洋平さんは幸い軽傷で済んだらしく、祭りの日の夕方には若女将に付き添われて帰ってきた。軽傷といっても、顔に大きな絆創膏が二つ、右腕に包帯を巻いているうえに全身から湿布の匂いがして、歩き方もぎこちなく痛々しい。
そんな状態で旅館のフロントには立たせられないと、若女将は一週間くらい休みなさいと洋平さんに命じた。でも翌々日から彼は、フロント裏の事務スペースで伝票整理やら備品の発注作業なんかをやっていたようだ。
その日以来、真白さんの洋平さんに対する接し方というか……眼差しが変わったような気がする。怪我人に気を遣っているというよりも、なんというか、自分の身内を世話するように甲斐甲斐しい。確かに身を挺して白猫のユキさんを助けたあの時の光景はインパクトが強かった。洋平さんは、ボクがマゴマゴしているうちに迅速にユキさんの元に駆け寄り、ひるむことなく自分の体でガードした。そんな行動を起こせなかったボクは不甲斐ない気持ちでいっぱいだ。
今一つ解せないのが、ユキさんが真白さんの腕からするりと抜け出したこと。あの子も家猫で、あまり外に出たことがないから、何が危険なのかわからなかっただけなのかも知れないけど、ちょっとひっかかる。
そんな騒動があったので、真白さんがボクに頼んでいた『当て馬になる件』は、うやむやになってしまったような気がする。この一件で、彼女の洋平さんへの好感度がグンと上がったのは間違いない。このまま二人が恋仲になるのを祈るばかりだ。
……うーん、それってボクの本心なんだろうか? 未来から逆算すると、あの二人はやがて結婚して夫婦になるのだから、それが『めでたしめでたし』のはずだけど……なんだかモヤモヤする。
真白さんはボクに『当て馬になって。いや本命でもいいわ』って頼んだ……『本命』はほんの冗談だと思う。でもそれを引き受けてもいいと思っている自分もいる。
こんな風に、真白さんもボクも心境の変化が起き始めているのをよそに、当の洋平さんは今までと変わらずボクたちに接し、淡々と仕事をこなしている。じきに包帯も絆創膏もとれ、今まで通り番頭見習いの源さんの補佐をこなすようになった。
何かが変わりそうで、でもそのきっかけをつかめないまま、梅雨が過ぎ、暑い季節を迎えた。
一つトピックがあるとすれば、この夏、『るるる情報版』という旅行情報誌が発売され、その創刊第一号に『東京下町の旅』という特集が組まれ、わが時雨庵……というよりも真白さんが『人気の美人若女将』としてカラー見開きでドーンと紹介されたことだ。この記事を読んだというお客さんが全国から来てくれて、上野のはずれにある老舗旅館はますます賑やかになった。『メディアのパワーってすごいわ』って真白さんは感心してたけど、メディアというより、若女将のパワーではないだろうか。
メディアといえば、この頃から新聞やテレビの報道が騒がしくなってきていた。『かいじん21面相』とかいう犯罪者があちこちに脅迫状を送り始めたからだ。送り先は主にお菓子や食品メーカーで、時雨庵(ウチ)みたいな旅館やホテルが狙われているわけではなかったけど、やっぱりお客さんの口に入るものを扱っているので、若女将も、板長さんや番頭さんと一緒にどうしたものかと色々話し合っていたようだ。
夏の終わりに事件が起きた。
ジリリリリリ――ン、 ジリリリリリ――ン。
フロントに上にあるダイヤル式の黒電話が鳴り『はいはいはい』と言いながらキクさんが駆け寄って受話器をとった。
「大変お待たせしました! 時雨庵です」
元気よく電話に出た彼女は、黙って相手が喋るのを聞いていたようだが、だんだんと顔が青ざめていくのがわかった。
「切れちゃった」
彼女は力なくそう呟くと、受話器を持ったまま力なくその場に座り込んでしまった。
「キクさん、どうしました⁉」
たまたま玄関のドアのガラス拭きをしていたボクは慌てて彼女の元に駆け寄り、背中を支えた。
フロントで寝そべっていた白猫のユキさんもノソノソと近寄ってくる。
「こ、子供の声……」
「え?」
「子供の声だけど……き、脅迫してくるの」
「その声、なんて言ったんですか?」
「に、人気の旅館かて……くいものに毒いれたら……つぶれるで……って」
「え⁉」
ボクは若女将と源さんを呼び、怯えてうまく喋れないキクさんに代わって、状況を説明した。
話を聞いた源さんが警察に連絡すると二人の警察官がすぐにかけつけ、フロント裏の事務スペースでキクさんと彼女の肩を抱いた真白さんは事情を話した。電話口の子供の声は録音されたもののようで、警察の方の話によると最近世間を騒がせている『かいじん21面相』の手口と似ているという。
「しばらくは一日に何度もこの辺りを警官が巡回に来るようにするので、少しでも変わったことがあればすぐに連絡をください」と言って警官は帰っていった。
それからというもの、旅館のスタッフとりわけ板場の方々は神経を尖らせっぱなしだった。ボクも猫としての『警戒力』を発揮して注意していたけれど、とくに異常はみられなかった。
脅迫電話がかかってきてから一週間後。遂に大事件に発展した。
フギャー! シャアアアアアアー
猫の威嚇の声が旅館のロビーに鳴り響いた。
あれは白猫のユキさんの声だ!
