駆け込んできた男性。
彼の『住み込みバイトの面接をお願いした、時岡洋平と申します』という一声を聞いて、ボクは二つのことを同時に思った。
一、バイト志望者の『本命』が現れ、ボクの採用は取り消される。そしてこの旅館を追い出され、いよいよ本当に迷い猫になる。
二、確か、亡くなった先代で真白さんの旦那さんの名前は洋平さん。今日は二人の運命の出会いの日。二人が結ばれる出発点。
となると、この時代の『異物』であるボクは、二人の出会いを邪魔しないためにも、『一、』を甘んじて受け容れなければならないのだ。
両膝に手をつき、犬のように舌を出してハアハアと息をしながらアゴを上げ、真白さんとにらめっこしている洋平さん。人間の年齢で二十代後半くらいか? ボクが時雨庵にやって来た時はすでに洋平さんは他界していたので、実際に会ったことはない。ベテランの従業員さんの話によると、旦那さまを失った悲しみを紛らわすために、ボクを飼い始めたらしい。
真白さんの和室に小さな仏壇があり、そこの写真に収まっている洋平さんは、銀縁メガネ越しに頼り無さそうな垂れ目。ボクの目の前にいる男性の顔の特徴とおんなじだ。
意を決してボクは真白さんに申し出る。
「真白……若女将さん、ボクは嘘をついていました。この旅館のアルバイトの応募なんてしていません。この方(と言って洋平さんをチラ見)に採用を譲ります。申し訳ありませんでした」
真白さんは、ぽかんと口を開け、ボクを見つめたかと思うと、今度は洋平さんの顔を凝視した。カウンターのユキさん(白い猫)も首を動かして右に左にとボクと洋平さんを見比べたが、退屈したのか、あくびをしてカウンターに両前脚を揃えアゴを乗せた。
「黒田君……だっけ? そうだったのね。確かに様子がおかしいとは思ってたけど。朝早くから人の家に上がり込んでてさ。ひょっとしてあなた、痴漢か何か? それとも変態?」
「両方とも違います! これには深い訳が……」
「何なのよ、言ってごらんなさいよ」真白さんが疑い半分、興味半分で聞いてきた。
「あ、あの……お取り込み中すみませんが、私はどうすればいいでしょうか?」
遠慮がちにボクたちの会話に割り込んできた洋平さんをああそうだったわねと真白さんが一瞥し、彼に問いただした。
「時岡さん……だっけ? あなた確か約束の時間は九時だったわよね? 今何時だか知ってる?」
そう言われて彼は玄関の柱時計を見た。
「……あ、あの九時二十七分です。申し訳ありません。迷子のお年寄りを助けてて……」
「ああ、さっきもそう言ってたわね。じゃあ、その訳、詳しく聴かせてもらおうかしら……いや、ちょっと待てよ……」
彼女はそう言うと、あごに右手の人差し指をあてて、洋平さんとボクの顔を交互に見た。そしてボクたちをソファに座らせ、自分は向かいに腰かけた。
「よし、じゃあこうしよう! 黒田君はなぜ早朝からこの旅館に忍び込んだか? 時岡さんはなぜ面接の時間に遅刻したか? 面白い言い訳をした方を採用します!」
そう言って若女将さんは邪悪にニヤリと微笑んだ。
「「ええ!!」」
ボクと洋平さんは同時に驚愕の声をあげる。
……そうだ、思い出した。真白さんは、ちょっと常識からズレているというか、変人というか(同じことか)時々突飛なことを言ったりやったりして周りの人を困らせたり笑わせたりする。大番頭の源さんなんか、何度その餌食になっていたことか。
「じゃあ、時岡さんの方が年上みたいだから、先攻でどうぞ。だいたいさ、『迷子のお年寄りを助ける』って何かテンプレ的な話で想像がつくし」
「何ですか、そのテンプレって⁉」
再び驚く洋平さん。
『テンプレ的』ってこの1984の時代にも使っていた言葉なのだろうかとボクは疑問に思う。
「さあ、時岡さん」
真白さんが促す。
「……あの、京成線の行商専用車って知っていますか? 通勤電車の最後尾にあるやつ」
「うん、知ってるわよ」
「私が京成上野駅で降りて改札口を出たら、その行商専用車を使って野菜を担いで来たお婆ちゃんが、他の行商のお婆ちゃんたちとはぐれちゃったらしいんです」
「それは大変だったわね……でどうしたの?」
「そのお婆ちゃん――カメさんっていうんですがね――行商デビューだったらしくて、どこに行ったらいいかわからないっ、ていうので案内してあげたんです」
「そうよね、そのまま放っといちゃ可哀そうよね、GoogleMapもないしね」
ん? 真白さん今GoogleMapって言わなかった? 洋平さんはきょとんとした表情を浮かべて話を続けた。
「確か、行商はよくアメ横の路上でやっているって話を聞いたので、そこに連れて行ってあげたんです……重い荷物を担がされました」
「で、ちゃんと目的地に着いたの?」
