~タイム アフター タイム~ さよならは言わない。1984年の私は、君をずっと待っている。

 ボクの一日の仕事は、たいていお風呂の掃除で終わる。
 夜遅くに風呂掃除をするなんてシンドイだろうって常連のお客さんからよく言われるけど、そんなことはない。どっちかといえば、楽しみにしている。

 まず、女湯の浴槽のお湯を落とし、洗い場も浴槽も風呂桶もデッキブラシやタワシとスポンジを使い、洗剤でゴシゴシ洗って水でジャバジャバ流す。脱衣所は掃除機をかけ、洗面所や椅子は拭き掃除をする。

 そして、男湯に移る。
 ここからがボクの楽しみだ。脱衣所の掃除を先に済ませ、服を脱ぐ。湯舟のお湯は落とさずドボンと飛び込み、まずはゆっくりと『超軟水』のお湯を楽しむ。

 チャポーン、ピチャッ

 水滴が跳ねてこだまする音。石造りの湯船にチョロチョロと流れ込むお湯の音も心地がいい。
 猫の時のボクは、お風呂が大っ嫌いだった。でも人間になってみると、ひと仕事を終えて一日の疲れを癒すにはお風呂が一番だ。しかも、真白さんのこだわりなのか柔らかいお湯が体を優しくいたわってくれる。

 かい人21面相の騒動で、普段は静かな旅館もマスコミの取材陣が押しかけてきて大騒動だった。若女将も取材対応やら警察の聴取やらでテンテコマイだったみたい。旅館のロビーのテレビで見た朝のニュースでは、真白さんは武勇伝を熱く語っていて、なんかテレビに映るのを面白がっているようにも見えた。

 雨降って地固まる、という言葉が正しいのかどうかわからないけど、この一件が後押しして、真白さんと洋平さんは無事、恋人同士になった。ボクが当て馬になることも、カンフル剤を用意する必要も、もうない。めでたしめでたし。

 ……あれ? ボク、涙を流してる……なんでだろう? 
 よかったじゃないか。これで二人の運命が変わってしまう危険もなくなったんだし。そう、よかったって思わなくちゃいけないんだ。

 だめだ。

 おい、クロ。だいたいさ、真白さんは人間で、お前は猫なんだぞ……そう、その通りだよ。
 でも、理屈でわかっていても、まだ心の整理がついていない。

 ガラガラガラ

 不意にドアが開く音が浴場に響いた。
 たまにいるんだよね。お風呂は真夜中でも入れると思ってやってくるお客さんが。ここは温泉じゃないんだけど。

 湯気で姿が見えない相手に声をかける。
「あの、お客様……大変申し訳ありませんが、当旅館の入浴時間は夜の十時半までとなっておりまして、お部屋のお風呂をお使いいただけますか」

 そんなボクの呼びかけを無視し、人影が洗い場を横ぎり、浴槽に近づいてくる。
 やがて、ザー、ザーっと風呂桶でお湯を汲んで体にかける音がした。

 そして人影は足先からポチャリと湯船に入ってきた。
 しょうがないなあ、お風呂掃除、少しだけ待ってあげようか。

 体の前をタオルで隠し、湯船の中を歩いてきた人は、男性ではなかった。

 真白さん!!!

「ご一緒してもいいかしら?」
 そう言って彼女はボクのすぐ隣まで来て体を湯に沈めた。

「ちょちょちょ、ちょっと! ご一緒していいわけないでしょう!」
 慌てて立ち上がろうとしたが、今自分は素っ裸であることを思い出し、すんでのところで動作をストップした。
「だいたいここ、男湯ですよ!」
「そんなの知ってるわ。でも、この時間誰もいないから、いいじゃない」
「ボ、ボクがいます!」
「だってあなた、十年以上一緒に暮らしてたんだから、アタシの裸なんて何度も見てるでしょう?」
「そ、それは、六十~七十代の女性の裸であって……うわっ、アチ!」
「今なんか言った?」
 彼女は手で水鉄砲を作ってボクの顔面にビュッとお湯を命中させた。なんかムッとしている。
「ごめんなさい、失言です……ん?」
 六十~七十代の女性……この会話、なんかおかしくないか?
「真白さん……ボクと十年以上も暮らしてること、なんで知ってるんですか?」
 彼女は答えずに、正面を向いたまま微笑んだ。その横顔。髪を上げた、うなじからのシルエットがすごく綺麗だ。

