進入禁止の彼~好きになったら終わりなのに~

 街のいたるところで、俺の声を聴けといわんばかりにセミが伸びやかな声を上げている。
 だが、晴れやかな彼らの声とは対照的に俺の気持ちはどんよりしたままだった。
 理由はもちろん……木杉に向かって叩きつけたあの言葉のせいだ。
 自分でも言い過ぎたと思わないでもなかった。でも、謝る気にはどうしてもなれなかった。
 あいつが菊工を選んだ理由は俺に容赦なく、”あのとき”を思い出させるから。
 とはいえ、このままでいいわけがない。なんとかしなきゃとぐずぐずしているうちに時間ばかりが過ぎていく。
「あれ、なんでいるの」
 木杉と最後に会ってから四日目、いらいらを募らせながら下校し、家に帰りつくとなぜか母さんが家にいた。看護師の母さんは不規則な勤務形態で働いている。カレンダーを確認すると今日は日勤。朝九時から夕方六時までの勤務のはずで、五時台に家にいるのはおかしい。
「あー、瑞記―。ごめんねー、今日夜勤になっちゃったのよ」
「はあ? え、だって一昨日夜勤だったじゃん。なんで急に?」
「いやー、高橋さんとこのお子さんが熱出しちゃったとかでさあ、代われる人、他にいないらしくて」
 言いながら母さんは慌ただしく冷蔵庫を開け閉めする。
「とりあえず、夕飯用にチャーハン作っておいたから食べてね」
「……もしかしてそんなことのために病院抜けてきたの?」
「そんなことってなに。可愛い息子がお腹空かせるなんて嫌なのよ」
「俺、もう高三なんだけど。買うのだって作るのだってできるのに」
 母さんとは子どものころからずっとふたりで暮らしているけれど、俺に対して過保護なところは全然変わっていない。ありがたいとは思うものの、正直、信用されていないみたいでいらっとする。
「ガキ扱いしないでよ」
「あー、うん。ごめんごめん」
 母さんはいつも通りのへらっとした笑顔を浮かべると、エプロンをさっと外し、椅子の上に置かれていたバッグを引っ掴んだ。
「んじゃ行ってくるから。戸締りしてね」
 声だけを残して風のように颯爽と飛び出していく。ばたん、と閉まったドアを睨みながら俺はテーブルの上に置かれたチャーハンを見る。グリンピースの翠とハムのピンクが眩しいそれを。
 食欲は全くわかなかった。
 忙しい中、頑張ってくれているのはわかる。でも、そんな気遣いなんかより、できないから手伝って、と言ってくれるほうがなんぼかうれしい。
 それが全然母さんには伝わらない。
 私はこんなに頑張ってるのよ、と言われている気がしてテーブルのチャーハンさえ疎ましい。
 八つ当たりだ。こんなの。わかっていたけれど、嫌なものを目の前から遠ざけるみたいにチャーハンを冷蔵庫に放り込んで、俺は制服のまま家を出た。
 チャーハンの匂いが充満した家にいるのがなんだかしんどかった。
 団地の二階の我が家を出て、共用階段を駆け下りる。夏の初めのじっとりと重い空気を浴びながらぶらぶらと歩く。なんの計画もなく歩を進め、団地群を抜け、駅前へ出た。
 都内でも下町のこの辺りだと駅前だからといってそれほど栄えてはいなくて、コンビニとクリーニング屋くらいしかない。汗で湿る首筋を手の甲で拭いながらコンビニを見る。あそこは冷蔵庫みたいなんだろうな、と思ったら自然と足が向いた。
 自動ドアを抜けると、想像通りひんやりと冷たい空気が半袖から伸びた腕を撫でた。暑さに辟易していた肌が安堵するみたいに汗を止める。ほっとしつつアイスコーナーへと向かうと、騒がしい声が聞こえた。見れば、俺みたいに制服姿の学生がアイスコーナーの前でたむろし、あーだこーだ騒いでいる。後にしようと踵を返し、雑誌コーナーを視線でなぞっていたときだった。
「あーれー? 上原くんじゃん?」
 聞き覚えがある声が背中から聞こえてきて、飛び上がってしまった。
「え、上原? ってあの? まじ?」
「絶対そうだって。な、上原だよな」
 別の声がさらに加わる。その声に先ほどの声がさらに呼びかけてくる。
 どうしよう。どうしたら。
 焦るけれど振り返ることができない。その間にも足音が迫ってきて、ぐいと肩を掴まれる。