「コラァー! ナニすんねん!」
続いて男性の声。
慌ててロビーに駆けつけると、スーツ姿の男が仰向けに倒れていて、そのうえに乗ったユキさんが男の顔をバリバリ引っ搔いている。やがて男は白猫を両手で無理矢理引き離し、脇に放った。彼女は一回転して無事に着地した。
男は立ち上がり、転がっていたメガネをかけ直した。ツリ目の平板な顔には、ユキさんの爪痕がバッテン印でつけられている。
さっきのユキさんの鳴き声は、『このワルモノ!』という意味だ。
ボクは手を広げて男のすぐ前に立ち、尋ねた。
「お前はいったい誰だ⁉」
「なんやねん、その客への物言いは!」
「お客様じゃないでしょう! この子はそう言っている」
そいうってボクはユキさんの方を向いた。
「猫に何がわかるっちゅうねん?」
ユキさんはタタタとロビーを横ぎり、フロントのカウンターに上がった。
そして、置いてあったものを咥えた。茶封筒だ。
そこに若女将が現れた。彼女はユキさんから封筒を預かり、中に入っている紙を開き、しげしげと眺めた。
紙には新聞かなんかの活字をバラバラに切り抜いたものが貼ってある。
彼女はそれを男に見せながら近づいてきた。ボクがいる位置からは何と書いてあるかは読めない。
「これ、置いていったの、あなたでしょう?」
「……ちゃうで。俺はな、部屋の空きがあるか聞きに来ただけや」
何やらフロントが騒がしいのを聞きつけて、源さんと洋平さんもやって来た。
「嘘をおっしゃい!」若女将の口調はいつになく厳しい。
「客に向かってなんや、それが『老舗旅館の美人若女将』の口のきき方かいな……証拠でもあるんか?」
「あらあなた、『るるる』を読んでここに来てくれたのね」
彼女は脅迫状を床に置くと、もう片方の手に持っていたものを操作し始めた……え! スマホ?
彼女は画面を差し出し、男に見せた。
「商売柄ね、スマホに監視用アプリを入れてあるの」
「なんやその、けったいなモンは」
動画の再生が始まり、無人のフロントが映し出される。やがてそこに男が現れカウンターに茶封筒を置いた。途端にユキさんが男にとびかかった。
「これ、証拠として警察に渡すから。あなたも一緒に来てちょうだい」
「なんやと!」
キツネ目の男は鬼のような形相で若女将に飛びかかった。
そこに誰かが割って入った。
洋平さんだ! 彼は男を横倒しにし、馬乗りになった。
「許さない! 決して許さない……この時雨庵を傷つけようとする奴を……そして私の大切な人、『朝霧真白さん』を傷つけようとする奴を!」
そう叫んで男の胸倉を掴んだ。
ボクと源さんもそれに加わり、男を押さえつける。
そこに板長さんも現れ、キツネ目の男を縄でぐるぐる巻きにした。
やがてパトカーがサイレンを鳴らしてやってきて男は連行されていった。
何人かの警官が残って『犯罪の事件現場』を色々調べたり、ボクたちから話を聞いたりしたが、若女将から証拠の映像としてスマホを見せられたときは、なんだこれは! と驚きを隠さなかった。
真白さんはスマホをどこで入手したのか? スマホのことをどう説明するつもりなのか?