 だいたい真白さん、『今日は疲れちゃったから、もう寝る』と言って早々に自分のお部屋に入ったはずだ。
 彼女はタオルを湯舟のへりに置き、ボクの方に向き直った。
「さて、問題です。アタシは誰でしょう?」
「……まさか……でも……ボクと一緒に来た、大女将の真白さん……ですか?」
「ピンポーン! 正解」
「ということは、1984の世界の真白さんと、2026の世界の真白さんは同時に存在していた?」
「うーん、それは時間の神様が許さなかったみたいね」
「時間の神様?」
「ほんとにそんな神様がいるかわからないけど、アタシとあの子は同時に存在できないことになってるみたい。なんか、どこかのテーマパークのキャラクターみたいね」
「あ、あの子って?」
「この時代のアタシよ。だって、年齢としては娘の楓(カエデ)と同じようなもんでしょ?」
「……そうですか。でも同時に存在できないんなら、真白さん、ややこしいな……2026からやって来た真白さんはどこにいたんですか?」
「さて、第二問目! この世界に来た時、アタシは『別の者』になっていました。それは何でしょう?」
 ボクは少しノボセ気味の頭で必死に考えた。この旅館のスタッフの誰か? いや、心当たりはない。
「真白、真っ白……白い猫……ひょっとして……ユキさん」
「ピンポーン! 大正解」
「そんな……人間が猫になってしまうなんて?」
「なーに言ってんのよ、あなただって黒猫だったのに、こっちに来たら人間やってるじゃない? しかも、イ・ケ・メ・ン。アタシの場合、正確に言えばユキちゃんの体に間借りさせてもらってるだけなんだけどね」
「……ということは、ここに来てから今までずっと、ユキさんとしてカウンターに座っていたんですか?」
「それがねえ、そうじゃないのよ」
「?」
「アタシが真白に戻りたい、って思ったらそうなっちゃうの」
「えっ! つまり、この世界の真白さんと、ユキさんの中の真白さんが入れ替わるってことでしょうか?」
「そうそう、よくわかったわね。あ、逆もだけどね。あの子がユキちゃんになりたいっ思っても勝手に入れ替われるの」
「……なんです、それは⁉」
「不思議よねー。これも時間の神様のいたずらかしらってあの子と話してたのよ」
「……ちょっ、ちょっと待ってください! 二人は話ができるんですか? ……あなた、つまりユキさんと、この世界の真白さんと」
「なんかそうみたい、話すっていうか、心に語りかけるっていうか」
 頭が混乱してきた。
「するとですね、ボクや洋平さんや旅館の皆さんに、二人は入れ替わりながら接していた、ということなんですよね?」
「その通りよ……さてみなさん、これまでのシーンを振り返ってください。アタシやあの子が若女将の真白として登場したのは、それぞれどの場面でしょう?」
「……あのそれ、誰に向かって話しかけてるんでしょうか?……ああそうか、だからイケメンとかテンプレとかGoogleMapとかギャル語とか、この時代では使わなそうな言葉が真白さんの口から出てきたわけですね?」
「あら、アタシのターンじゃない時、彼女もイケメンとか言ってたわよ。何で知ってるのかわからないけど」
「多分、誰かさんに文字通り洗脳されちゃったんだと思います」
「まあ、人聞きの悪い」

