去年も同じイベントが行われていて、来場者数は七千人を超えたなんて話をニュースで見た覚えがある。その実績を想えば、今年もそれを超える動員数になることは予想できていた。
いたけれど、まさかこれほどとは。
会場の前には入場待ちの長蛇の列。やっと入り口までたどり着いても、ホールの高い天井が霞んでしまうほどの人いきれで息苦しいほどだ。
わんわんと響く人声、会場内に繰り返し流されるアナウンス、各ブースから漏れ聞こえてくる不規則な機械音。それらが輪となって包んできてくらくらする。
これはちょっとだめなタイプの人混み、かも。
「さてと、先輩、どこから見ます? 結構広いから絞ったほうがいいですよね。AIのゾーンはAホールか。あと……」
すぐ横で木杉がなにか言っている。でもその声さえ取り囲んでくる音の波に霞んでしまう。
「先輩?」
「あ」
視界に木杉の顔が突然飛び込んできて、俺はぎこちなく目を逸らす。
いけない。ここはあのときじゃない。わかっているはずなのに呼吸が浅くなってしまう。動揺する俺を木杉がじっと見つめてくる。その探るような目から俺は必死に顔を背ける。
「そ、だな。とりあえずAホール、だっけ、行ってみよっか……」
ふわふわしながらなんとか声を押し出し、足を踏み出す。
……大丈夫。ただ人が多いだけだ。あのときとは違う。
自分に言い聞かせながら歩き出す。でも全然周りを見回す余裕がない。その俺の肩にどん、と誰かの体がぶつかった。
急いでいるのか相手は立ち止まらず行ってしまう。ただそれだけの出来事だったはずなのに、俺のほうは即座に立て直せない。
ふわっとよろめき、たたらを踏んでしまう。やばい、こける……。
「大丈夫ですか?」
声とともにぐい、と腕が引き寄せられ、体がまっすぐになった。朦朧としながら見上げる。間近く俺を見下ろす木杉がいた。
「あ、あ、ごめん」
ふらふらしているところを見られて恥ずかしい。俯くと、頭の上で小さく木杉が息をついた。
「いいですけど。あの、もしかして気分、悪いですか?」
「悪くない。そういうんじゃなくて」
そういうんじゃなくて、ちょっと怖かっただけだ。
……人の波があのときに重なって。
頭の中で声がしたけれど、そんなこと口にはできない。大丈夫だから、と曖昧に言って腕に絡んだ木杉の手を振り払おうとする。が、逆にきゅっと強く握られ俺はぎょっとした。
「え、ちょっと……」
「ごめんなさい」
「なに、が?」
「人混み、ほんとに苦手みたいなのに連れてきちゃって。帰ります?」
……帰る?
唖然とする俺の腕を引いて木杉は脇へずれる。そのままブースとブースの間に立っていた柱の陰に俺をすっと引っ張り込んだ。
「いや、俺と出かけるのが嫌で人混み苦手って言ってんのかなって思ってたんだけど、ぶつかられたときの先輩の顔見たらそうじゃないのわかったから」
「え、あの、俺、そんな変な顔、してた?」
「変っていうか、怖がって見えた」
言われてちょっと……どきっとした。
トラウマだなんて大げさなことは言いたくない。大勢の人間に囲まれるとちょっとだけあのときのことを思い出して動悸が激しくなるだけだ。本当に……それだけ。学校でも教室にいるくらいなら平気だし、電車だって乗れないわけじゃない。
ただ、大きな四角い空間いっぱいに人がいると想像すると、思い出してしまって苦しくなる。
――上原くーん、高校でも頑張ってくださーい、いろいろと。だってあそこなら。
「平気」
耳の中に蘇りそうになった声を必死でねじ伏せ、俺は顔を上げる。
「大丈夫。行こう」
「無理、してません?」
「してないよ」
綺麗に流れる眉がすっと寄せられる。ちょっと険しいくらいの顔を木杉はしていたけれど、俺はあえて笑顔を作った。