「あー、ほら、やっぱり。なんで返事しないの。上原くんってば」
 くすっと笑ったその顔。俺と同じく、平均より少し低い身長。変わらなすぎる彼に俺は立ちすくむ。
「中村、くん」
「おー、そうそう。覚えてたんだ~」
 俺はぎこちなく頷いて目を逸らす。まっすぐ顔なんて見られなかった。
「上原、菊工、どうよ。楽しい?」
 けれどそんな俺の態度にお構いなく、中村は顔を覗き込んでくる。その顔はあの頃と同じく無邪気に見える。でも表情の中に隠しきれない粘り気が含まれているのも見て取れて、背筋が凍った。
「あ、えと、おかげ、さまで」
「おかげさまって」
 中村がくっくっと肩を震わせる。そうしながら連れのふたりを首を捻じ曲げるようにして仰ぎ見た。
「聞いた? おかげさまだって。まあ、そう言うか。あそこ男ばっかりだし、上原からしたらたまんないよな」
「やめとけって中村。楽しくやってんならいいじゃん。別に。なあ?」
 たしなめるふうに言う連れのひとりの顔にも見覚えがある。同じクラスではなかったから名前までは知らないけれど、当時中村と仲がよかった人だと思う。
「で、上原、どうよ? 彼氏、できた?」
 中村がくいっとこちらに顔を寄せてくる。その挑戦的な眼差しに一度止まっていたはずの汗が一気に噴き出した。ふら、と足元が揺れる。
「できたよなあ? 菊工なんて男ばっかりだもん。よりどりみどりじゃん。だからお前菊工選んだんだよな」
 ――上原くーん、高校でも頑張ってくださーい、菊工、上原くんにぴったりだと思いまーす。いろいろと。
 間近く瞳の中を覗かれて思わず顔を背ける。過去の声が今の声と混ざって耳の端でがなり立てる。
「なあ、上原って」
 笑い交じりの声に、自分が息を吸い込もうとして失敗した、は、という声が重なる。
 でも空気が肺に入ってきた感じはしない。あれ、と思ってもう一度試す。やっぱり駄目だ。全然うまく吸えない。
 やばい、と慌てて喉を押さえる。肩が大きく揺れる。ちょっとやばくね、と誰かが言う。けれどその誰かの顔も見えない。
 どうしよう、もう……。
「あ~。上原先輩だ」
 くらっと体が傾ぐ。その俺の肩を誰かの手がくいっと掴んだ。
 あっけらかんとした朗らかな声に引かれ、顔を上向けると、白んだ視界にここ数日見ていなかった目に毒なくらいのイケメンが映った。
「なにしてるんですか。作業さぼってこんなとこで」
 呆れた声で言う木杉も制服姿だ。学校帰りにふらっと立ち寄ったという風情でこちらを見下ろしてからすうっと視線を俺から離す。
「この人たち、先輩の友達?」
 友達? そうなのだろうか、確かに中村とは友達だった。でももう、今は……。
「同じ中学、だった、人」
 やっとのことでそれだけ言うと、そっか、と頷きが返される。次いで、そうだ、と明度が上がった声が発せられた。
「さっきね、職員室前の掲示板見たら先輩の名前載ってましたよ。応用情報受かったんですね。高校生であれ受かるの珍しいらしいのに。先輩、めっちゃすごいです」
「あ……」
 確かにその試験なら受けたし、合格したけれど、今それを言う理由ってなんだ。
 内心首を傾げている俺の肩を掴む木杉の手になぜかくっと力が籠った。え、と見上げるが木杉はこちらを見てはおらず、その目はぴたりと中村たちに向けられている。
「知ってます? うちの学校、技術系だから資格とかめっちゃ取れ取れ言われるんですよ。結構難しい国家資格も。それ、先輩受かっちゃったらしくて。やばくありません?」
「あ、ああ、そう、すげえな……」
 中村の連れが気圧されるように返事をする。彼らの反応などお構いなしに木杉は笑顔のまま続ける。
「高校なんて遊ぶものって思ってたのに、先輩見てたら俺も負けてられないなあって思いました。ほんと、先輩ってすごいですよね。まじ尊敬する。先輩達も鼻高々ですよね。こんな優秀な人と同中なんだから」
 ね、と言う声だけがふっと低くなる。俺でさえ思わず身をすくめるくらいどすの利いた、ね、だった。中村が顔を引きつらせるのが見えたが、口を開こうとする中村を制するようなタイミングでぐいと肩が乱暴に引かれた。