今日、大活躍したユキさんは、再びカウンターの定位置に座り、何食わぬ顔で自分の体を舐めていた。
そんな状態で旅館のフロントには立たせられないと、若女将は一週間くらい休みなさいと洋平さんに命じた。でも翌々日から彼は、フロント裏の事務スペースで伝票整理やら備品の発注作業なんかをやっていたようだ。
その日以来、真白さんの洋平さんに対する接し方というか……眼差しが変わったような気がする。怪我人に気を遣っているというよりも、なんというか、自分の身内を世話するように甲斐甲斐しい。確かに身を挺して白猫のユキさんを助けたあの時の光景はインパクトが強かった。洋平さんは、ボクがマゴマゴしているうちに迅速にユキさんの元に駆け寄り、ひるむことなく自分の体でガードした。そんな行動を起こせなかったボクは不甲斐ない気持ちでいっぱいだ。
今一つ解せないのが、ユキさんが真白さんの腕からするりと抜け出したこと。あの子も家猫で、あまり外に出たことがないから、何が危険なのかわからなかっただけなのかも知れないけど、ちょっとひっかかる。
そんな騒動があったので、真白さんがボクに頼んでいた『当て馬になる件』は、うやむやになってしまったような気がする。この一件で、彼女の洋平さんへの好感度がグンと上がったのは間違いない。このまま二人が恋仲になるのを祈るばかりだ。
……うーん、それってボクの本心なんだろうか? 未来から逆算すると、あの二人はやがて結婚して夫婦になるのだから、それが『めでたしめでたし』のはずだけど……なんだかモヤモヤする。
真白さんはボクに『当て馬になって。いや本命でもいいわ』って頼んだ……『本命』はほんの冗談だと思う。でもそれを引き受けてもいいと思っている自分もいる。
こんな風に、真白さんもボクも心境の変化が起き始めているのをよそに、当の洋平さんは今までと変わらずボクたちに接し、淡々と仕事をこなしている。じきに包帯も絆創膏もとれ、今まで通り番頭見習いの源さんの補佐をこなすようになった。
何かが変わりそうで、でもそのきっかけをつかめないまま、梅雨が過ぎ、暑い季節を迎えた。
一つトピックがあるとすれば、この夏、『るるる情報版』という旅行情報誌が発売され、その創刊第一号に『東京下町の旅』という特集が組まれ、わが時雨庵……というよりも真白さんが『人気の美人若女将』としてカラー見開きでドーンと紹介されたことだ。この記事を読んだというお客さんが全国から来てくれて、上野のはずれにある老舗旅館はますます賑やかになった。『メディアのパワーってすごいわ』って真白さんは感心してたけど、メディアというより、若女将のパワーではないだろうか。
メディアといえば、この頃から新聞やテレビの報道が騒がしくなってきていた。『かいじん21面相』とかいう犯罪者があちこちに脅迫状を送り始めたからだ。送り先は主にお菓子や食品メーカーで、時雨庵(ウチ)みたいな旅館やホテルが狙われているわけではなかったけど、やっぱりお客さんの口に入るものを扱っているので、若女将も、板長さんや番頭さんと一緒にどうしたものかと色々話し合っていたようだ。
夏の終わりに事件が起きた。
ジリリリリリ――ン、 ジリリリリリ――ン。
フロントに上にあるダイヤル式の黒電話が鳴り『はいはいはい』と言いながらキクさんが駆け寄って受話器をとった。
「大変お待たせしました! 時雨庵です」
元気よく電話に出た彼女は、黙って相手が喋るのを聞いていたようだが、だんだんと顔が青ざめていくのがわかった。
「切れちゃった」
彼女は力なくそう呟くと、受話器を持ったまま力なくその場に座り込んでしまった。
「キクさん、どうしました⁉」
たまたま玄関のドアのガラス拭きをしていたボクは慌てて彼女の元に駆け寄り、背中を支えた。
フロントで寝そべっていた白猫のユキさんもノソノソと近寄ってくる。
「こ、子供の声……」
「え?」
「子供の声だけど……き、脅迫してくるの」
「その声、なんて言ったんですか?」
「に、人気の旅館かて……くいものに毒いれたら……つぶれるで……って」
「え⁉」
ボクは若女将と源さんを呼び、怯えてうまく喋れないキクさんに代わって、状況を説明した。
話を聞いた源さんが警察に連絡すると二人の警察官がすぐにかけつけ、フロント裏の事務スペースでキクさんと彼女の肩を抱いた真白さんは事情を話した。電話口の子供の声は録音されたもののようで、警察の方の話によると最近世間を騒がせている『かいじん21面相』の手口と似ているという。
「しばらくは一日に何度もこの辺りを警官が巡回に来るようにするので、少しでも変わったことがあればすぐに連絡をください」と言って警官は帰っていった。
それからというもの、旅館のスタッフとりわけ板場の方々は神経を尖らせっぱなしだった。ボクも猫としての『警戒力』を発揮して注意していたけれど、とくに異常はみられなかった。
脅迫電話がかかってきてから一週間後。遂に大事件に発展した。
フギャー! シャアアアアアアー
猫の威嚇の声が旅館のロビーに鳴り響いた。
あれは白猫のユキさんの声だ!