別にこいつに笑ってやる必要もないし、このままここに留まる必要もない。帰ろうか、と言われたのだし、うん、じゃあ帰ろう、と言えばそれで終わりにできる。
でも怖いから帰りたいなんて言いたくなかった。
会って二度目の後輩にそんな弱いところを見せるのはさすがに嫌だった。
というより……自分の弱さを突き付けられたようで悔しかった。
もう三年も経っているのだ。いい加減しっかりしたい。負けたく、ない。
「ここまで来たのに電車代もったいない」
木杉は何か言いたげな顔をして黙っている。その彼を俺も黙って見上げる。数秒後、はああ、と息を吐き、沈黙を破ったのは木杉のほうだった。
「先輩って見た目完全に捕食される側なのに、実はかなり気強いですよね」
「捕食される側ってなんだこら」
そりゃあお前は捕食する側で俺はされる側だろう。でもネズミだってただ食べられるわけじゃない。窮鼠猫を噛むともいうし。
「とにかく、大丈夫。確かに人混みは苦手だけど、ゆっくり行けば……」
そこまで言ったところで俺はネズミさながらに飛び上がってしまった。
「ちょ、は? なに?」
なんでだか、木杉の手が俺の右手を掴んでいたために。
「手、繋いでます」
「見りゃわかる! 事実じゃなくて理由を訊いている! なんで手、繋ぐ?」
「ここから先、さらに人多いので、俺が牽引しようかと」
「けんいん?」
「車を車が引っ張る的な」
「え……牽引?! いやいやいや! いいから!」
慌てて木杉の手を振り払おうとする。でも強い力で握られていて離れてくれない。
「放せって!」
「放さないです」
「なんで!」
「あんな顔見たら放せないし、放したくないです」
さらっと言われて俺は動きを止めた。あんな顔なんて言われるくらい、俺はひどい顔をしてしまっていたのだろうか。
たかが人にぶつかられたくらいで。思い出してしまった、くらいで。
陰鬱な思いに再び飲み込まれそうになる。黒雲みたいに覆いかぶさってくるそれを俺は頭を振って退ける。
「いや、本当に大丈夫だから。ってか、恥ずかしいし。大体お前だって嫌だろ? 俺なんかと手繋いでるとこ人に見られたら。だから」
「別に俺は恥ずかしくないです」
あっさりと言い切られて唖然としてしまう。まじまじと顔を見るが、実際、少しも恥ずかしそうにしていない。
「そもそも誰にどう思われてもよくないですか。そうしたいって思ったことをしてるだけ。勝手に言わせておけばいいんです」
それに、と言いながら木杉は歩き出す。相変わらず手は繋いだまま。
「人混み嫌って言ってた先輩を無理やり誘っちゃったの俺なんで。責任取らないと」
「責任って……」
こいつ、責任って言葉が座右の銘かなにかなのか?
呆れている俺の手をやっぱり木杉は放そうとしない。責任感だかなんだかわからない手の力でもって俺は牽引されていく。
「律義かよ……」
意味がわからない。まったく理解不能だ。
ただ。
俺はそっと胸を押さえる。
いつもだとこのレベルの人混みの中にいたら、胸がざわざわしていて呼吸も浅くなる。
でも今はそれがない。鼓動も徐々に平常時のリズムを取り戻し始めているし、息も苦しくない。
誰かに手を引かれた状態なら大丈夫ということなのだろうか。試したことがなかったから気付かなかった。
さっきまでは靄がかかったみたいで満足に周囲を確かめることもできなかったけれど、今はくっきり見える。
驚きながら俺はそうっと辺りを見回す。今いるところはロボット展示エリアだ。米の粒の形を計測し、正しく精米するためのロボットが実演をしているのが見える。その横にあるのは……人を笑わせるロボット?
