泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

「おはよ」

「おはようございます」

 挨拶のあと、先輩の視線が俺の髪にそっと触れるように落ちた。
 プレゼントでもらったヘアピン。その小さなモチーフを見つめたあと、先輩は一歩近づいて耳元で囁く。

「すげー可愛い。似合ってるよ、コハちゃん」

 一瞬で、体温が顔に集まるのが分かった。
 学校で見せる飄々とした態度とは違う、甘さが混ざった声。
 そのギャップに心が追いつかず、胸の奥で変な震えがずっと続いている。

 先輩は、俺が行きたいと言っていた うさめろのコラボカフェ に迷いなく案内してくれた。

「待って、これすっげぇじゃん。……めっちゃ美味そう」

 メニューをめくるたび、先輩が素直に驚くのが嬉しくて、くすぐったい。
 俺がケーキセットを選べば、「こっちの方がよくね?」なんて言いながら、ちょっと高い方をさっと選んでくれる。
 そんな気前のよさが、優しさと一緒に胸に染み込んでいく。

 ケーキの写真を撮っていると、先輩が頬杖をついて静かに見つめているのに気付いた。
 その姿は、家庭科室で真剣に俺の話を聞いてくれたときと同じで、頭の中で姿が重なる。

「……あの、どうかしましたか?」

 思わず問いかけると、先輩は照れたみたいに笑ってスマホをいじりながら言った。

「ごめん、普通に見惚れてたわ。コハちゃん、マジでお姫様みたいなんだもん」

 さらっと言うのに、破壊力がえげつない。
 まっすぐ刺さる言葉ばかり投げられて、心の中で悲鳴をあげるしかない。

 カフェを出たあと、人気のない公園のベンチで他愛もない話が続いた。
 先輩が友達とやった悪ふざけの話や、先生を怒らせたエピソード。
 俺とは全然ちがう日常なのに、不思議と距離が縮まっていく感じがした。

「コハちゃん、お願いがあんだけど」

「はい?」

「写真。撮ってもいい?」

「いいですよ」

 カメラを構えた先輩が、自然な仕草で俺の肩に手を添える。
 その距離の近さに、急に呼吸が浅くなる。
 どうポーズを取ればいいか分からず戸惑うけれど、とりあえず顔の横で指ハートを作った。それを見た先輩の横顔がほんのり笑っていて、それだけで胸が高鳴った。

 ――カシャッ。

 撮り終わった写真を、先輩はすぐ送ってきて、満足そうに笑う。

「ありがと」

「……送って貰っていいですか?」

「いいよ、今送信しとく」

 声が沈むと、ふたりの間に静けさが落ちた。
 でも重くはない。

 胸の奥がぽうっと熱くなる、甘い沈黙だった。

 ゆっくり顔を上げれば、先輩の視線が揺れている。
 迷っているような、何か言おうとしているような、その気配に心臓が一段跳ねた。

 ――この空気って、もしかして。

 胸の奥に、小さな予感が生まれる。
 うれしさと怖さが入り混じって息が詰まりそうで、俺は耐えきれず立ち上がってしまった。

「あ、あの。ごめんなさい……今日は早めに帰らなくちゃ、いけなくて」

「……そっか。じゃあ、駅の方戻ろっか」

 ほんの少しだけ表情を曇らせて、先輩はポケットに手を突っ込む。
 並んで歩き出すと、さっきより距離はあるのに、歩幅だけはちゃんと合わせてくれた。

「今度はどこ行きたい?」

 沈黙を埋めるみたいに、先輩は次の予定をさらっと差し出してくる。
 だけど、その優しさを受け取る手が、妙に冷えていた。

「……考えておきますね」

 笑いながら返した声は、自分でもわかるほど弱かった。

「今日もありがと」

「こちらこそです、それじゃあまた……」

「うん、気をつけて帰れよ」

 いつものように改札の手前で別れて、先輩が反対方向へ歩いていく背中を見送る。
 このまま手を振っていればいいだけなのに、胸の奥がざわついて呼吸が浅くなる。

 ――次に会ったら、きっと告白される。

 そんな確信めいた予感が、嬉しいのに怖くて、身体のどこにも置き場がない。
 だから俺は、逃げるみたいにロッカーへ向かった。

 扉を開けると、日常の自分が詰まっている。
 その雑多な現実に触れただけで、さっきまでの“コハちゃん”が急に薄くなる気がして、胸がぎゅっと縮む。
 荷物を抱え、辺りを渡し、人が殆どトイレに出入りしていないのを確認する。
 視線を落としたまま、一番奥の男子トイレの個室ドアに手をかけた。

