チュンチュン。
あー朝か。
真白さんのお部屋で寝ちゃうといつも熟睡しちゃって、スズメさんが鳴き始めるまで起きられないんだよね。
特に春先はね。
うーんと伸びをする。これはだいぶ寝坊しちゃったかな。
あれ? ボク、仰向けに寝てる? なんかおかしいぞ……
ぐーっと伸ばした前脚をそのまま顔の前まで持ってくる。
んんん!!!!
これ、人間の手じゃん!
そのまま両手で顔を触る。
こ、これ……人間の顔……
この部屋に姿見があったの思い出した。
それに自分の体を映してみれば……あれ、鏡がないぞ。
お部屋の家具の種類も配置も微妙に違ってる。
壁にはコアラの写真が大写しのカレンダーがかかっている。
昨日もカレンダーはあったと思うけど、確か海外の風景写真だったような。
カレンダーに書いてある数字をよく見ると……1984?
確か昨日まで、2026だったはず。
これは、ある時から春夏秋冬の一回りが二千二十六回あったことを現わす数字だ。
ということは、ここは、千九百八十四回目の世界?
「んんん、うーーん……」
そんな呻き声が聞こえた方を恐るおそる見る。
そこには確か、同じ布団で一緒に寝ていた真白さんがいるはずだ。
彼女は、寝がえりをうって顔をこっちに向けた。
え!
わわわ、若い!
顔は……なんとなく真白さんに似ているけど、皺もなくツヤツヤしている。
しかも、
髪が黒い! でも髪型は同じかも。
長いまつ毛がフルフルと動き出した。
マズイ!
ボクは反射的に布団から抜け出し、ふすまを(手で)開けて廊下に飛び出し、再びふすまを閉めた。
ピシャン!
やば!……慌てていたので大きな音をたててしまった。
「だあれ? 誰かそこにいるのー?」
「……」
「ねえ、いるんでしょ?」
「……」
部屋の中を人が移動する気配を感じ、ふすまがガラッと開いた。
真正面から向き合う、真白さん(多分)とボク。
いつもは彼女の顔を見上げてばかりだけど、今、彼女の顔はボクの目線よりちょっと下にある。
そして、さらに目線を下げると……
胸元がはだけた浴衣。
さらにさらに目線を下げると……
露わになった太もも。
「キャ――!」
「うわ――!」
ほぼ同時に二人で声をあげた。
真白さんは、浴衣の前合わせを直しながら再び部屋に入ってふすまをピシャっと閉めてしまった。
ボクはこの場を立ち去った方がいいのか……迷っていると、部屋の中からくぐもった声が聞こえた。
「あなた、バイトの面接の人ね、確か……時岡さん」
「は、はい?」
「もー、なんで住居棟の方に入ってくるのよ! フロントで待っててくれればいいのにさ」
「す、スミマセン」
ここは謝っておくしかない。さっきまで一緒の布団の中にいたなんてことがバレたら偉いことになりそうだ。
「フロントの前のソファで待っててくださる? すぐ行くから」
「は、はい」
言われるがままに、(二足歩行で)書院造りの母屋に移動する。
仲居さんたちが廊下を経由し食堂と厨房を行ったり来たりして朝食の片づけをしている。歩きながらもボクのことをチラチラ見る。ロビーの奥のスペースでは、宿泊者の男性がテレビのニュースを横目に見ながら新聞を読んでいた。タバコを吸っていて煙がこっちまで漂ってくる。ボクはあの匂いが苦手だ。ココは禁煙じゃなかったっけ?
もともと伝統ある旅館なので、古いは古いんだけど、この『1984』の世界の方が微妙に『若い』気がする。
玄関脇の大きな振り子時計の隣りに、同じ背丈くらいの鏡がかかっていた。その前に立って自分の全身を映してみる……驚いた!
そこには若い人間の男が立っている。これがボク?
短めの黒髪。地肌もやや色黒。
人間の年齢でいえば、ニ十歳ちょっとくらいだろうか。
服は着ている。黒い長袖のTシャツに、黒のデニム。もちろんシッポはない。元々黒猫だから全身黒なのはうなづける。
どうして服を身につけているのかは置いといて、とにかく着ていてよかった。そうじゃなければ、さっき真白さんと正面から向かい合った時、大変なことになっていただろう。通報とかされて、白黒の車がサイレンを鳴らしてやってきて、ボクは(裸のまま)どっかに連れて行かれてしまったかもしれない。
フロント前の革のソファに座ったら、少し気分が落ち着いてきた。冷静に考えよう。
えーっと確か、夕べ、真白さんの部屋に入って、『ウォークマン』とやらで『シンディ・ローパー』とやらの音楽を聴かせてもらった。そしたら眠くなっちゃって、いつの間にか寝てしまって、気がついたら朝だった。
壁には『1984』のカレンダー。
ボクは、ウォークマンとシンディの音楽で昔の時雨庵の世界に送り込まれた、迷い猫なんだ。
あれ! 真白さんは?