「……ということは、『かい人21面相』が来たとき、ユキさんの中にいたのはこの世界の真白さんで、スマホを持っていた若女将は『あなた』ですよね?」
「そう、これは簡単ね。この時代スマホを持っている人なんてアタシ以外他にいないもの」
「でも何でスマホを持っていたんですか?」
「初めてこっちの世界に来た日……そうね、あなたがココに来る二日前だったかしら。その時は一瞬『若い頃の真白』として目が覚めたんだけどね、胸の間にスマホが挟まってたの」
 そう言って真白さんは両手で自分の胸を寄せてみせた。彼女がフフと笑ったので僕は慌てて胸元から視線をはずした。
「……よく今までバッテリーが持ちましたね?」
「電波もないし、こっちの世界で使うことないからって、ずっと電源を切りっぱなしだったしね。でも変な電話がかかってきたでしょ。だから監視カメラのアプリをオンにしてカウンターにしかけておいたのよ」

 確かにスマホが犯人逮捕の切り札になったのは間違いない。警察での説明と言うかゴマカシは大変だったみたいだけど。

「それから、もう一つだけ。これは確信しているっていうか……でも確かめておきたいって思うことがあるんです」
「何かしら?」
「湯島例大祭で洋平さんとボクがお神輿を担いでいる時、若女将の腕から降りてこっちに向かってきたユキさん、あれは間違いなく『あなた』ですよね?」
「当たり! だけど、何でそう思うの?」
「賭けに出たんじゃないですか? 洋平さんならきっと助けてくれる、そしてそれを見た真白さんは、洋平さんのことが好きになるって」
「その通りよ。きっと洋平さんならそうしてくれるってわかっていたから、何も怖くなかった。でも彼が痛い目にあっちゃったね……悪いことしちゃった」
「ボク、洋平さんが羨ましいっていうか、ちょっと嫉妬します。そこまで信じてもらえるなんて」
「あら、ヤキモチ焼いてくれるの? 嬉しいわね」
 彼女の頬が少し赤らんだような気がする。お風呂のせいかもしれないけど。

 ボクは湯気でぼんやりしている天井の照明を見つめる。
 すごいことになってはいるけど、2026の世界の真白さんも、ちゃんとこの世界に来てくれていたことが嬉しい……でも、気がかりなこともある。

「あの……この世界の真白さんに話したんですか?」
「何を?」
「この先、真白さんと洋平さんが結婚して夫婦になること……そして、洋平さんが先に亡くなってしまうこと」
「ううん、話してないわ……というか彼女、アタシが未来からやってきたって打ち明けても、聞きたがらないのよ。自分がこれからどうなるかって」
「なんかそれ、わかるような気もします」
「そうね……アタシが彼女だったら、やっぱり聞かないと思う。だから、いろんなことがあったとはいえ、洋平さんを選んだのは、あの子自身の選択であることは間違いない」
「そうなんですね……でもよかったと思います。この世界の真白さんも、ちゃんと洋平さんを選んでくれて」
 それを聞いて、彼女はボクがさっきやったみたいに天井を見上げた。
 少し間を置いて真白さんは口を開いた。

「本当に、そう思う?」

「え、どういうことでしょうか?」
「人間の気持ちってそんなに簡単に割り切れるものじゃないんじゃない?」
「よくわかりません」

「未練があるのよ……あなたに」
「え?」

「あなただってあるでしょ?」

 このお風呂の湯気のように、もやもやしているボクの気持ちを真白さんは言い当てた。
「だからね、あの子はアタシに託したの」
「託したって……何を?」
「あなた。黒田翔馬への思いをよ」
「……よくわかりません」
「じゃあ、わからせてあげる」
 そう言って真白さんはボクに向き直り、肩に両腕を回して唇を重ねた。

 天井から落ちる水滴の音。
 湯舟にチョロチョロ流れる軟水の音。
 ずっと低く微かに唸り続けている換気扇の音。
 それが混ざり合ってボクの頭の中で響いた。

 ずいぶん時間が経ったような気がする。

 彼女は唇を離してささやく。

「帰りましょう。元いた世界に」

 そして、湯舟から出ると、裸のまま、洗い場や風呂桶の掃除や整頓を始めた。

「お風呂のお湯は抜いて、浴槽はキミが洗っとくんだぞ」
 そう言って、脱衣所につながるドアを開けた。

 ドアが閉まる直前に。
 「おやすみ」という真白さんの声が浴場に小さくコダマした。