 ――その時だった。

「えっ?」

 顔を上げると、トイレの入り口に、九藤先輩が立っていた。
 さっき別れたばかりの、あの先輩が。

「……コハちゃん、どうしたの?」

 声は落ち着いているのに、目だけはまっすぐ刺さるみたいに鋭かった。
 なんで? なんでここにいるの?
 さっき、あんなに遠くまで歩いていったのに。確かに見えなくなるまで見送ったのに。

 動揺を隠せない俺に、先輩がゆっくり近づいてくる。
 足音が、逃げ道をひとつずつ消していく。

「あの……」

「何でこんな所に居んの? 変なヤツに連れ込まれたとかじゃないよね?」

 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で心臓がひっくり返りそうにった。
 “普通の女の子はこんな場所に来ない”――その前提に気づいてしまったから。

 トイレの中には俺と先輩しか居ないし、その可能性はないと判断した先輩は、今までに見たことがないくらい、深く疑うような視線を俺に向けた。

「えっと……その……間違えて……」

「いや、それはさすがに無いって」

 静かで強い声。誤魔化しも逃げ道も、一瞬でふさがれた。
 その瞬間、恐怖なのか、罪悪感なのか、言葉にできない感情が喉につかえて息が荒くなる。
 視界がじんわり滲んで、頬が震える。

「ちょっと、近くで話せる?」

 先輩は俺の大きな鞄を一瞥したあと、人気のないほうへと歩き出した。
 逃げたいのに、足がついていく。
 もう全部見透かされている気がして、胸の奥がぎゅーっと締め付けられる。

 並んで立ったまま、しばらく沈黙が落ちる。
 気まずいわけじゃなくて、言えば終わるのが分かっている沈黙だった。

「……単刀直入に聞くけどさ」

 先輩はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
 その火が小さく揺れるのと同じ速度で、心臓が跳ねる。

「コハちゃんってさ……男、だったりすんの?」

 確信に近い声。
 逃げ場のない質問。
 胸がきゅうっと痛んで、呼吸が止まりそうになる。

「……はい」

 声が、震えよりも小さく出た。
 その瞬間、俺の中で“コハちゃん”が音もなくしぼんでいく気がした。

 先輩はゆっくりと煙を吐き、俺を全身で見た。
 確認するように、確かめるように。

「てか、なんで男なのにそういう服着てんの?女になりたいってこと?」

「え、えっと……その、こういう服が好きなだけで、女の子になりたいとかじゃないです」

「でも、女として振舞ってたよな?……俺のこと、騙して面白がってたんじゃねーの」

 違う。それは違う。
 「俺」が先輩に片想いをして、一緒に居るために演じていただけだ。
 「上野瑚珀」は、コハネに夢中な九藤先輩の眼中には、入らないから。

 けど、この状況じゃどんな言葉も信じて貰えないくらい、薄っぺらくなりそうで俺は首を左右に振るので精一杯だった。

「……性別以外にも、俺に隠してることってある?」

 その問いが胸に刺さる。
 隠したことばかりだ。
 嘘の積み木だけで積み上げた“コハちゃん”だ。

「……名前も、嘘です」

「だよな。……本当の名前、何?」

 ワンピースのフリルをぎゅっと握る。
 布にしがみつかないと声が出ない。

「……瑚珀。
 上野、瑚珀です」

 そして、先輩が何かを言うより先に、俺はウィッグに手を伸ばした。
 ネットごとつかんで、一気に外す。

 短い黒髪。
 “コハちゃん”の象徴だった長い髪が手の中でくったりと揺れる。

 その姿を見た先輩は、凝視して完全に言葉を失っていた。

 ただ、瞳の奥だけが、見ていて胸が痛くなるほど揺れている。

「……あー……マジか……」

 ようやく絞り出すみたいに落ちた先輩の声は、今までで一番低かった。
 その一言が空気をざらりと変えて、肌の上を冷たいものが這うみたいに震えが走る。

 ロリィタの“コハちゃん”と、家庭科室で話す“俺”が一本の線で繋がってしまったんだ。

 先輩はタバコを足でぐっと踏み消すと、片手で両方のこめかみを覆い、目元を隠したまましばらく俯いていた。
 その姿は怒っているようにも、呆れているようにも、ただ混乱しているようにも見えた。

