「翔馬君、いいもの見せてあげるよ」
とある十一月の午前。
ボクがロビーラウンジの床拭きを終えたところで洋平さんが声をかけてきた。
「こっちに回ってきて」
「ボクが入ってもいいんですか?」
「ああ、構わないよ」
フロントのカウンターの内側に入るよう促す。お金を扱う場所なので、若女将や番頭さんチーム以外は、普段そこに入らないのが暗黙のルールになっていた。カウンター上の白猫のユキさん(多分、2026の真白さんだ)は、われ意に介せずという感じで毛づくろいをしている。
洋平さんは、レジの引き出しを開けた。そこにはピカピカの新札が綺麗に並んでいる。
「銀行で交換してきたばかりなんだ」
バイト見習いでここにやって来た洋平さんは、早くもお金の扱いを任されている。
「えーっと、福沢諭吉さんに、新渡戸稲造さんに、夏目漱石さんですか」
「そう、新紙幣。正直言うと、新渡戸稲造は誰だか知らなかったけどね」
「確かボクの時代は、万札は、栄ちゃんだったかな」2026の世界の真白さんが一万円札のことをそう呼んでいた。
「え! エイちゃんってひょっとして矢沢永吉?」
いけない! 独り言のつもりだったけど、洋平さんにしっかり聞かれていた。
「違いますよ、渋沢栄一という人」
「……そうか、それは納得だ。君がいた時代では、さらに新しい紙幣に変わっていたんだね」
「あ、夏目漱石、知っています『吾輩は猫である』を書いた人」
「さすが『猫だけに』、よくご存知で!」
洋平さんはそうおどけて言った。2026年の新紙幣のことをボクがうっかり話してしまったので、夏目漱石をネタにしてごまかしたつもりが、ヤブヘビだった。
彼がレジの引き出しをカシャンと閉めた時を見計らい、ボクは聞いてみた。
「あの、洋平さんはボクが前言ったこと、信じてるんですか?」
少し間が空く。
「ああ、君が未来からやって来たっていう話?」
「はい……途方もない話ですよね」
彼はカウンター上の白い猫をちらっと見遣って返事をした。
「いや、私は信じているよ。それにね真白さん……若女将がそっと教えてくれたんだ。『未来のアタシ自身』も一緒に来てるって」
「そうだったんですか」
ボクはユキさんに近寄り、そっと背中を撫でた。
「ウォークマン、貸すよ。ヘッドフォンも二つ揃えたし」
「え?」
「帰るんだろう? 元いた場所に」
「は、はい……できれば」
ウォークマンを借りること。それはここの世界にサヨナラすること。
だから、ためらいがあり、なかなか口に出せなかった。彼が助け船を出してくれた。
「後で布団部屋……君の部屋に持って行ってあげるよ」
「あ、洋平さんの部屋に受け取りに行きますので」
「じゃあ、昼の賄いの時に渡すよ」
「ありがとうございます……あの」
「何だい?」
「もう一つお願いです」
「?」
「お体を大事にして、毎年健康診断はしっかりと受けてください」
ボクは言わずにはいられなかった。
白猫のユキさんが耳をぴくっと動かした。
少しの間、洋平さんは虚空を見つめていたが、ボクに向き直った。
「ああ、心がけるよ……ありがとう」
時雨庵の玄関を出て、ボクは木造の建物を見渡した。
元いた世界のそれよりも、ちょっとだけ新しくて、でも静かな佇まいは変わらない。
源さん、キクさん、板場の方たちに仲居さんたち。
2026の世界でも元気に働いている人もいるし、もうそこに姿がない人もいる。
寒い風が庭木をゆすり、色づいた葉が落ちる。
掃除しなくちゃ。
1984の春から秋の間。
人間の時間でいえば、あっという間。
猫時間でいえば、しばらくの間。
みんなと一緒に過ごしたこの場所、この時間が名残惜しく、愛おしく、ボクの胸を何かが優しく締めつけた。
〇
「ニャー」
その日の夜。
ボクの寝室兼布団部屋のドアを少し開けておいた。そこからユキさんが入ってきた。
あの時、真白さんがそうしてくれたように、ウォークマンをコンセントに繋ぎ、ユキさんの耳にヘッドフォンを被せ、自分の頭にも装着し、青い箱の再生ボタンを押した。
布団にうずもれて横になっているボクの胸元に、ユキさん、いや真白さんが寄り添う。
小気味よいリズムが続き、やがて女性の切ない歌声が聞こえた。
真白さんは安心しきって目を閉じている。
ボクもそれに倣う。
<エピローグ>
チュンチュン。
あー朝か。
片手を上げ、まじまじと見る。それは黒い猫の手。
傍らの真白さんは、もう目を覚ましていた。こっちを見て微笑む。
心なしか、1984に出かける前よりも、元気そうで若々しく見えた。
〇
ボクと真白さんが戻った元の世界では、歴史が二つ、変わっていた。
一つ目、キツネ目事件。
それは未解決事件だったらしいけど、ここに戻ってみたら、犯人が特定され、事件の全容が明らかになっていた。
時雨庵を脅し、捕まった犯人は末端の実行役だったみたいだけど、彼の自白によって、組織は丸裸にされ、主犯格が逮捕された。
二つ目、洋平さんが(前よりも)少し長く生きたこと。
彼は十年前に亡くなっていたはずなのに、それが三年前に変わっていた。七年多く生きたことになる。