彼女はこっちの世界に来なかったのかな?
それとも、さっきの若い真白さんは、2026の真白さん? 若返った?
彼女がどうしちゃったのかわからなくなって、少しさみしくなった。
ソファから立ち上がり、旅館のロビーラウンジをウロウロ歩き回る。
フロントはいつもと同じ、大きなケヤキのカウンター。
その左端は、ボクのお気に入りの場所。
ん?
今まで気がつかなかったけど、そこには白い猫がいた。
じっと動かない。でも、こっちを凝視している。ガン見している。
さらにその子に近寄ってみる。
やっぱりガン見している。
「ニニ、ニャーア(あの、ソコ、ボクのお気に入りの場所なんだけど)」
猫語で話しかけてみたけど、答える気配はまったくない。このカウンターはアタシの縄張りよと無言で主張しているようにも見える。
「ユキっていうのよ、可愛いでしょ」
びっくりした! 白い猫が喋ったのかと思ったけど、声の主は、若い真白さん(多分)だった。
寝間着の浴衣から薄い紫色の着物に着替えていて、若々しく美しい。
彼女はボクの隣りに立って、ユキさんの柔らかそうな白毛を撫でた。
「この子は、わが旅館『時雨庵』の番頭さんだからね」
む! なんか、お株をとられたようでちょっと悔しい。
「ソファーに座ってて」
そう言うと真白さんはフロントのバックヤードに引っ込み、しばらくするとお盆を持って出てきた。
「はいどうぞ」
とボクが座っている前のローテーブルにお茶を置いた。
「ありがとうございます」
ちょうど喉が渇いていたところだ。茶碗を両手で持って、口をつける。
「ウァチチチチチ!!!!」
「あら、ごめんなさい、そんなに熱かったかしら?」
「い、いえ……その、猫舌なもんで」
「そうだったのね」
もう少し冷めてからいただこう。
「さっきはごめんなさいね」
彼女は少し頬を赤らめた。ボクもその時の映像を脳内で再生して頬が熱くなる。
「いえ、こちらこそ、大変失礼しました」
「そうよ、下手したら住居侵入罪で捕まっちゃうわよ。気をつけてよね」
「ニャー」
「にゃー?」
「あ、いえすみません、気をつけます」
「あ、アタシはこの旅館の若女将の朝霧真白です。よろしくね」
「……よろしくお願いします」
やっぱり。
真白さん、確定だ。
「あなたが住み込みバイトの面接に来た時岡さんね?」
「あ、いえ、あの」
いきなりの難問だ。どう答えればいい?……ええい、ままよ!
「はい、確かにバイトの面接に来ました……でも、時岡という名前ではありません」
「そう? 他に面接を申し込んだ人はいるのかしら。源さんからは一人としか聞いてないけど……お名前は?」
そう言って彼女は手に持っていたノートを開いた。
「な、名前は、クロ……クロダ……黒田翔馬と言います」
「まあ、かっこいい名前ね、それになかなかの美形だし」
「あ、ありがとうございます」
美形? そうか、この頃は『イケメン』という言葉はまだ無かったのか。
「学生さん?」
「あ、はい……そんなとこです」
「一応、履歴書、書いといてね」
「えーっと」
どうやって書けばいいのかわからない。
「採用よ」
「え! ありがとうございます……」
「あなたのお部屋、案内するから、十時になったらまたココに来てちょうだい。ウチのスタッフが仕事を教えるから」
「は、はいわかりました」
「あなた、荷物は?」
「え?……後で送られてきます」
嘘つき。
今日は大嘘だらけだ。
ボクの部屋に案内してもらうために、真白さんと二人で立ち上がったところ。
「すみませーん! 大変遅くなりましたあー」
そう叫んで、男性が勢いよく玄関に駆け込んできた。
ぜえぜえと息を切らしながら、靴を脱いでロビーに上がってくる。
真白さんがスリッパを出し、その男性に勧めた。
「あのー、住み込みバイトの面接をお願いした、『時岡洋平』と申します……途中で迷子のお年寄りを助けてて……」
その声を聞いて、何の騒ぎだろうと食堂の方から女性の従業員が二人、小走りにやってきたが、真白さんは『ここは大丈夫だから戻って』と人払いした。
ん! 時岡『洋平』……もしや⁉
あー朝か。
真白さんのお部屋で寝ちゃうといつも熟睡しちゃって、スズメさんが鳴き始めるまで起きられないんだよね。
特に春先はね。
うーんと伸びをする。これはだいぶ寝坊しちゃったかな。
あれ? ボク、仰向けに寝てる? なんかおかしいぞ……
ぐーっと伸ばした前脚をそのまま顔の前まで持ってくる。
んんん!!!!
