せっかく旅館に引き取られた『猫』として、ボクには子供の頃からやってみたかった夢が二つあった。
 一つ目。布団部屋を『寝城』にして、そこで布団まみれになってゴロゴロすること。
 二つ目。厨房に入って、カツオと昆布の吸い地(出汁)の香りを存分に楽しむこと。

 でもそれは、ボクの主人であり、時雨庵の主人でもある真白さんが決して許してくれなかった。普段はすごく優しくて寛容なのに。まあ、ボクが毛だらけの猫だから当たり前だけど。でも、猫だからこその夢なんだよね。

 ところが! この1984の世界に来て、黒田翔馬(自称)という人間になって、その夢が実現するとは!
 住み込みのアルバイト用の部屋は一つしか空いてなくて、ボクと洋平さんの二人が採用となったので、部屋割りに問題があった。
 「二人一部屋でいいかしらねえ? あと、空き部屋といったら、予備の布団をしまってある布団部屋くらいしかないし……」
 真白さんがそう思案しているのを聞いてボクはためらうことなく手を上げ、『ハイハイハイハイ! ボク、布団部屋でいいです、いや、布団部屋がいいです!』と立候補した。布団の山に埋もれて眠る……これ以上幸せな睡眠方法があるだろうか?

 あと、旅館のスタッフは全員、厨房にある大きなテーブルで代わりばんこに賄いを食べることになっている。猫だったボクは、いつも真白さんの住居棟の縁側で餌を食べていた。だから大出世だ。

 ボクのアルバイトの主な仕事は、主に部屋や廊下とお風呂の掃除、布団の上げ下ろし、お客様の荷物運びや送り迎え。仲居のキクさんが手取り足取り教えてくれた。彼女はまだ十八歳だけど、ボクはこの人が将来、仲居頭となって若い仲居さんをビシバシと鍛えているのを知っている。
 洋平さんの主な仕事は、伝票の整理、スタッフのシフト表の作成などの事務作業や、フロント業務の補佐。番頭見習いの源さんの後をついて、見よう見まねで仕事を覚えている。源さんは2026の世界では大番頭になって、旦那様亡き後、経理に弱い大女将を支えている。
 ボクも洋平さんも旅館のスタッフの方々と同じ『時雨』というこの旅館の屋号の一部がロゴ文字として入った羽織りを着させてもらい、なんだか一人前になったような気がして嬉しかった。

 その年のゴールデンウィークが終わって時雨庵も一息ついたころ、ボクは若女将の真白さんの部屋に呼ばれた。ボクが1984の世界に来て初めて目覚めた、あの和室だ。

「失礼します」
「どうぞ、お入りなさいな」
 浅葱色の着物姿の真白さんは、座卓の向こうに座っていて、急須でお茶を入れている。
 勧められるがままに座布団に座ると、茶托に載せた茶碗をスッと出してくれた。
「少しぬるめに淹れたから、猫さんのあなたでもすぐ飲めるわよ」そういって若女将は悪戯っぽく微笑んだ。

「どう、慣れた? 時雨庵(ここ)の仕事は」
「……要領が悪いのか、小さな失敗の連続で、いつもキクさんにフォローしてもらってばっかりです」
「あらそう? キクちゃんは、翔馬君は飲み込みが早いって褒めてたわよ」
「そんな……」
「でね、今日はアタシからお願いがあって、ここに来てもらったの」
 そう言って若女将はボクに顔を近づけた……近い。
 仕事のことで何かお小言をもらうのかと覚悟してこの部屋に来たから拍子抜けした。
「何でしょうか?」

 彼女はお茶をちょっとだけ啜って口を開いた。
「あなた、アタシの『彼』役……つまり、『当て馬』になってくださらない?」
「はあ⁉」
「どうかしら?」
「いや、どうって言われましても……」
「ああ、ちゃんと理由は話すから」
 そう言って、若女将は背筋を伸ばして姿勢を正したので、釣られてボクもきっちりと正座し直した。