「はい、『海龍宮』っていう中華料理店の前で無事、行商仲間たちと合流することができました」
「それは何より。でもそこって、この旅館からそんなに離れてないから、遅刻しなくなくナイ?」
若女将がナゾのギャル語? で問いただす。
「そうなんですが……行商グループのリーダー――愛称オトヒメさんって言うんですがね――が、『えらく助かっちゃってさ。この行商でお惣菜も売ってんだけど、よかったら食べてってくんちぇ』と言って、売り物の総菜で私をもてなしてくれたんです……断り切れなくてご馳走になり、それで遅刻してしまいまして……」
「それって千葉弁かしら?……カメさんに、『海龍宮』にオトヒメさん……なんか浦島太郎のパロディみたいだけど……時岡さん、これってネタじゃない?」
真白さんが疑いの眼差しを太郎さん、じゃなかった洋平さんに向ける。
「いえいえめっそうもない! 決してそんなことは……あそうだ」
と言って彼は持ってきたボストンバッグを開け、ゴソゴソと何かを取り出した。
「これ、お礼にとカメさんがくれた野菜です。遅刻のお詫びと言っては何ですが、若女将さんに差し上げます」
真白さんに差し出されたものは、大きな大根とサツマイモ。
「まあ、ありがとう。これに免じて信じてあげる……そうね、面白さで採点すると七十点というところかしら」
「えっ、厳しくないですか?」不満そうな時岡さん。
「そんなことないわよ。アタシの採点基準だと、五十点が『まあまあ』だから」
そう言って彼女はボクに向き直った。
「では、黒田君のキミの番よ。面白い話、聞かせてね♥」
……この人、若女将の仕事は大丈夫なのだろうか?
と思っていたら、老夫婦の宿泊客がお帰りのようで、彼女は一瞬で玄関に移動し、担当の仲居さんと一緒にお客さんの靴を並べ、外に出ると『またのお越しを心よりお待ち申し上げております』と挨拶をして、老夫婦の姿が見えなくなるまで深々とお辞儀をした。
と思ったら、ダッシュで戻ってきてソファに座り直した。
「さあ、黒田君、はやくー!」真白さんかオネダリする。
ボクは洋平さんの話を興味深く聞いていたので、『作り話』を考える余裕はなかったし、真白さんの未来の旦那になるべき人に勝負を挑んで勝つつもりもなかった……だから、正直に話そう。それで『変なヤツ』と思われて、旅館(ココ)から追い出されよう。
ボクは、ぬるくなって飲み頃になったお茶をゴクゴクの飲み干し、話し始めた。
「実はボク、未来からやってきました」
二人の反応は……洋平さんは訝し気な表情を浮かべたが、真白さんは『ふーん』と言っただけだった。カウンターに寝そべっている白猫のユキは、目も開けずに一度だけ耳をピクッと動かした。
「そういう話って悪くないわね」
と若女将。やっぱりネタだと思っているのだろうか。
「で、未来っていつごろ?」
「2026年……です」
「今から、四十年くらい先か……で、そこではあなた、どこで何やってたの?」
うーん、言うべきか?
「ここ、時雨庵で……黒猫やってました」
「「く、黒猫⁉」」
二人は驚きと好奇の声を上げた。
「……で、どうしてここ、1984年の時雨庵に来たの?」
「そ、それはですね」
この後の話が難しい。何せ、2026年に大女将をやっている真白さんと、すでにこの世を去った洋平さんの話に関わってくるからだ。
「ざっくり言いますと……その時代の『朝霧真白』さんに、ウォークマンでシンディ・ローパーの『タイム アフター タイム』を聴かせてもらったら寝てしまって。気がついたら、この時代に来ていたのです」
「黒猫の君にアタシが『タイム アフター タイム』を聴かせたって言うの?」
「ええ、まあ」
やっぱり作り話だと思ってるだろうな。
「く、黒田君……それは本当なのか?」
ついさっきまで訝しそうにしていた洋平さんが震える声でそう言った。銀縁眼鏡の向こうの黒目が小さくなっている。
彼は数秒、虚空を見上げた後、さっき野菜を取り出したボストンバッグをゴソゴソと探り、何かを取り出した。
右手に小さな青い箱。そう……ウォークマンだ。そして、左手は、何かのケースらしい。それには赤い髪の毛の女性が赤いスカートを激しく揺らして踊るカードが挟まれていた。
真白さんはケースを取り上げ、まじまじと見つめた。
「このカセットテープは……シンディ・ローパー!」
二人はビックリしていたけど、ボクも驚いた。だって、目の前にあるのは、新品みたいだけど、まさにボクと(多分)真白さんをこの世界に送り込んだウォークマンとカセットテープだったのだから。
「なかなか面白い話だったわ。そうね……八十点!」
若女将が採点し、ボクの『今朝、なぜボクがココにいたか』の言い訳話はここで終わった。そして勝負がついた。良かったのか、悪かったのか……悪いに決まっている!
