~タイム アフター タイム~ さよならは言わない。1984年の私は、君をずっと待っている。

 高田馬場駅の周辺は、私が通っていたときと変わらず、ごちゃごちゃしている。あれ? 何で私、自分のいた世界のことを過去形にしてる? 今ここにいる場所が、現実だとすると、元の世界、つまり『未来』が遥か昔のことのような気もする。
 変な感覚だ。

「さあ、行くよ」
 私が立ち止まっていると少し先を歩く父が振り返った。
「えっ、バスか東西線に乗らないんですか?」
「そんなことしたら、わがサークルの看板に泥を塗ることになる」
「どうして?」

「だって俺たち、トホホの会だぜ」
「トホホ?」
 なんとも頼りない名前だ。

「あ、説明してなかったな。『徒歩』に『歩く』と書いて、トホホの会」
「……漢字はなんとなく想像できたけど」
 確か、今でもうちの大学には、 歩行会(あるこうかい)というサークルがある。それの前身だろうか。
「登山とかアウトドアとか、街歩きとかするんですか?」
「そんなハードなことはやらないよ。せいぜい街歩きくらいかな、まあ、一緒に来てみればどんなところかわかるよ」
 そう言ってタカシさんは早稲田通りをずんずん歩いていく。

「あ、ここでさ、ちょっと買い物してこうか。荷物になるけど、この後必要になると思うから」
 そう言って指さしたお店の名前は『U.S.VAN・VAN』。確か元の世界では、最近閉店してしまった衣類のカジュアルショップだ。こんな時代からあったのか。外までラックにぶら下げられた衣類がはみ出していている……なんとTシャツが五百円台、ジーンズが千円台!
「着るものはだいたいここで揃うんじゃないかな? あれ、下着とかはあったかな?」
 そういってタカシさんは少し顔を赤らめた。
「あ、ありがとうございます……それから、お金のことも」
「え、なんのことだっけ?」
 そう言って横を向いた。ほんとに照れ屋さんのようだ。というか、照れると横を向く癖、父のしぐさだ。

 下着から替えのTシャツやトレーナーなど、どれもいまいち自分の趣味に合うものではなかったが、着替えが無いと困るので、大きな紙の手提げいっぱい買い物をした。なぜかタカシさんから、大き目のタオルも買っておいてと言われ、それに従った。
 何と、お値段は合わせて三千三百円也。しかも消費税がない!
 店を出ると彼が手提げを持ってくれた。

「はい、これ聴いてみて」
 少し歩くと、彼はヘッドフォンを差し出した。
「ウォークマン、持ってきたんですか?」
「そう、これがないとね。聴いてみて」
「でも、私が聴くと、タカシさんが聴けなくなっちゃう……」
「大丈夫、もう一個ある」
 そう言ってショルダーバックからもう一つヘッドフォンを取り出した。
「この『初代ウォークマン』はヘッドフォンのジャックが二つあるんだ……二人で聴けるように」
 そう言ってまた照れた。私も少し恥ずかしくなった。

 ヘッドフォンを受け取り、耳に当てる。

 すでに曲が流れている。
「この曲は?」
「TOTOのAfrica。洋楽はあまり聴かないかな?」
 びっくりした。ヘッドフォンのスピーカーから、タカシさんの声が聞こえたからだ。
 横を向くと、タカシさんはウォークマンを手に持ち、私に示す。
「このオレンジのボタンを押すと、こんな風に二人で会話できるんだぜ、洒落てるだろ」
 ちょっと自慢げだ。でもまたすぐ照れた。
 そうか、あのボタンはこんな風に使うのか。

 スマホで音楽をかけながら外を歩くことはよくある。
 でも何か、今体験しているのは、それとはちょっと違うよさがある。このヘッドフォンが完全に外の音を遮断してないからかも。
 このごちゃごちゃした早稲田通りの風景もドラマのワンシーンのようだ。しかも、男性と並んで音楽を聴きながら歩くなんて、はじめての体験だ……相手がだれであれ。

「ワム! のCareless Whisper」
 往来の真ん中で、タカシさんが首を振りながら情感たっぷりにバラードを口ずさんでる。一緒に歩いていてちょっと恥ずかしいかも……

 曲が変わるたびに、オレンジボタンを押してアーティストと曲名を教えてくれた。そのたびに街の雰囲気も少し変わる。
「あの……このカセットには、シンディ・ローパーが『Time after time』って歌っている曲は入ってないんですか?」
「いや、シンディ・ローパーの曲を録音したテープは持ってないな。サークル仲間で好きな子はいるけど……聴きたいの?」
「あ、いえ……そのうち」
「?」
 少しホッとしたような、残念なような……今度Time After Timeを聴いたら、私はどうなるんだろう?