「あの……」

 小さく声をかけても、反応がない。
 顔を上げてくれる気配もない。

 でもここで黙っていたら、一生後悔すると思った。
 どれだけ惨めでも、言わなきゃいけないことがある。

「ごめんなさい、九藤先輩。
 俺、良くないことだって、もうやめなきゃって思ってて……
 でも、先輩と一緒に過ごす時間が楽しくて……っ」

 言葉が熱に変わって、口からあふれるたびに自分でも何を言ってるのか分からなくなっていく。
 楽しかった気持ちも、罪悪感も、怖さも全部ごちゃ混ぜになって、声が不安定に揺れた。

 先輩は、そんな俺を遮るように、ふっと手を前に出した。

「ごめん。……俺、今ちょっとパニクってるから。
 一旦、頭整理させてくんない?」

 その声は怒鳴り声じゃなくて、ひどく疲れた声だった。
 聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 先輩はゆっくり立ち上がり、ポケットにタバコをしまうと、俺の横を通り過ぎていく。

「今日は帰る」

 ただそれだけ。
 けれど、その短い言葉が突き刺さるほど重かった。

 すれ違う一瞬、先輩の横顔が見えた。
 ひどく傷ついた顔だった。
 絶望と怒りの間みたいな、どうしようもない苦い表情。

 ――その表情に、なぜか俺まで胸が痛くなる。

 傷つけたのは俺なのに。
 なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。

 自分でも分からない痛みに立ち尽くしたまま、先輩の背中が小さくなっていくのをただ見ているしかなかった。



 家に帰ると、俺は先輩にプレゼントしてもらったヘアピンを、アクセサリーボックスの一番下の段にそっとしまい込んだ。

 手のひらで包み込むように、丁寧に――まるで自分の気持ちも一緒に押し込めるように。
 先輩への気持ちも、見えないようにしまい込みたかった。

 週が明けても、九藤先輩からのラインはぴたりと途絶えたままだった。
 見送った時のあの少し苦い表情が、脳裏に焼き付いて離れない。

 学校では、他学年のフロアにはほとんど行けず、先輩に会うことはほとんどなかった。
 けれど、移動教室の途中で偶然先輩の背中を見かけたり、グラウンドで体育をさぼっている姿をちらりと目にすることはあった。
 声をかけようと思えばかけられた。

 でも、嘘つきで、自分を守ることに長けている自分には、その勇気がなかった。

 放課後も、文化祭に向けてトルソーを仕立てるため、活動日以外でも家庭科室にこもっていた。
 針を動かす手は正確に動いているはずなのに、心ここにあらずで、布に触れる感覚が遠くなる。

 窓の外に見える夕焼けの空を、ぼんやりと眺めながら、
 先輩に会いたい気持ちと、嘘をついた自分への自己嫌悪がごちゃ混ぜになったまま、時間だけが過ぎていく。

「……痛っ」

 待ち針が、指先に刺さっていた。
 赤い点がじわりと浮かんで、布の白に小さな染みを作る。

 慌てるほどのことでもない。
 こういうのは、洋裁をしていればよくある。
 集中を欠いた手元に、針が正直な答えを返してくるだけだ。

 水道で軽く血を流して、引き出しから絆創膏を一枚取る。
 消毒液の匂いが鼻をついて、指に巻きつける動作は驚くほど機械的だった。

 布を縫うとき、ズレたところはほどいて縫い直せばいい。
 歪んだ線も、少し引っ張って、アイロンを当てれば誤魔化せる。

 ――でも。

 心に空いたこの穴は、どんな糸で縫えばいいんだろう。
 どこからほつれ始めたのかも分からないまま、
 気づいたときには、もう触るのが怖いほど、ぐちゃぐちゃになっている。

 指の痛みは、絆創膏一枚で隠せた。
 けれど、胸の奥に刺さったままのものは、見えないからこそ、処置の仕方が分からない。

 ――ちゃんと、測ってから裁てばよかった。
 先輩の気持ちも、自分の気持ちも。

 そう思いながら、俺はもう一度、何事もなかったふりをして、針を布に落とした。