「でも同中の人と遊んでる暇はないですよ。菊工祭に間に合わなくなっちゃうから。ほら、作業戻りますよ」
「え、あ」
 そのままずいずいと腕を引かれ、鮮やか過ぎる仕草であっという間にコンビニから連れ出される。
「歩くのしんどいかもだけど、ちょっと頑張れる? 先輩」
 コンビニの自動ドアを抜けたところで木杉が潜めた声で言った。
「まだこっち見てるから。普通っぽい感じで歩ける?」
 言われて……また足元が揺れそうになった。でもぎりぎりで踏みとどまった。
「ある、ける」
「やっぱ気、強いな。それでこそ先輩」
 近い距離で木杉が笑う。抱かれるみたいに掴まれた肩が熱い。その熱にくらくらしながら俺は木杉を必死に見上げる。
「なんで、お前、あそこに?」
「俺の家、近くだから。夕飯買いに」
「夕飯……?」
「うち、母親いないんで。父親も夜の仕事だし。なのであそこはまあ、俺の食糧庫?」
 にやっと笑いながら木杉は歩を進める。
「ってか先輩、家、どっち? 送ってくし」
「え、大丈夫……だから」
「そんな真っ青なのに?」
 はあっと吐き散らすみたいな溜め息が零れる。肩をすくめた俺に、ねえ、と木杉が声をかけてきた。
「なんでそんな顔してんのに意地はんの? いいって言うんだから甘えたら?」
「だって」
 俺はお前にひどいことをたくさん言ったから。
 俺の苛立ちとお前の生き方は関係ないのに、八つ当たりをしてしまった。木杉からしたら理不尽極まりない暴言の数々だったと思う。
 なのに……なぜか木杉は俺を助けてくれた。俺だったらそんなことできない。
 どうして、こいつは。
「余計、だった?」
 ぐるぐるする俺の肩を抱いたまま、木杉がぽつん、と言う。はっとして顔を上げると、合うのを避けるみたいに木杉は目を伏せた。
「でも我慢できなかった。先輩が学校でどれだけ頑張ってるのかあいつらは知らないわけですよね。それをあんな言い方するのは……」
 そこまで言ってから木杉はゆるゆると首を巡らせ、こちらを見た。
「ごめん。この話題嫌ですよね。ってか……俺のことも嫌、ですよね」
「え、なんで……」
「だってそうでしょ。俺は女子が少ないって理由で菊工選んだから。それって先輩からしたら許せないものだったりしませんか? 先輩はそうじゃないのに、そんな理由で選ぶやつがいる。その事実ってすごくむかつくことだと思う。って……さっきね、あいつらの話聞いてて思って。この間先輩が怒った理由もね、なんかわかった気がして。だから、俺」
「お前は」
 思わず口を挟む。ふっと木杉が目を瞬く。その彼の手を肩から外しながら俺は小さく息を整える。うん、大丈夫そうだ。もう、くらくらはしていない。
「さっきの聞いて、なにも思わなかったの?」
「なにも?」
「……俺が彼氏を作るために菊工行ったって聞いて」
「ああ」
 しなやかな首をゆらっと傾げ、木杉は気だるげに笑う。
「別に? なんかいろいろ言ってたけど、先輩がもの作るの好きなのは確かだし。事情はよくわかんないけど、俺は今、俺が見てる先輩を支持するだけ」
 ――あいつ、めちゃくちゃ遊び人だったらしいんだよ。
 そう言っていたのは伊藤だ。別に伊藤だってこいつを貶めたくて言ったわけじゃないのだろう。彼は俺を心配して伝えてきただけだ。そこに悪意はなかったと思う。
 思うけれど、伊藤も俺も、噂に目を向けながら、目の前のこいつを知ろうとはしなかった。
 ただ、やばいやつだ、という認識をし、散らばったピースをかき集めて噂の裏付けをした気になって。
 でも、こいつは違う。俺の噂を聞いても、今、共にいる俺を見ようとした。
 して、くれた。
 ……胸が、熱い。
 じくじく痛むみたいに息継ぎするそれがなにかわからないまま、俺は視線を足元に落とす。
「先輩?」
 気がかりそうに声をかけてくる。その声にさえ、なんだかどきどきする。
 おかしい。俺はどうしてしまったのだろう。
 俯いたまま、視線を彷徨わせ、木杉の手が空っぽなことに気付いた。
「お前、夕飯、買いに行ったんじゃないの?」
「あー」