 そうこうしているうちに、文学部のキャンパスに着いた。そこは私の通うキャンパスでもあり、父の大学のキャンパスでもある。
 建物は全体的に灰色っぽい。どでかい体育館のようなものが建っている。そして、立て看板がズラリと並んでいて、今も未来も(変な言い方……)学生が多くて賑やかなのは変わらないけど、ゴチャゴチャ感がハンパない。ここの空気も何だかタバコ臭い。

 スロープを登る。この坂は前からあったのか。
 演劇や講演会の告知が描いてある看板を眺めながら上がりきると、右に曲がった。進んだ奥に学生が大勢たむろしている白い建物に入った。
 外にはデッキも併設されており、そこのテーブル席も学生で埋まっている。

「ここは、カフェですか?」
 私があっちの世界で通っているキャンパスでは、スロープを上がって左側にカフェがある。
「カフェ? しやれた言い方するなあ。俺たちは学生ラウンジって呼んでいる。授業の合間にここで友達とダベったり、俺たちみたいに部屋を持てないサークルが部室代わりに使っている」
 そう言って、タカシさんは、ラウンジの壁際の棚に近づき、何冊か並んでいるノートから、グレーの表紙のものを取り上げた。確か、『ツバメノート』だ。
「これでサークル仲間と連絡を取り合っている」
 彼はペラペラとノートをめくり、あるページに目をとめて黙読し始めた。

 そうか、この頃はスマホもガラケーもなかったはずだから、こうやってコミュニケーションを取っていたのか。

「よし、行くか」
 そう言ってパタンとノートを閉じ、私を見つめた。
「行くって、どこに?」

「今日は、都合のつくサークル仲間で『都電荒川線の沿線歩き』をしているらしい」
 確か都電の終点はここ、早稲田のはずだ。
「今から追いかけるんですか?」
「いや、多分みんなバラバラに出発しているはずだから、集合場所は銭湯。多分そこで落ち合える」
「銭湯⁉」

 ○

「マイケル・ジャクソンのBillie Jean」

「これは、アース・ウィンド&ファイアーのLet's Groove。結構気に入ってる」
 都電の線路沿いを歩きながら、曲が変わるとオレンジのボタンを押して教えてくれる。
「洋楽、好きなんですね」
「ああ、俺だけじゃなく、サークルの連中みんな『ベストヒットUSA』に洗脳されてるからね」
「?」

 時々、古っぽい電車とすれ違い、または通り過ぎていく。
 音楽を聴きつつ面影橋の川沿いの景色を見て歩いていると、何かが胸の奥からこみ上げてきた。

 少し先を歩くタカシさんが振り返り、私が立ち止まって涙を流しているのに気がついた。
「どうしたの?」心配そうに尋ねる。
「……ううん……何でもないです。音楽がある景色って、いいですね」
 彼は、少し微笑み、私が歩き出すのを待った。

 〇

 早稲田から線路に沿って学習院下、鬼子母神前、都電雑司ヶ谷、東池袋四丁目……そして向原。
 けっこう歩いた。脇を都電が走っているんだから乗って行けばいいのに、と何度も思ったが、それは『トホホの会』のプライドが許さないのだろう。

 向原の駅から、都電の線路を離れ少し歩くとそれはあった。
 これぞ、日本の銭湯! という立派な黒い屋根瓦の建物。
 玄関から入ると、番台に五百円、つまり二人分をタカシさんが払ってくれた。
 番台の前はソファーが並んだ休憩スペースになっていて、そこから女湯、男湯につながっている。
「はい、これで着替えとタオルは大丈夫だろう」
 そう言って、彼が紙の手提げを手渡した。
「あとはシャンプーとかかな……この時間はお年寄りばっかだけど、多分中に若い女の子が三人いるはずだから、そのうちの誰かに『トホホの会の者です。シャンプー貸してください』って言ったら喜んで貸してくれるはずだから』
「えっ、でも私『トホホの会』のメンバーじゃないですけど?」
 「まあ、いいからいいから。お風呂から上がったら、ここに集合」
 そう言いながら、タカシさんは男湯の入口のドアを開けて入ってしまった。