うなだれている洋平さん。ボクは、真白さんと洋平さんの出会いのチャンスを潰してしまった。
「黒田君の話に出てきた、ウォークマンとシンディの音楽。それを持ってきた時岡さん。これはなかなかエキサイティングね……だから、こうします。これもなんかの縁だしさ。あなたたち二人とも、住み込みバイトとして採用!」
「「ええ!!」」
ボクは安堵の声。洋平さんは歓喜の声。
「今、円高でしょ? それで海外旅行ブームになってるんだけど、ありがたいことに国内旅行にも飛び火してね。お陰様で上野公園のさくら祭りが終わって花見客のピークは過ぎても、わが時雨庵は『猫の手』を借りたいくらいに忙しいから、ちょうどよかったわ」
そう言って真白さんは意味深にボクにウィンクした……彼女自体はそんなに忙しそうに見えない。
「それからもう一つ言うとね……アタシ、一人娘だから、この旅館の後を継いでくれるムコ養子を探してるの。住み込みアルバイトの採用もムコ探しの一環よ。アタシの花ムコ様、絶賛募集中!」
「「えええ!!!」」
ボクも洋平さんも驚愕の声。
「おまけにもう一つ言うとね……黒田君の方が一歩リードかな? お婿さん候補……イケメンだし♥」
「「ええええ!!!!」」
これはえらいことになった!
……今、若女将、『イケメン』って言わなかった⁉
彼の『住み込みバイトの面接をお願いした、時岡洋平と申します』という一声を聞いて、ボクは二つのことを同時に思った。
一、バイト志望者の『本命』が現れ、ボクの採用は取り消される。そしてこの旅館を追い出され、いよいよ本当に迷い猫になる。
二、確か、亡くなった先代で真白さんの旦那さんの名前は洋平さん。今日は二人の運命の出会いの日。二人が結ばれる出発点。
となると、この時代の『異物』であるボクは、二人の出会いを邪魔しないためにも、『一、』を甘んじて受け容れなければならないのだ。
両膝に手をつき、犬のように舌を出してハアハアと息をしながらアゴを上げ、真白さんとにらめっこしている洋平さん。人間の年齢で二十代後半くらいか? ボクが時雨庵にやって来た時はすでに洋平さんは他界していたので、実際に会ったことはない。ベテランの従業員さんの話によると、旦那さまを失った悲しみを紛らわすために、ボクを飼い始めたらしい。
真白さんの和室に小さな仏壇があり、そこの写真に収まっている洋平さんは、銀縁メガネ越しに頼り無さそうな垂れ目。ボクの目の前にいる男性の顔の特徴とおんなじだ。
意を決してボクは真白さんに申し出る。
「真白……若女将さん、ボクは嘘をついていました。この旅館のアルバイトの応募なんてしていません。この方(と言って洋平さんをチラ見)に採用を譲ります。申し訳ありませんでした」
真白さんは、ぽかんと口を開け、ボクを見つめたかと思うと、今度は洋平さんの顔を凝視した。カウンターのユキさん(白い猫)も首を動かして右に左にとボクと洋平さんを見比べたが、退屈したのか、あくびをしてカウンターに両前脚を揃えアゴを乗せた。
「黒田君……だっけ? そうだったのね。確かに様子がおかしいとは思ってたけど。朝早くから人の家に上がり込んでてさ。ひょっとしてあなた、痴漢か何か? それとも変態?」
「両方とも違います! これには深い訳が……」
「何なのよ、言ってごらんなさいよ」真白さんが疑い半分、興味半分で聞いてきた。
「あ、あの……お取り込み中すみませんが、私はどうすればいいでしょうか?」
遠慮がちにボクたちの会話に割り込んできた洋平さんをああそうだったわねと真白さんが一瞥し、彼に問いただした。
「時岡さん……だっけ? あなた確か約束の時間は九時だったわよね? 今何時だか知ってる?」
そう言われて彼は玄関の柱時計を見た。
「……あ、あの九時二十七分です。申し訳ありません。迷子のお年寄りを助けてて……」