「コラァー! ナニすんねん!」
続いて男性の声。
慌ててロビーに駆けつけると、スーツ姿の男が仰向けに倒れていて、そのうえに乗ったユキさんが男の顔をバリバリ引っ搔いている。やがて男は白猫を両手で無理矢理引き離し、脇に放った。彼女は一回転して無事に着地した。
男は立ち上がり、転がっていたメガネをかけ直した。ツリ目の平板な顔には、ユキさんの爪痕がバッテン印でつけられている。
さっきのユキさんの鳴き声は、『このワルモノ!』という意味だ。
ボクは手を広げて男のすぐ前に立ち、尋ねた。
「お前はいったい誰だ⁉」
「なんやねん、その客への物言いは!」
「お客様じゃないでしょう! この子はそう言っている」
そいうってボクはユキさんの方を向いた。
「猫に何がわかるっちゅうねん?」
ユキさんはタタタとロビーを横ぎり、フロントのカウンターに上がった。
そして、置いてあったものを咥えた。茶封筒だ。
そこに若女将が現れた。彼女はユキさんから封筒を預かり、中に入っている紙を開き、しげしげと眺めた。
紙には新聞かなんかの活字をバラバラに切り抜いたものが貼ってある。
彼女はそれを男に見せながら近づいてきた。ボクがいる位置からは何と書いてあるかは読めない。
「これ、置いていったの、あなたでしょう?」
「……ちゃうで。俺はな、部屋の空きがあるか聞きに来ただけや」
何やらフロントが騒がしいのを聞きつけて、源さんと洋平さんもやって来た。
「嘘をおっしゃい!」若女将の口調はいつになく厳しい。
「客に向かってなんや、それが『老舗旅館の美人若女将』の口のきき方かいな……証拠でもあるんか?」
「あらあなた、『るるる』を読んでここに来てくれたのね」
彼女は脅迫状を床に置くと、もう片方の手に持っていたものを操作し始めた……え! スマホ?
彼女は画面を差し出し、男に見せた。
「商売柄ね、スマホに監視用アプリを入れてあるの」
「なんやその、けったいなモンは」
動画の再生が始まり、無人のフロントが映し出される。やがてそこに男が現れカウンターに茶封筒を置いた。途端にユキさんが男にとびかかった。
「これ、証拠として警察に渡すから。あなたも一緒に来てちょうだい」
「なんやと!」
キツネ目の男は鬼のような形相で若女将に飛びかかった。
そこに誰かが割って入った。
洋平さんだ! 彼は男を横倒しにし、馬乗りになった。
「許さない! 決して許さない……この時雨庵を傷つけようとする奴を……そして私の大切な人、『朝霧真白さん』を傷つけようとする奴を!」
そう叫んで男の胸倉を掴んだ。
ボクと源さんもそれに加わり、男を押さえつける。
そこに板長さんも現れ、キツネ目の男を縄でぐるぐる巻きにした。
やがてパトカーがサイレンを鳴らしてやってきて男は連行されていった。
何人かの警官が残って『犯罪の事件現場』を色々調べたり、ボクたちから話を聞いたりしたが、若女将から証拠の映像としてスマホを見せられたときは、なんだこれは! と驚きを隠さなかった。
真白さんはスマホをどこで入手したのか? スマホのことをどう説明するつもりなのか?
今日、大活躍したユキさんは、再びカウンターの定位置に座り、何食わぬ顔で自分の体を舐めていた。