 1984年 銭湯にて

 建物は古いけど、浴場はきれいに手入れされていて清潔感がある。
 確かに中にいるのはおばあちゃんばかりだ。
 女湯と男湯を仕切る壁の向こう側から、何やら騒がしい声が聞こえる。多分タカシさんたち、『トホホの会』メンバーだろう。

 洗い場に、若い女性が三人並んでいた。彼女らはキャッキャと歓声をこだまさせながらシャンプーしたり、体を洗っている。
 タカシさんのサークル仲間といきなりの裸のつき合い。変な感じだ。
 ちょっと勇気を振り絞る。
「あの、タカシさん……佐伯さんから聞いたんですけど、シャンプーとかお借りしてもいいでしょうか?」
 端に座って髪を洗っている女性が頭を上げずに答えた。
「ああ、サークルの新メンバーかな? そこのビオレとかシャンプーやら使っていいよ」と鏡の下の台を指さした。
「あ、ありがとうございます」
 手を伸ばしてボディソープを借りる。

「それね、こないだ発売されたばかりなんだ。試しに使ってみてるの」
 ひょっとしてボディソープってこの年に生まれたのだろうか。
「新メンバーさん、これからよろしくね」
 その女性が、顔を上げニコッと笑った。
「あ、よろしくお願いします、名前は佐伯美玲……」
 私は絶句してしまった。

 若い! 若いって誰と比べてるかというと……母。
 母に間違いない。間違いないけど若い。肌がツヤツヤ、ピチピチだ。
 そりゃそうだ。このサークルのメンバーだとすると、彼女は大学生。私と同い年ぐらいだろう。
 そうか……母と父は、このサークルで知り合ったのか。

「私は佐野めぐみ。『佐伯』さんってことは、ひょっとしてタカシ先輩の親戚?」
「あ、いえ、あ……はい」
 私がジロジロ見ているのを不思議に思ったのか、小首をかしげて聞いてきた。
「私たち、どっかでお会いしたことがあるかしら?」
「え⁉ いえいえいえ……多分初めてだと思います」

「「よろしくねー!」」
 洗い場にいた他の二人もこっちを向いて声をかけてきた。
 『ヘアコロン』というシャンプーは、いい匂いがした。

 四人で湯舟に浸かる。
 女子大生に囲まれて、質問攻めにあう。
 これは困った。変なことになってしまった。
 なるべく当たり障りなく答えたが、
「学部と学科どこ?」
 と聞かれ、イチかバチかで『文学部の一年』と答えた。嘘はついていない。あっちの世界で実際に通っている。コースが分かれるのは二年になってからだ。幸い、このサークルには一年生はいなかった。
 こうして、私は自分自身を『今年この大学に入った、佐伯孝さんのハトコ』という設定にしてしまった。

 風呂から上がり、男女共同の休憩室に入ると、タカシさんと男子学生二人がフルーツ牛乳やらイチゴ牛乳やらを飲んでいた。
 私はタカシさんのそばに寄り、ヒソヒソと『私、タカシさんのハトコっていうことになってるから』と伝えた。
 一瞬彼はピンク色の牛乳瓶を持ってキョトンとしていたが、察したのか『ああ、わかった』と答えた。
 その場は、さらに男子が加わって、私への質問コーナーになってしまった。
 私とタカシさんは、アイコンタクトして話を合わせながら質問に答えた。
 ひょっとしたら、この短時間で十年分の嘘をついたかもしれない。

 今日のトホホの会は、その銭湯で現地解散になった。
 このサークルの活動に参加したはしたが、タカシさんと一緒に歩いただけで、みんなとはお風呂に入っただけだ。
 昔の大学生は、ことあるごとに飲み会をやっていたと聞いたことがあるが、意外と健全だ。

 JR、じゃなかった国鉄の池袋駅まで、二人でまた歩く。
「いやあ、ヒヤヒヤものだったね」
「ごめんなさい、変な話になっちゃって」
「でもどうして、君は僕のハトコってことになってるのかな?」
「……」
 間違って自分の苗字を語ったなんて言えない。
「まあいいや、君は自分のこと、話したがらないようだし、そういう設定の方が都合がいいかもしれない……それにハトコっていうのは何となくシックリくる」
「え、どうしてですか?」
 「何となくの感覚なんだけど、君と接していると、妹というか、家族というか、親戚というか……なんか血がつながっているような気がするんだよね。なんでだろう?」
 そう言って私の顔を覗き込む。
「な、なんででしょうね……」
 何とか話を逸らしたい。