「ああ、さっきもそう言ってたわね。じゃあ、その訳、詳しく聴かせてもらおうかしら……いや、ちょっと待てよ……」
彼女はそう言うと、あごに右手の人差し指をあてて、洋平さんとボクの顔を交互に見た。そしてボクたちをソファに座らせ、自分は向かいに腰かけた。
「よし、じゃあこうしよう! 黒田君はなぜ早朝からこの旅館に忍び込んだか? 時岡さんはなぜ面接の時間に遅刻したか? 面白い言い訳をした方を採用します!」
そう言って若女将さんは邪悪にニヤリと微笑んだ。
「「ええ!!」」
ボクと洋平さんは同時に驚愕の声をあげる。
……そうだ、思い出した。真白さんは、ちょっと常識からズレているというか、変人というか(同じことか)時々突飛なことを言ったりやったりして周りの人を困らせたり笑わせたりする。大番頭の源さんなんか、何度その餌食になっていたことか。
「じゃあ、時岡さんの方が年上みたいだから、先攻でどうぞ。だいたいさ、『迷子のお年寄りを助ける』って何かテンプレ的な話で想像がつくし」
「何ですか、そのテンプレって⁉」
再び驚く洋平さん。
『テンプレ的』ってこの1984の時代にも使っていた言葉なのだろうかとボクは疑問に思う。
「さあ、時岡さん」
真白さんが促す。
「……あの、京成線の行商専用車って知っていますか? 通勤電車の最後尾にあるやつ」
「うん、知ってるわよ」
「私が京成上野駅で降りて改札口を出たら、その行商専用車を使って野菜を担いで来たお婆ちゃんが、他の行商のお婆ちゃんたちとはぐれちゃったらしいんです」
「それは大変だったわね……でどうしたの?」
「そのお婆ちゃん――カメさんっていうんですがね――行商デビューだったらしくて、どこに行ったらいいかわからないっ、ていうので案内してあげたんです」
「そうよね、そのまま放っといちゃ可哀そうよね、GoogleMapもないしね」
ん? 真白さん今GoogleMapって言わなかった? 洋平さんはきょとんとした表情を浮かべて話を続けた。
「確か、行商はよくアメ横の路上でやっているって話を聞いたので、そこに連れて行ってあげたんです……重い荷物を担がされました」
「で、ちゃんと目的地に着いたの?」
「はい、『海龍宮』っていう中華料理店の前で無事、行商仲間たちと合流することができました」
「それは何より。でもそこって、この旅館からそんなに離れてないから、遅刻しなくなくナイ?」
若女将がナゾのギャル語? で問いただす。
「そうなんですが……行商グループのリーダー――愛称オトヒメさんって言うんですがね――が、『えらく助かっちゃってさ。この行商でお惣菜も売ってんだけど、よかったら食べてってくんちぇ』と言って、売り物の総菜で私をもてなしてくれたんです……断り切れなくてご馳走になり、それで遅刻してしまいまして……」
「それって千葉弁かしら?……カメさんに、『海龍宮』にオトヒメさん……なんか浦島太郎のパロディみたいだけど……時岡さん、これってネタじゃない?」
真白さんが疑いの眼差しを太郎さん、じゃなかった洋平さんに向ける。
「いえいえめっそうもない! 決してそんなことは……あそうだ」
と言って彼は持ってきたボストンバッグを開け、ゴソゴソと何かを取り出した。
「これ、お礼にとカメさんがくれた野菜です。遅刻のお詫びと言っては何ですが、若女将さんに差し上げます」
真白さんに差し出されたものは、大きな大根とサツマイモ。
「まあ、ありがとう。これに免じて信じてあげる……そうね、面白さで採点すると七十点というところかしら」
「えっ、厳しくないですか?」不満そうな時岡さん。
「そんなことないわよ。アタシの採点基準だと、五十点が『まあまあ』だから」
そう言って彼女はボクに向き直った。
「では、黒田君のキミの番よ。面白い話、聞かせてね♥」
……この人、若女将の仕事は大丈夫なのだろうか?