「ちょっと、見たい」
「どこ?」
「そこ。人を笑わせるロボット」
指さした先を木杉が確かめる。ああ、と頷いて、木杉は俺の手をくいっと引っ張った。
「確かに気になる。先輩、お目が高い」
笑いながら木杉が俺を目当てのブースの前に押し出した。
いたけれど、まさかこれほどとは。
会場の前には入場待ちの長蛇の列。やっと入り口までたどり着いても、ホールの高い天井が霞んでしまうほどの人いきれで息苦しいほどだ。
わんわんと響く人声、会場内に繰り返し流されるアナウンス、各ブースから漏れ聞こえてくる不規則な機械音。それらが輪となって包んできてくらくらする。
これはちょっとだめなタイプの人混み、かも。
「さてと、先輩、どこから見ます? 結構広いから絞ったほうがいいですよね。AIのゾーンはAホールか。あと……」
すぐ横で木杉がなにか言っている。でもその声さえ取り囲んでくる音の波に霞んでしまう。
「先輩?」
「あ」
視界に木杉の顔が突然飛び込んできて、俺はぎこちなく目を逸らす。
いけない。ここはあのときじゃない。わかっているはずなのに呼吸が浅くなってしまう。動揺する俺を木杉がじっと見つめてくる。その探るような目から俺は必死に顔を背ける。
「そ、だな。とりあえずAホール、だっけ、行ってみよっか……」
ふわふわしながらなんとか声を押し出し、足を踏み出す。
……大丈夫。ただ人が多いだけだ。あのときとは違う。
自分に言い聞かせながら歩き出す。でも全然周りを見回す余裕がない。その俺の肩にどん、と誰かの体がぶつかった。
急いでいるのか相手は立ち止まらず行ってしまう。ただそれだけの出来事だったはずなのに、俺のほうは即座に立て直せない。
ふわっとよろめき、たたらを踏んでしまう。やばい、こける……。
「大丈夫ですか?」
声とともにぐい、と腕が引き寄せられ、体がまっすぐになった。朦朧としながら見上げる。間近く俺を見下ろす木杉がいた。
「あ、あ、ごめん」
ふらふらしているところを見られて恥ずかしい。俯くと、頭の上で小さく木杉が息をついた。
「いいですけど。あの、もしかして気分、悪いですか?」
「悪くない。そういうんじゃなくて」
そういうんじゃなくて、ちょっと怖かっただけだ。
……人の波があのときに重なって。
頭の中で声がしたけれど、そんなこと口にはできない。大丈夫だから、と曖昧に言って腕に絡んだ木杉の手を振り払おうとする。が、逆にきゅっと強く握られ俺はぎょっとした。
「え、ちょっと……」
「ごめんなさい」
「なに、が?」
「人混み、ほんとに苦手みたいなのに連れてきちゃって。帰ります?」
……帰る?
唖然とする俺の腕を引いて木杉は脇へずれる。そのままブースとブースの間に立っていた柱の陰に俺をすっと引っ張り込んだ。
「いや、俺と出かけるのが嫌で人混み苦手って言ってんのかなって思ってたんだけど、ぶつかられたときの先輩の顔見たらそうじゃないのわかったから」
「え、あの、俺、そんな変な顔、してた?」
「変っていうか、怖がって見えた」
言われてちょっと……どきっとした。
トラウマだなんて大げさなことは言いたくない。大勢の人間に囲まれるとちょっとだけあのときのことを思い出して動悸が激しくなるだけだ。本当に……それだけ。学校でも教室にいるくらいなら平気だし、電車だって乗れないわけじゃない。
ただ、大きな四角い空間いっぱいに人がいると想像すると、思い出してしまって苦しくなる。
――上原くーん、高校でも頑張ってくださーい、いろいろと。だってあそこなら。
「平気」
耳の中に蘇りそうになった声を必死でねじ伏せ、俺は顔を上げる。
「大丈夫。行こう」
「無理、してません?」
「してないよ」
綺麗に流れる眉がすっと寄せられる。ちょっと険しいくらいの顔を木杉はしていたけれど、俺はあえて笑顔を作った。