「あの、銭湯で一緒になった『佐野めぐみ』さんって、可愛い方ですね」
「え?……まあそうだな」
 あれ⁉ 意外と反応薄いな。

「おつきあいとかされてないんですか?」
「どうしてそうなる? ……まあ、他のサークル仲間の女子とウチに遊びに来たことはあるけど」
 めぐみさん、あの『四畳半』は利用したことがあるのか。
「それにめぐみちゃんには好きな人がいるしね」
「え⁉」
 私は思わず立ち止まってしまった。
「どうしたの?」と不審げな顔をして歩を止めるタカシさん。

「そ、それだと……将来……」
「将来って?」
「いえ……何でもないです」
ほんと変な子だなあ」
 そう言って再び歩き出した。そしてタカシさんはボソッとつぶやいた。

「めぐみちゃんは、男には興味ないんだ」
「え⁉」
 再び私は立ち止まる。
「ど、どういうことですか?」
「今日、ずっとめぐみちゃんの隣にいた子。ミキっていうんだけど」
 そう言えば、銭湯から上がっても、めぐみさん……私の母は、髪の長い女性と腕を組んで座っていた。
「あの子とつきあってるんだ」

 これはびっくりだ。まさか自分の母が学生時代は女性とおつきあいしていたなんて。そんな過去を知ることになるとは思わなかった。
 ……と、悠長にびっくりなんてしていられない! だって、このままじゃ、タカシさんとめぐみさんは結婚せず、私は生まれてこれなくなってしまうんだから。
「で、でも……恋人同士ってわけじゃないでしょう?」
「うーん、どうだろうな。俺の見る限り、普通の友達同士のようでもないし」
「……ほんとに男子に興味ないのかな?」
「前にミキからちらっと聞いたんだけど、めぐみちゃんの家、しつけが厳しい家庭でね、特にお父さんが。それで男性恐怖症の気(け)があるんじゃないかって」
「でも、タカシさんの家に泊ったりしてるんでしょう? 外泊して怒られたりしないのかな……それに男子の家に泊るのは恐いんじゃないのかしら?」
「ああ、彼女は実家が広島で、今は一人暮らしだからね。さすがにしょっちゅうは干渉されないだろう……それと、俺のこと、そんなに男として意識してないみたいでね」
「?」
「去年の春、サークル……トホホの会の勧誘のチラシを文学部のスロープで配ってたんだけど、その時新入生のめぐみちゃんと初めて合ったんだ。俺は彼女にチラシを手渡し、簡単にサークルの説明をしたんだけど、恐いとかそういく気持ちが起きなかったこともあって入会を決めたらしい。これもミキから聞いたんだけど」
 うーん、タカシさんに積極的な好意を持っているわけではないけど一緒にいても特に抵抗はない、というわけか……微妙なところだ。
「ミキさんは、めぐみさんのこと好きなんですか?」
「ああ、放っておけないんだって。妹みたいに可愛くて」
 これも微妙なところだ。

「でもタカシさん、めぐみさんのこと、少しは気になってるんでしょう?」
「バ、馬鹿言え、そんなわけ……ないだろ!」
 ははん、これは怪しい。女の勘を舐めてもらっちゃ困る。

 そんなに強い気持ちではないが、お互いに好意がないわけではない。そもそも私が生まれてこの世にいる、ということは、この後二人は恋愛し結婚することになるはずだけど、ホントに大丈夫だろうか? ひょっとして私がこの時代に来たことによって微妙に『史実』が変化してしまうことはないのだろうか? そんな不安が頭をよぎった。

「ところで君は、しばらくウチにいるんだろ?」
「……はい、そうさせてもらえると大変助かります」
「いいんじゃないか。俺の母さんも君のこと、気になってるし、気に入ってるみたいだし」
「そ、そうなんですか? それはありがたいです」
 タカシさんとお母さん、二人には申し訳ないなと思う。でも本当のことは言えないし、言っても信じてもらえないだろうし……いっそのこと、話した方がいいんだろうか。私は2018年の未来から来た、タカシさんの娘であり、お母さんの孫なんだって。
 でも、もし信じてくれたとしても、私の母がめぐみさんだなんて言っていいのかな? そもそも将来の結婚相手が誰かなんて、タカシさんは聞きたがるだろうか? 

 それに。
 私が中学一年の時、父が癌で……なんて、とても言えない。