吾輩は猫であろうか? にゃーんちゃって! 

 名前は……もうあるよ。ボクは黒猫の『クロ』。
 ボクが住んでいる旅館、『時雨庵(しぐれあん)』の大女将、真白(ましろ)さんがつけてくれたんだ。えっ、『つけてくれたってほどの名前でもないんじゃん』って? 別にいいでしょ、だってボクこの名前、すごく気に入ってるんだから。それに、『真白さんがつけてくれた』っていうのがすごく嬉しいんだ。
 よくローカル線で『猫駅長』っているでしょ? ボクはね、それの旅館版。『猫番頭』っていうところかな。ホントは源さんっていう人間のお爺ちゃんの番頭さんがいるんだけどね。
 東京上野にあるこの旅館は創業二百年の老舗。本館は書院造り。これに数寄屋造りの別棟が繋がっていて、『猫が似合う宿』だ。
 フロントは、大きな一枚板のケヤキでできていて、そこの左端がボクの定位置。カウンターは、もう角がすり減っちゃっているけど、まだ肌寒い今みたいな春先はホンノリ温かく、夏はヒンヤリ。お気に入りの場所なんだ。
 そして、カウンターの向こう側に、大女将の真白さんが座っていて、お客さんが来ると、サササッと玄関まで行っておもてなしするんだ……でもね、最近体の調子があまりよくなくて、若女将――真白さんの娘さんの楓(かえで)さん――が座ってることが多くなった。大女将は、人間の年齢でまだ七十過ぎくらいなんだけど、十年前に、旦那さんの洋平さんに先立たれ、それから一人で切り盛りしてきたから、さすがに疲れちゃったのかな。かく言うボクだって、今年で十二歳。人間の齢でいえば、真白さんと、どっこいどっこいかな。彼女は最近よく『クロとアタシとどっちが逝くのが先かね? できれば一緒に逝きたいもんだね』って冗談ぽく言うんだけど、『ニャア、ニャニャニャ! (縁起でもないよ)』って否定するんだ。

 着物姿の楓さんが、カウンターに頬杖ついて、夕方にチェックイン予定のお客さんが来るのを待っている。
 ボクはカウンターから、トンッと降りて、フロントの裏の通路へと向かう。そこから繋がる数寄屋造りの建物は真白さんたちの住まいでもあるんだ。

 廊下を歩いてすぐの部屋は、ふすまが五センチくらい開いている。ボクがいつでも入れるように真白さんが開けてくれている。
 そこからススっと和室に入るともう布団が敷いてあった。

「おや、クロ、来てくれたのかい?」
「ニャー(具合はどう?)」
「大丈夫よ。お客さんが見えるまでちょっと横になってるだけだから」
 ボクは枕元に座り、大女将の表情をうかがう。銀の前髪で、少しやつれた顔が隠れている。

 生まれたばかりにココに引き取られて十年ちょっとだけど、やっぱり真白さん、歳をとったなと思う。
「それは、お互いさまよ」
「にゃにっ⁉」
 心を読まれた?
「あはは、以心伝心ってやつね……お前とはつき合いも長いしね」
 彼女は布団から上体を起こす。
「そうだクロ、いいもの見つけたんだ」
 そう言って四つん這いのまま、ちゃぶ台に寄り、何かを手に取って戻ってきた。

「じゃん!」
「にゃ?」
 何か、人間の手の平サイズの銀色がかった青い箱と、耳に被せるもの、確かヘッドフォンだっけ? それが二つ。
「何だと思う?」
 ボクは黙り込んでコクリと頭を下げ、降参の意を伝える。

「これはね、先代――洋平さんのものなんだけど、『ウォークマン』って言うのよ。荷物の整理をしてたら出てきてね」
「ニ?」
「ほら、ココを開けると、カセットテープが入ってるんだ」
 そう言って彼女は青い箱をパカッと開けた。
「こらこら、手を出しちゃだめよ。テープがビロビロって伸びちゃうから」
 伸ばしたボクの手を軽くポンと叩き、真白さんは再び箱を閉じた。

「せっかくだから、二人で聴いてみない?

「?」
 彼女は再び布団に横になった。そして、ヘッドフォンを頭につけ、もう一つを『これ、ネコさんには大きすぎるかしら?』と言いながら、ボクの耳に被せた。ちょっと絞めつけられて窮屈かも。
「これ、すごいでしょ。初代のウォークマンなんだけどね、恋人同士でこうやって一緒に音楽が聴けるのよ……洋平さんともこんな風に好きな曲を楽しんだものだわ」
 ヘッドフォンのセットが終わると、真白さんは青い箱を持ち上げ、それについているボタンを押した。

 小気味よいリズムが続いた後。
 女性の歌声が流れる。

「シンディ・ローパーの『タイム アフター タイム』っていう曲」
 びっくりした。だって、真白さんの声が音楽と一緒にヘッドフォンから聞こえてきたんだから。
「ふふふ、このオレンジ色のボタンを押すと、会話もできるのよ」
 彼女は再び箱を上げて見せた。
 ボクは『ニャー』と鳴く。ヘッドフォンから『ニャー』と聞こえる。

「こうやってね、洋平さんとシンディの曲を聴きながら、よくお話したものだわ」
 ボクにはこの曲の歌詞の意味はわからなかったけど、真白さんと旦那さんにとっては特別な意味があるものらしい。

「何度でも。どんなに時間が経っても……あなたを待っている」
 ボクは、彼女のそんなささやきを聞いているうちに、だんだん眠くなり、枕に頭を乗せた。

 何度でも……どんなに時が経っても……