別にこいつに笑ってやる必要もないし、このままここに留まる必要もない。帰ろうか、と言われたのだし、うん、じゃあ帰ろう、と言えばそれで終わりにできる。
でも怖いから帰りたいなんて言いたくなかった。
会って二度目の後輩にそんな弱いところを見せるのはさすがに嫌だった。
というより……自分の弱さを突き付けられたようで悔しかった。
もう三年も経っているのだ。いい加減しっかりしたい。負けたく、ない。
「ここまで来たのに電車代もったいない」
木杉は何か言いたげな顔をして黙っている。その彼を俺も黙って見上げる。数秒後、はああ、と息を吐き、沈黙を破ったのは木杉のほうだった。
「先輩って見た目完全に捕食される側なのに、実はかなり気強いですよね」
「捕食される側ってなんだこら」
そりゃあお前は捕食する側で俺はされる側だろう。でもネズミだってただ食べられるわけじゃない。窮鼠猫を噛むともいうし。
「とにかく、大丈夫。確かに人混みは苦手だけど、ゆっくり行けば……」
そこまで言ったところで俺はネズミさながらに飛び上がってしまった。
「ちょ、は? なに?」
なんでだか、木杉の手が俺の右手を掴んでいたために。
「手、繋いでます」
「見りゃわかる! 事実じゃなくて理由を訊いている! なんで手、繋ぐ?」
「ここから先、さらに人多いので、俺が牽引しようかと」
「けんいん?」
「車を車が引っ張る的な」
「え……牽引?! いやいやいや! いいから!」
慌てて木杉の手を振り払おうとする。でも強い力で握られていて離れてくれない。
「放せって!」
「放さないです」
「なんで!」
「あんな顔見たら放せないし、放したくないです」
さらっと言われて俺は動きを止めた。あんな顔なんて言われるくらい、俺はひどい顔をしてしまっていたのだろうか。
たかが人にぶつかられたくらいで。思い出してしまった、くらいで。
陰鬱な思いに再び飲み込まれそうになる。黒雲みたいに覆いかぶさってくるそれを俺は頭を振って退ける。
「いや、本当に大丈夫だから。ってか、恥ずかしいし。大体お前だって嫌だろ? 俺なんかと手繋いでるとこ人に見られたら。だから」
「別に俺は恥ずかしくないです」
あっさりと言い切られて唖然としてしまう。まじまじと顔を見るが、実際、少しも恥ずかしそうにしていない。
「そもそも誰にどう思われてもよくないですか。そうしたいって思ったことをしてるだけ。勝手に言わせておけばいいんです」
それに、と言いながら木杉は歩き出す。相変わらず手は繋いだまま。
「人混み嫌って言ってた先輩を無理やり誘っちゃったの俺なんで。責任取らないと」
「責任って……」
こいつ、責任って言葉が座右の銘かなにかなのか?
呆れている俺の手をやっぱり木杉は放そうとしない。責任感だかなんだかわからない手の力でもって俺は牽引されていく。
「律義かよ……」
意味がわからない。まったく理解不能だ。
ただ。
俺はそっと胸を押さえる。
いつもだとこのレベルの人混みの中にいたら、胸がざわざわしていて呼吸も浅くなる。
でも今はそれがない。鼓動も徐々に平常時のリズムを取り戻し始めているし、息も苦しくない。
誰かに手を引かれた状態なら大丈夫ということなのだろうか。試したことがなかったから気付かなかった。
さっきまでは靄がかかったみたいで満足に周囲を確かめることもできなかったけれど、今はくっきり見える。
驚きながら俺はそうっと辺りを見回す。今いるところはロボット展示エリアだ。米の粒の形を計測し、正しく精米するためのロボットが実演をしているのが見える。その横にあるのは……人を笑わせるロボット?
「ちょっと、見たい」
「どこ?」
「そこ。人を笑わせるロボット」
指さした先を木杉が確かめる。ああ、と頷いて、木杉は俺の手をくいっと引っ張った。
「確かに気になる。先輩、お目が高い」
笑いながら木杉が俺を目当てのブースの前に押し出した。