 声が照れたような響きを帯びる。そろそろと顔を見ると、木杉ははにかんで後ろ頭を掻いた。
「買うの忘れて出てきちゃった。やだなー。あの人達まだいるかな。まあ、後でいっか」
 で、家、どっち? と訊かれる。そろそろと指差すと、納得したように頷いて道を曲がる。
「木杉、あの、さ」
「うん」
「飯、毎日、コンビニ、だったりするの?」
「ん? いや、毎日っていうか、まあ、そこそこ? あ、包丁も使えないやつと思ったでしょう。料理はできるほうですって。面倒だからやらないだけ。俺、なんでもそこそこ器用にこなすので。知ってるでしょ」
 ああ、知っている。数日一緒にいただけだけれど、作業手順を見ていれば要領の良さは見て取れる。でも俺が言いたいことはそういうことじゃない。
「あの」
「はい?」
「飯、うちで食べる?」
 木杉が絶句した。なんで? と顔に書いてある。ああ、そうだ。俺だって、なんで? だ。
 でもなんとなくこのまま木杉と別れたくなかった。いや、もっと言うなら、聞きたいと思ってしまっていた。
 噂じゃなくて木杉のことを木杉の口から聞いてみたかった。
「その、うちも今日母親夜勤で。俺もひとりで飯だから。よかった、ら」
「夜勤」
「看護師なんだ。母親」
「すごい」
 すごい、と言われてくすぐったかった。言葉を探して黙り込むと木杉も黙る。傍らを自転車で中学生の集団が通り過ぎていく。幾対もの車輪が行き過ぎていく音が流れ星の尾みたいに消えたところで、木杉が、えと、と声を発した。
「それって、もう怒ってないってことで、いい、ですか?」
「怒る?」
「この間ガチ切れだったから」
「あ」
 今更ながら気まずくなる。俺ってば、どうなんだ。まだあのときの謝罪もしていなかったなんて。
「うん、怒って、ない。あの」
「そか」
 ごめんを俺が口にする前に、ふっと広い肩から力が抜ける。
「よかった」
 心の底からみたいな声で呟かれて、なんだかますますどきどきしてしまった。
「じゃ、行こっかな。せっかく誘ってもらえたし」
 にこっと笑われ、いたたまれなくなる。俯いた俺を、先輩? と木杉が呼ぶ。
「まだ具合悪い?」
「悪く、ない」
 そうっと喉をさする。苦しくない。ないけれど、鼓動だけが速い。不自然な動悸に困惑しつつ俺は息をすうっと吸う。
「木杉、あの」
「ん?」
「あり、がとう」
 家まではあと少し。この坂を上ればすぐだ。中腹で振り返ると、俺を見上げるようにして木杉が首を傾げていた。
「さっき、入ってきてくれて……あと、展示場でも気遣ってくれて。めちゃくちゃありがたかった。なのに俺、ちゃんと礼も言ってなくて。だから」
 ふうっと木杉が目を見張る。夏休み前のねっとりと熱い風が吹きつけてくる。背中にじわりと汗が滲んで俺は慌てる。
「ごめん。ここ暑いな。早く行こ……」
 言いかけた俺の手首がするっと握られた。木杉も思わずの行動だったのだろうか。俺が振り向いたと同時に手首に絡みついた指が震えた。でも……手は解けなかった。
「あ、の」
「俺」
 白に金色を混ぜた西日が落ちてくる。横から注がれるその光の中で木杉はまっすぐに俺を見ていた。日頃から茶味を帯びている瞳を光に浸しながらも、眩しがる様子もなく、ただひたすらに俺だけを見つめていた。
「先輩のこと、もっと知りたいかも」
 瞬間、どきっと肋骨の中で心臓が跳ねた。その俺の戸惑いに気付いたように、ごめん、と木杉が謝った。するっと手首から長い指が外れる。
「でも、なんか今、めっちゃそう思った」
 俺の手首から離した手で木杉が前髪を直す。
「だから、家、行けるのうれしい。ありがと、先輩」
 こちらを見ずに落とされた声。意味なく前髪をいじる手の形。
 それらを見ている俺の胸の内にじわじわとこみあげてきたのは……うれしい、という気持ちだった。
 ……こいつも俺と同じこと、思ってくれてて、とても。
「ど、どういたしまして。……行こか」
 でも自覚すると恥ずかしくて、顔を見ていられない。慌てて坂道を上る俺の背中で木杉が、はい、と返事する声が聞こえた。
 柔らかく、ほのかに甘い声だった。