ボクがここに来た時は十年以上前だったけど、残念ながら、ボクの記憶は洋平さんと一緒にいた時間があった、という風には上書きされなかった。
真白さんは『旦那はね、ちゃんと君との約束を守ってくれたんだよ、ありがとう』とボクの頭を撫でながら言ってくれた。でもひょっとしたら、彼女から1984の真白さんに、何かしら『申し送り』があったのかもしれない。それに、七年という時間が、長いのか短いのか、猫のボクにはよくわからない。
「私の中の『あの子』はね、洋平さんをしっかり選んだ。そしてあの世にも連れ立ったの……だから、今でも二人は一緒。大丈夫よ。心配しないで」
少し淋しそうに真白さんはボクにささやいた。
こっちの世界に帰って来てからしばらくすると、真白さんは娘であり若女将でもある、楓さんを自分の部屋に呼んだ。
ボクは真白さんの膝の上にいる。
「楓、あなたに頼みがあるの」
「何よ母さん、改まって?」
「先代の大女将、つまりあなたのお婆ちゃんがそうしたように、アタシも名ばかりの大女将になるから、時雨庵をよろしく頼むわ」
「え! ちょっとまだ早くない? 」
「アタシなんか、今のあんたよりもっと若い時からココを任されたんだから。全然問題ナシ!」
「そんな……だって母さん、まだまだバリバリ働けるし……それにさ、最近前よっか元気そうだよ?」
「でしょ? だからこそ、今のうちに楽しみたいのよ。第二の人生を、第二の恋愛を」
「はあ? 何それ……まさかその年で再婚でもするつもり?」
「しないわよー、ねえ?」
そう言ってボクの背中を撫で、そしてささやく。
「それからね、この子も『時雨庵の猫番頭』は引退よ」
カエデさんの表情に『?』マークが浮かんだままだ。
「さあ、二人の時間を楽しみましょう。残されたわずかな時間を」
〇
真白さんはそれを実行した。
彼女はボクを連れ、旅に出て様々な場所を巡った。
白い砂浜の海辺の別荘。
高原のリゾート地。流星群が恐いくらいはっきり見えた。
全国各地の温泉。もちろんペットと入浴可の宿。
夏目漱石にちなんで道後温泉にも行ったけど、残念ながらペットは不可のため、周辺の宿泊施設に泊った。
その他にも、離島、北海道の大草原、地方都市の美術館など、これでもかっていうぐらい旅をした。
時雨庵を任されていた頃は、彼女にとって旅行は夢のまた夢だったらしく、その反動が出たみたいだ。
黒猫を連れた老婦人。
人々にはそう見えたかもしれない。
でも、違うんだ。
真白さんとボクは、1984の世界のままの二人。
彼女は、本当に若くて綺麗で。
ボクも、若くてイケメン(だと思う)。
「ねえ、せっかくこうやって若い姿でいられんだから、お願いがあるの」
「なにかな?」
「ウェディングドレスを着てみたい」
「えっ、け、結婚式⁉」
「『なんちゃって』婚……洋平さんとの式は、湯島天神様で白無垢だったから」
「わ、わかった」
二人で選んだ場所は、軽井沢の石の教会、内村鑑三記念堂。教会といっても、それらしい建物のない、石でできた不思議な空間。
スカートを引きずらない丈のマーメイドドレスはシンプルなデザイン。オフショルダーの首や肩に美しい黒髪が揺れる。星空の下、彼女の名前どおり真っ白なウェディングドレスを身に纏い、黒タキシードのボクの腕に手を回して回廊をゆっくりと歩く姿は、ただただ美しかった。
時を超えて旅をしてきた女(ひと)の美しさだ。
それからも、二人で手をつなぎ、海の音を聞いて、星空を眺め、草原を渡る風の音を聞き。
夜は裸になって心ゆくまで愛し合った。
〇
そんな二人だけの旅を続けて三年。
さすがにボクたちは遊び疲れ、時雨庵に身を落ち着けた。
真白さんの和室の前の縁側。
春の柔らかい陽射しが樹木を照らしている。
彼女は柱にもたれ、ボクを膝の上に乗せ、優しく撫でてくれた。
思い出す。
十数年前、初めてここ、時雨庵にやって来たときのことを。
確か、あの日もこんな陽気だったんだじゃないかな。
ボクはまだ、ほんの赤ん坊猫で、さみしくてピーピー泣いていた。
そんな様子を見て、真白さんは優しく抱きあげ、言ってくれたんだ。
泣かなくていいんだよ。これからアタシがずっと一緒にいるからって。
真白さんがどこからひっぱり出してきたのか、脇に置いた小さなラジカセ。
聴こえてくるのは、シンディが1984 の世界に誘(いざな)ってくれた、あのメロディー。
でも……ボクたちはもう、どこにも行かない。
時空の旅行はもうおしまい。
真白さんがボクを撫でる手が止まった。
見上げると、目を閉じて少し微笑んでいる。
ボクも、もう眠るとしよう……一緒にね。
Time after Time。
以前、ボクはこの言葉の意味をもっと知りたくて、真白さんにスマホでググってもらったことがある。
何度も何度も。
時を超えて。
過去に回帰して。
永遠に。
そうだよ。
これは、キミとボクのための言葉。
もう一度だけ、
庭の景色と真白さんの顔を見て、ボクはまぶたを閉じた。
ありがたいありがたい。
おやすみ。
(第二部了)