と思っていたら、老夫婦の宿泊客がお帰りのようで、彼女は一瞬で玄関に移動し、担当の仲居さんと一緒にお客さんの靴を並べ、外に出ると『またのお越しを心よりお待ち申し上げております』と挨拶をして、老夫婦の姿が見えなくなるまで深々とお辞儀をした。
と思ったら、ダッシュで戻ってきてソファに座り直した。
「さあ、黒田君、はやくー!」真白さんかオネダリする。
ボクは洋平さんの話を興味深く聞いていたので、『作り話』を考える余裕はなかったし、真白さんの未来の旦那になるべき人に勝負を挑んで勝つつもりもなかった……だから、正直に話そう。それで『変なヤツ』と思われて、旅館(ココ)から追い出されよう。
ボクは、ぬるくなって飲み頃になったお茶をゴクゴクの飲み干し、話し始めた。
「実はボク、未来からやってきました」
二人の反応は……洋平さんは訝し気な表情を浮かべたが、真白さんは『ふーん』と言っただけだった。カウンターに寝そべっている白猫のユキは、目も開けずに一度だけ耳をピクッと動かした。
「そういう話って悪くないわね」
と若女将。やっぱりネタだと思っているのだろうか。
「で、未来っていつごろ?」
「2026年……です」
「今から、四十年くらい先か……で、そこではあなた、どこで何やってたの?」
うーん、言うべきか?
「ここ、時雨庵で……黒猫やってました」
「「く、黒猫⁉」」
二人は驚きと好奇の声を上げた。
「……で、どうしてここ、1984年の時雨庵に来たの?」
「そ、それはですね」
この後の話が難しい。何せ、2026年に大女将をやっている真白さんと、すでにこの世を去った洋平さんの話に関わってくるからだ。
「ざっくり言いますと……その時代の『朝霧真白』さんに、ウォークマンでシンディ・ローパーの『タイム アフター タイム』を聴かせてもらったら寝てしまって。気がついたら、この時代に来ていたのです」
「黒猫の君にアタシが『タイム アフター タイム』を聴かせたって言うの?」
「ええ、まあ」
やっぱり作り話だと思ってるだろうな。
「く、黒田君……それは本当なのか?」
ついさっきまで訝しそうにしていた洋平さんが震える声でそう言った。銀縁眼鏡の向こうの黒目が小さくなっている。
彼は数秒、虚空を見上げた後、さっき野菜を取り出したボストンバッグをゴソゴソと探り、何かを取り出した。
右手に小さな青い箱。そう……ウォークマンだ。そして、左手は、何かのケースらしい。それには赤い髪の毛の女性が赤いスカートを激しく揺らして踊るカードが挟まれていた。
真白さんはケースを取り上げ、まじまじと見つめた。
「このカセットテープは……シンディ・ローパー!」
二人はビックリしていたけど、ボクも驚いた。だって、目の前にあるのは、新品みたいだけど、まさにボクと(多分)真白さんをこの世界に送り込んだウォークマンとカセットテープだったのだから。
「なかなか面白い話だったわ。そうね……八十点!」
若女将が採点し、ボクの『今朝、なぜボクがココにいたか』の言い訳話はここで終わった。そして勝負がついた。良かったのか、悪かったのか……悪いに決まっている!
うなだれている洋平さん。ボクは、真白さんと洋平さんの出会いのチャンスを潰してしまった。
「黒田君の話に出てきた、ウォークマンとシンディの音楽。それを持ってきた時岡さん。これはなかなかエキサイティングね……だから、こうします。これもなんかの縁だしさ。あなたたち二人とも、住み込みバイトとして採用!」
「「ええ!!」」
ボクは安堵の声。洋平さんは歓喜の声。
「今、円高でしょ? それで海外旅行ブームになってるんだけど、ありがたいことに国内旅行にも飛び火してね。お陰様で上野公園のさくら祭りが終わって花見客のピークは過ぎても、わが時雨庵は『猫の手』を借りたいくらいに忙しいから、ちょうどよかったわ」
そう言って真白さんは意味深にボクにウィンクした……彼女自体はそんなに忙しそうに見えない。
「それからもう一つ言うとね……アタシ、一人娘だから、この旅館の後を継いでくれるムコ養子を探してるの。住み込みアルバイトの採用もムコ探しの一環よ。アタシの花ムコ様、絶賛募集中!」
「「えええ!!!」」
ボクも洋平さんも驚愕の声。
「おまけにもう一つ言うとね……黒田君の方が一歩リードかな? お婿さん候補……イケメンだし♥」
「「ええええ!!!!」」
これはえらいことになった!
……今、若女将、『イケメン』って言わなかった⁉