これ、人間の手じゃん!
そのまま両手で顔を触る。
こ、これ……人間の顔……
この部屋に姿見があったの思い出した。
それに自分の体を映してみれば……あれ、鏡がないぞ。
お部屋の家具の種類も配置も微妙に違ってる。
壁にはコアラの写真が大写しのカレンダーがかかっている。
昨日もカレンダーはあったと思うけど、確か海外の風景写真だったような。
カレンダーに書いてある数字をよく見ると……1984?
確か昨日まで、2026だったはず。
これは、ある時から春夏秋冬の一回りが二千二十六回あったことを現わす数字だ。
ということは、ここは、千九百八十四回目の世界?
「んんん、うーーん……」
そんな呻き声が聞こえた方を恐るおそる見る。
そこには確か、同じ布団で一緒に寝ていた真白さんがいるはずだ。
彼女は、寝がえりをうって顔をこっちに向けた。
え!
わわわ、若い!
顔は……なんとなく真白さんに似ているけど、皺もなくツヤツヤしている。
しかも、
髪が黒い! でも髪型は同じかも。
長いまつ毛がフルフルと動き出した。
マズイ!
ボクは反射的に布団から抜け出し、ふすまを(手で)開けて廊下に飛び出し、再びふすまを閉めた。
ピシャン!
やば!……慌てていたので大きな音をたててしまった。
「だあれ? 誰かそこにいるのー?」
「……」
「ねえ、いるんでしょ?」
「……」
部屋の中を人が移動する気配を感じ、ふすまがガラッと開いた。
真正面から向き合う、真白さん(多分)とボク。
いつもは彼女の顔を見上げてばかりだけど、今、彼女の顔はボクの目線よりちょっと下にある。
そして、さらに目線を下げると……
胸元がはだけた浴衣。
さらにさらに目線を下げると……
露わになった太もも。
「キャ――!」
「うわ――!」
ほぼ同時に二人で声をあげた。
真白さんは、浴衣の前合わせを直しながら再び部屋に入ってふすまをピシャっと閉めてしまった。
ボクはこの場を立ち去った方がいいのか……迷っていると、部屋の中からくぐもった声が聞こえた。
「あなた、バイトの面接の人ね、確か……時岡さん」
「は、はい?」
「もー、なんで住居棟の方に入ってくるのよ! フロントで待っててくれればいいのにさ」
「す、スミマセン」
ここは謝っておくしかない。さっきまで一緒の布団の中にいたなんてことがバレたら偉いことになりそうだ。
「フロントの前のソファで待っててくださる? すぐ行くから」
「は、はい」
言われるがままに、(二足歩行で)書院造りの母屋に移動する。
仲居さんたちが廊下を経由し食堂と厨房を行ったり来たりして朝食の片づけをしている。歩きながらもボクのことをチラチラ見る。ロビーの奥のスペースでは、宿泊者の男性がテレビのニュースを横目に見ながら新聞を読んでいた。タバコを吸っていて煙がこっちまで漂ってくる。ボクはあの匂いが苦手だ。ココは禁煙じゃなかったっけ?
もともと伝統ある旅館なので、古いは古いんだけど、この『1984』の世界の方が微妙に『若い』気がする。
玄関脇の大きな振り子時計の隣りに、同じ背丈くらいの鏡がかかっていた。その前に立って自分の全身を映してみる……驚いた!
そこには若い人間の男が立っている。これがボク?
短めの黒髪。地肌もやや色黒。
人間の年齢でいえば、ニ十歳ちょっとくらいだろうか。
服は着ている。黒い長袖のTシャツに、黒のデニム。もちろんシッポはない。元々黒猫だから全身黒なのはうなづける。
どうして服を身につけているのかは置いといて、とにかく着ていてよかった。そうじゃなければ、さっき真白さんと正面から向かい合った時、大変なことになっていただろう。通報とかされて、白黒の車がサイレンを鳴らしてやってきて、ボクは(裸のまま)どっかに連れて行かれてしまったかもしれない。
フロント前の革のソファに座ったら、少し気分が落ち着いてきた。冷静に考えよう。
えーっと確か、夕べ、真白さんの部屋に入って、『ウォークマン』とやらで『シンディ・ローパー』とやらの音楽を聴かせてもらった。そしたら眠くなっちゃって、いつの間にか寝てしまって、気がついたら朝だった。
壁には『1984』のカレンダー。
ボクは、ウォークマンとシンディの音楽で昔の時雨庵の世界に送り込まれた、迷い猫なんだ。
あれ! 真白さんは?
