進入禁止の彼~好きになったら終わりなのに~

 すっかり涼しくなった風に頬を撫でられながら、陽光にきらめく噴水の雫を見つめ、俺はそうっと呼吸を整える。
 緊張することなんてないのだ。全然。でもやっぱりまだ慣れない。
 こんなふうに待ち合わせをするという状況がどうにも、照れ臭くて。
 もぞついたとき、ポケットの中から、ぽろん、と音が響いた。スマホを引っ張り出して確認すると、”彼”からだった。
 ――もうすぐ着くから。
 ただの文字だ。でもそこに、早く会いたい、がはっきりと滲んでいるのがわかる。
 ――待ってる。
 自分の文字にも、会いたい、を込めながら短く返し、俺はそうっと画面を指先でなぞった。
 そこに進入禁止のアイコンはもうない。代わりにあるのはふたりで作った、安心くんの顔。
 ――俺と先輩を繋いでくれた子だからさ。
 そう言ったときのあいつの恥ずかしそうな顔を思い出して頬を染めた俺の肩に、とん、と衝撃が来た。
「なににやにやしてんの」
 肩に肩をぶつけ、ベンチの隣に滑り込んできたのは、さっきまで画面上で会話をしていた彼。
「なんでも、ない」
「そう?」
 首を傾げてから木杉は、俺が手にしたままのスマホを見る。慌ててポケットに放り込むが遅かったようだ。
「俺が来るの、そんなに待ち遠しかった?」
 耳元で囁かれて顔が一気に熱を放つ。そんなわけない、と否定しようとしたけれど、そこで木杉の顔に浮かんだ待ち焦がれるみたいな表情に気付いてしまった。
 こんな顔をされたらごまかせないだろうが、もう。
「……うん」
 だから俺は頷く。しっかりと。
 一瞬の沈黙の後、こつん、と再び、肩に肩が当てられた。
「俺も、会いたかった」
 甘さの滲んだ声とともに返されたのは、笑顔。
 学校ではまずしない、心からの笑顔をされてこっちまで微笑んでしまった。
「その後、叔母さんとは、どう?」
 夏休み、一緒にあひるボートに乗った公園をぶらぶらと歩きながら訊くと、木杉は、んー、と唸った。
「まあ悪くない。ってか若干過干渉かも。だってさ、弁当とかめちゃくちゃ張り切って作ってくれるんだもん。俺、高校生だってのに、キャラ弁なんだよ。ちびねこってやつ。知ってる? 先輩」
「知ってる」
 戸惑いがちょっとだけ混じる笑顔を見ながら俺は笑って頷く。
 困った顔をして見せるけれど、楽しそうだ、と安心しながら。
「まあ、でも、いいもんだな、とは思うけどね。残さず弁当食べたとき、ありがとう、って逆に言われちゃうのとか、なんか、すごく、さ」
「そっか」
 少し前、木杉は引っ越しをした。もともと住んでいた父親の家を出て、亡くなった母親の妹に当たる人と暮らし始めたのだ。
「母さんが亡くなったとき、叔母さんから言われてはいたんだ。父さんみたいな忙しい仕事してる人が子育てなんて難しいだろうしうち来る?って。でもうちの父親、プライド高いから、できないって言えなくてさあ。そのままずるずると一緒に暮らしててあの状態で」
 引っ越しが決まってすぐ、木杉は俺にことの顛末を語ってくれた。その顔は穏やかで、でもやっぱりちょっと苦しそうで、心配でたまらなくなったけれど、その俺の気持ちを読み取ったみたいに、木杉は笑って続けた。
「けど、俺、父さんに言えたんだよね。叔母さんのとこ行きたいって。父さん、最初は納得しなかったんだよ。だから、全部話した。父さんの恋人との間にあったことも全部。そしたら、わかってくれた。ごめんって言ってもくれたんだ。まあ謝るのは俺のほうな気もするけど」
「謝らなくていい」
