
 そう言われた気がして、目の奥が、熱くなった。

「……お前が好きっつーか。俺が、それ着てるお前を好きなだけなんだけど」

 言葉のひとつひとつが、胸の内側に甘く溶け込んで、体温みたいに広がっていく。

「あ、あの……す、少し待ってください……恥ずかしくて、本当におかしくなりそうです……」

 思わず両手で顔を覆うと、先輩はふっと小さく笑った。

「いや、こんなん言ってる俺の方が、普通に恥ずい。……で、返事は?」

 断る理由なんて、どこにもなかった。
 胸が壊れそうなくらい高鳴る中で、俺は、小さく、でも確かに答えた。

「……行きたいです」

 その一言を聞いた瞬間、先輩は安心したように胸を軽く撫でおろし、勢いよく残りのケーキを口に運んだ。
 まるでお茶漬けをかき込む子どもみたいな勢いで。

「……ごちそうさん。また、あとでメッセするから」

 立ち上がる先輩の背中を見送りながら、俺はまだ熱の残る胸を押さえ、小さく、確かに頷いた。