彼女はこっちの世界に来なかったのかな?
それとも、さっきの若い真白さんは、2026の真白さん? 若返った?
彼女がどうしちゃったのかわからなくなって、少しさみしくなった。
ソファから立ち上がり、旅館のロビーラウンジをウロウロ歩き回る。
フロントはいつもと同じ、大きなケヤキのカウンター。
その左端は、ボクのお気に入りの場所。
ん?
今まで気がつかなかったけど、そこには白い猫がいた。
じっと動かない。でも、こっちを凝視している。ガン見している。
さらにその子に近寄ってみる。
やっぱりガン見している。
「ニニ、ニャーア(あの、ソコ、ボクのお気に入りの場所なんだけど)」
猫語で話しかけてみたけど、答える気配はまったくない。このカウンターはアタシの縄張りよと無言で主張しているようにも見える。
「ユキっていうのよ、可愛いでしょ」
びっくりした! 白い猫が喋ったのかと思ったけど、声の主は、若い真白さん(多分)だった。
寝間着の浴衣から薄い紫色の着物に着替えていて、若々しく美しい。
彼女はボクの隣りに立って、ユキさんの柔らかそうな白毛を撫でた。
「この子は、わが旅館『時雨庵』の番頭さんだからね」
む! なんか、お株をとられたようでちょっと悔しい。
「ソファーに座ってて」
そう言うと真白さんはフロントのバックヤードに引っ込み、しばらくするとお盆を持って出てきた。
「はいどうぞ」
とボクが座っている前のローテーブルにお茶を置いた。
「ありがとうございます」
ちょうど喉が渇いていたところだ。茶碗を両手で持って、口をつける。
「ウァチチチチチ!!!!」
「あら、ごめんなさい、そんなに熱かったかしら?」
「い、いえ……その、猫舌なもんで」
「そうだったのね」
もう少し冷めてからいただこう。
「さっきはごめんなさいね」
彼女は少し頬を赤らめた。ボクもその時の映像を脳内で再生して頬が熱くなる。
「いえ、こちらこそ、大変失礼しました」
「そうよ、下手したら住居侵入罪で捕まっちゃうわよ。気をつけてよね」
「ニャー」
「にゃー?」
「あ、いえすみません、気をつけます」
「あ、アタシはこの旅館の若女将の朝霧真白です。よろしくね」
「……よろしくお願いします」
やっぱり。
真白さん、確定だ。
「あなたが住み込みバイトの面接に来た時岡さんね?」
「あ、いえ、あの」
いきなりの難問だ。どう答えればいい?……ええい、ままよ!
「はい、確かにバイトの面接に来ました……でも、時岡という名前ではありません」
「そう? 他に面接を申し込んだ人はいるのかしら。源さんからは一人としか聞いてないけど……お名前は?」
そう言って彼女は手に持っていたノートを開いた。
「な、名前は、クロ……クロダ……黒田翔馬と言います」
「まあ、かっこいい名前ね、それになかなかの美形だし」
「あ、ありがとうございます」
美形? そうか、この頃は『イケメン』という言葉はまだ無かったのか。
「学生さん?」
「あ、はい……そんなとこです」
「一応、履歴書、書いといてね」
「えーっと」
どうやって書けばいいのかわからない。
「採用よ」
「え! ありがとうございます……」
「あなたのお部屋、案内するから、十時になったらまたココに来てちょうだい。ウチのスタッフが仕事を教えるから」
「は、はいわかりました」
「あなた、荷物は?」
「え?……後で送られてきます」
嘘つき。
今日は大嘘だらけだ。
ボクの部屋に案内してもらうために、真白さんと二人で立ち上がったところ。
「すみませーん! 大変遅くなりましたあー」
そう叫んで、男性が勢いよく玄関に駆け込んできた。
ぜえぜえと息を切らしながら、靴を脱いでロビーに上がってくる。
真白さんがスリッパを出し、その男性に勧めた。
「あのー、住み込みバイトの面接をお願いした、『時岡洋平』と申します……途中で迷子のお年寄りを助けてて……」
その声を聞いて、何の騒ぎだろうと食堂の方から女性の従業員が二人、小走りにやってきたが、真白さんは『ここは大丈夫だから戻って』と人払いした。
ん! 時岡『洋平』……もしや⁉