 正直、俺としてはまだもやもやはしていた。だって、父親のせいで木杉が傷ついたのは確かで、それをあの父親はもっと反省して心に刻むべきだとも思ったから。でも、当の木杉は俺よりもよほど大人だった。
「いいんだよ。どっちが悪いとか考えるのしんどいし。今は父さんとの関係も悪くないし。適度な距離があったほうがよかったんだよ。俺と父さんの場合は」
 俺は木杉ほど大人ではないし、こいつはもっと物分かりが悪くてもいいくらいだと思う。けれどそれでも今、叔母さんの家で木杉がのびのびと暮らせていることがすごくうれしかった。
 こいつに大人じゃない顔でもっともっと笑ってほしいと思ったし、笑わせてやりたいと願っていたから。
 いや、俺が笑わせる、絶対。
「今日はハクチョウ乗れるかな」
「ハクチョウ乗りたいの? 先輩」
 ボート乗り場で軽く伸び上がる。俺に倣うように木杉も爪先立ちながら問いかけてくる。
「んー、ハクチョウ、じゃなくても、いい」
 俺がなにを思い浮かべたのかが伝わったのだろうか。木杉がこちらを見て笑った。その俺達に向かって声が投げられる。
「はーい、お兄さん達、あひるのボートねー」
 ボート乗り場のおじさんに促されながら俺達は顔を見合わせる。
「またあひる」
「もはやこれは運命かも」
「かもかも」
 笑いあいながら、平たいくちばしを陽光に光らせるあひるボートに乗り込む。ふたり並んで座ったところで俺はぐいっとペダルを踏み込んだ。
「えいや!」
「先輩、俺が漕ぐから」
 木杉が俺の膝をそっと叩く。初めてこれに乗ったときみたいなさりげない制止に懐かしさを覚えながら、俺はペダルを踏む足に力を込める。
「じゃ、一緒に踏もう?」
「……うん」
 柔らかい声とともにがくん、とペダルが軽くなった。その軽さに心まで連動して軽やかになる。
「すごいね。やっぱ体力が違う」
「ふふ。だからいいよ、先輩、そんな頑張って漕がないでも。ちょっと踏んでくれるだけで十分」
 ……それは俺の台詞だ。
 言わずに俺はくいっとペダルに体重をかける。
 今でも正直、人混みは苦手だ。電車もあんまり乗りたくないし、あのコンビニでまた中村達に出くわしたら、と怯える気持ちもある。
 けれど前と違うのは、たとえ同じ事態に陥ったとしてももううなだれずにいられそう、ということ。
 俺にはこんなふうに一緒にペダルを踏んでくれる木杉がいてくれる。こっちに預けて、と笑ってくれるこいつが。
 だからもう、怖くない。
「先輩、こっち向いて」
 木杉が呼ぶ。反射的にそちらを見ると木杉の手の中でぱしゃり、とスマホが音を立てた。
「こら、撮るなよ!」
「いいじゃん。すっごくいい顔してる。ねえ、これ待ち受けにしていい?」
「はあ?! だめに決まってるだろ!」
「ええ~、じゃあ、これにしよう。見て」
 にこにこしながら木杉がスマホを俺に向けてくる。
 そこにあったのは真っ赤な夕日の写真だった。息を呑むほどに鮮烈なその赤は俺が決死の思いで送ったもの。
「先輩の声、聞こえた気がしたんだ。これ見たとき」
「どんな?」
 そっと促すと、木杉はスマホを自分のほうに引き寄せて口許にうっすらと笑みを浮かべた。
「一緒にこの夕日が見たいよ、って」
 ……よかった。
 ……ちゃんと伝わってた。
 涙が込み上げてくる。それをごまかすように俺はぐい、とペダルを漕ぐ。とぷん、と水音を立てて動き始めたボートの上で木杉が囁く。
「見ようね、いっぱい。これからも」
「……ん」
 俺と一緒に木杉の足もペダルを漕ぐ。その彼に微笑みかけながら俺は決めていた。
 待ち受け、俺も夕日の写真にしよう、と。

―――了―――