「洋平さんなんだけど、どう思う?」
「……そうですね、ボクとは違う仕事をしているのでよくわからないんですけど、みなさんからきちっとしてるって聞いてます。経理仕事も接客もちゃんとしてるなあ、すごいなあって思ってました」
「そうなのよね、それが困るのよね」
「……どういうことですか?」
「いえね、出来が悪かったら、突っ返してやろうと思ってたんだけどね」
「突っ返す?」
「あの人、住み込みのアルバイトで面接を受けに来たでしょう?」
「ええ、そうですね」
 真白さんと洋平さんとボクが初めて会った日のことだ。
「あれね、時雨庵(ココ)のオーナー、つまりアタシの父のサシガネらしいのよ」
「?」
 お父様は、旅館のことは娘の真白さんに任せて別の所に住んでいるとかで、お会いしたことがない。彼女のお母様は、大女将とは名ばかりで、実質的には引退してお父様と一緒に悠々自適に暮らしているとのことだ。
「洋平さんはね、父が懇意にしている商社の社長の三男坊なのよ」
「そうなんですか?」
「確か、その社長、一泊だけココを利用してくださったことがあって、その時にアタシと一言二言会話したくらいなんだけど、なんかえらく気に入られたみたいでね、『わが家は男の兄弟が余っているから、三男を婿にもらってくれないか』って父に申し入れがあったそうなの」
「それで、アルバイト面接という体裁で洋平さんがここに来られたと?」
「その通り。こないだ久々に父に会ったら、いきなりネタバレしてきてさあ、『お前もいい年だからそろそろどうだ?』って。ムカつくわよね」
 ネタバレ? ムカつく?……まあいいか。真白さんの背後に『プンスカ』という擬態音が見え、なんか急に機嫌が悪くなってきたような気がする。
「そのお話とボクの『当て馬』はどういう関係があるんですか?」
「あらあなた、意外と察しが悪いわねえ」
「……まあ、人間をやり始めたの、最近ですからね」
「ん、何か言った?」
「いえ、独り言です」

「……君が言った通り、洋平さん、仕事ができるでしょう? 何でも、お父様の会社の子会社で幹部をやっていて、実務と経営学を叩きこまれたらしいのよね……その割には、ちょっと頼りないところはあるけど」
 きっと、行商のお婆ちゃんの浦島太郎話を思い出しているのだろう。
「でも、アタシもこの旅館を任されているわけだから、有能な人材は欲しいわけよ……特にアタシ、数字には弱いし」
「じゃあ、願ったりかなったりじゃないですか?」
「こら! だから察しが悪いって言ってるのよ……勝手に親が決めてきた縁談のレールに乗るのは嫌だって言ってんのよ」
「……そういうもんなんですか?」
「そういうもん! だから洋平さんはウチにいて欲しいけど、決して結婚相手じゃない……だからね、『だってアタシには素敵な彼氏がいるんだから!』って言いたいわけ」
「ステキな彼氏って?」
「あー、ホントにもう! あなた、わかっててワザととぼけてるんでしょう⁉」
 ウスウスなんとなくわかってたけど、未来の真白さんや娘さんの楓さんにとってあまり好ましくない話なので困っていたところだ。

「翔馬君、だから、どうかアタシのために『当て馬』になって!」
「お断りしたら?」
「選択の余地は無いわ。名前が『翔馬』だけに」
「しまった!」
 ホントは猫なのに、口から出まかせで馬がつく名を語ってしまったことを後悔した。
「これも何かの縁だと思って……うまくいったら『当て馬』から『本命』にしてあげてもいいわよ。あなた、なかなかのイケメンだし」
 またイケメンって言った……
「若女将はボクのことよく知らないですよね。こんなどこのウマの骨ともわからない奴に、本命なんて気安く言っていいんですか?」
「『ウマの骨』……ウマいこと言うわね。でもね、なんかアタシとあなた、なんか不思議と『ウマが合う』気がするの」
 そりゃそうだ。だって、『未来の真白さん』とボクは、十年以上のつき合いになるんだから。

「本命って……それは困ります」
「翔馬君、ひょっとしてアタシのこと嫌いなの?」
 すごい自信だ。
「嫌いじゃないです。むしろ……好きです」
 恋愛感情じゃなく、飼い主と飼い猫の関係として、と言いたかったんだけど、その場の雰囲気で口にできなかった。真白さんの頬がぱあーっと赤く染まった。
 これ以上、ウマのダジャレ合戦、じゃなくてこの会話を続けてはイケナイ。

「すみません。当て馬の件、少し考えさせてください」
 ボクはそう言って逃げるように彼女の部屋から出て行った。

 〇

 その日の昼の賄いは、洋平さんと一緒になった。
 カツオ出汁と焼き魚や煮魚の香りが混然一体となって漂う至福の空間。それが老舗旅館の厨房だ。
 でも残念ながら、その日の賄い飯は、親子丼だった。とはいえ、フワトロの玉子に出汁が効いていて、無茶苦茶美味い。毬麩とワカメのお吸い物も然り。

「やあ翔馬君、お疲れ様」
「お疲れ様です」
「仕事は慣れた?」
「キクさんに怒られてばかりで、まだまだです」
「ハハハ、私だってそうだよ。源さんにブツブツ言われっぱなしで」
 そう言って洋平さんは丼ぶりから顔を上げ、銀縁メガネ越しに人懐っこい笑顔を見せた。

 これは彼の真白さんに対する気持ちを探るうえで、いい機会かもしれない。
「あの、洋平さん、つかぬ事をうかがいますが……」
「なんだい?」
「その……バイトの面接の日、若女将がおっしゃってましたよね? あれ、どう思います?」
「え、なんて言ってたっけ?」
「……『アタシ、一人娘だから、この旅館の後を継いでくれる婿養子を探してるの。住み込みアルバイトの採用も婿探しの一環よ。アタシの花婿様、絶賛募集中!』って」
「君、若女将のモノマネうまいね!」
「それはいいとして……真白さんの花婿さんになれるとしたら、どう思います?」
「うーん、あれ冗談で言ってたんじゃないの?……そりゃあさ、人柄も魅力的で綺麗な人だから、もしなれたら嬉しいだろうけど」
 この人、お父様から何も聞いていないのか。でも、まったく脈がないというわけではないようだ。
「でも、若女将、君を花婿さんにしたいんじゃないかな? 『黒田君の方が一歩リードかな? お婿さん候補……イケメンだし♥』て言ってたことだし」
「ブホッ、」
 玉子丼が喉につっかえた。慌ててお茶を飲む。アチチチッ! 猫舌なのを忘れてた。洋平さんだって真白さんのモノマネ、うまいじゃないか。
「ま、まさか……それこそ冗談のつもりでおっしゃったと思いますが」
「そうかな?」
 『当て馬』のリハーサルとして、もうちょっと踏み込んでみようか。
「あの、仮に……仮にですよ、もし若女将とボクがおつき合いしているって言ったらどう思います?」
「え! おつきあいしてるの?」
「だから仮に……やっぱり秘密です」
「……そうだね、お似合いで微笑ましいと思うよ」
 そう言った洋平さんの眼鏡のレンズが翳(かげ)ったような気もしないではないが、表情に大きな変化は見られなかった。

 これはなにか、カンフル剤が必要だな、ボクはそう悟った。

「じゃあ、そろそろ仕事に戻らないと……ごちそうさまでした」
 彼は手を合わせた後立ち上がり、食器の載った角盆を洗い場に持っていった。

「あの、洋平さん、もう一つだけ聞いていいですか?」
 厨房を出ようとするところをボクに呼び止められ、洋平さんが振り返る。

「ウォークマンとシンディ・ローパーのカセット、今度借りてもいいですか?」
「ああいいよ、いつでも……まさか君が聞かせてくれたあの話、本当なのかい?」
「それも秘密です」
 嘘とも本当とも答えられなかった。

「今のところヘッドフォンは一つしかないから、もう一つ買っておくよ」
 そう言って彼は厨房を後にした。