木杉が手を放したのは、旧校舎の一角、第二美術室の前だった。完全に物置と化したここは幽霊が出るなんて噂があるせいか人気がない。祭りの最中でありながらもしん、と静まったそこで、木杉は背中を向けたまま黙りこくっている。
「ええと、あの」
ここは俺がなんとかするべきだろうか。そろそろと口を開いたとたんだった。いきなり木杉が俺を置いて足早に歩き始めた。あまりにも予想外すぎる行動にぎょっとしたものの、そのマイペースな動きにさすがにいらっとした。
「こら待て! なんなんだよ! こんなとこ連れてきて! 用があるならちゃんと言え!」
俺の剣幕に圧されたように木杉の足がぴたりと止まる。背中が向けられたまま、乾いた声だけが返された。
「用はないです」
「用もないのに俺と恩師の再会を邪魔したのか」
ちょっと言い方がきつすぎるだろうか。でも言わずにいられなかった。だってひどくないか?
用はない、なんて。そんなの、お前には興味がない、と言っていることと同じじゃないのか。そんなのは……。
「わけわかんないことすんなよ! こっちは三年ぶりに先生と話してたのに。大体お前は身勝手過ぎる。こっちの気持ちも考えないで割り込んできて……」
「そんなに話したかったのかよ、あの人と!」
不意に大声に大声がかぶせられ、俺は続けようとしていた言葉を呑み込む。背中を向けていたはずの木杉がこちらに向き直り、俺のほうへとつかつかと戻ってくるところだった。
「先輩はまだあの人が好きなわけ? だからあの人といるとこ邪魔されて怒ってんの?」
「なっ……んなわけ、ないだろ!」
「だって今言った! 邪魔したって! しかもめっちゃ泣いてたし。あれってまさかうれし泣き?」
そういうことじゃない。いや、確かに邪魔はされた。でも俺が怒っているのはそういうことじゃない。というより、おかしくないか?
「なんなんだよ、お前は!」
ぴくり、と木杉が体を震わせる。その木杉の前で俺は足を踏み鳴らしていた。
「なんでお前がそんなに怒る? お前、俺のことなんてなんとも思ってないんだろ! そのなんとも思ってないやつが誰となにしてようが関係ないはずだろ!」
唖然としたように木杉はこちらを見つめ返す。その顔がとにかく苛立たしくて俺はさらに地団太を踏んだ。
「なのにお前ってば急に割り込んで手掴んで! そんなのされたら期待しちゃうだろうが!」
ぜいぜいと肩で息をする。のっぺりと重く横たわる沈黙が数秒続いた。そこではっとした。
……今、俺、なんて言った?
「期待、しちゃうって、なに?」
重い空気をこじ開け、木杉が問いかけてくる。詰め寄るように歩を進められて、俺はとっさに下がる。けれど木杉は止まってくれない。
背中が閉ざされた第二美術室の扉に当たったところで木杉が俺の肩をぐい、と掴んだ。
「教えてよ。先輩はなにに期待してるの」
「いや、あの、期待なんて、言ってない」
「言った」
なおも木杉が歩を詰める。俺の足と足の間に上靴の爪先が入るほどに近づいた木杉は、俺を睨み下ろすようにして囁いた。
「ねえ、先輩。教えて。教えてくれないと俺、怖くて……もう、どうしていいかわからない」
――怖いよ……。
少し震えたその声を聞くや否や、俺の鼓膜に蘇ったのは、あの雨の日、俺を抱きしめながら漏らされたこいつの声だった。そこで気付いた。
あのときと同じようにこいつが震えていることに。
「なにが、怖い?」
密やかな声で問い返すと木杉の目が揺れた。俺の左肩に絡んでいた右手がすっと解けそうになる。その手の上に俺は手を置いた。肩から離れないように上からそっと力をかけると、木杉はますます動揺したように視線を逸らした。
「訊いてるの、俺なんだけど」
「うん。でも俺もお前がなにを怖がってるのかちゃんと聞きたい。じゃないと俺も言えない。だって、俺が期待していることがお前を怖がらせていることだったら俺、嫌だ」
本当は俺だってすごく怖い。こいつが怖がっているのが俺のこの胸の内にある気持ちだったらと思うと震えが止まらない。だから今、こう言うことだってもしかしたらぎりぎりのラインかもしれない。こいつを怖がらせてしまうかもしれない。でももう。
「先輩が俺を怖がらせてるわけじゃ、ないよ」
ぼそりと零れた声に俺は弾かれたように顔を上げる。木杉は唇を噛みしめている。その表情はまるでなにかを抑え込もうとでもしているみたいに見えた。
「全部、俺の問題。先輩がなにを言っても俺は怖がったりしないから。だからお願い、先輩」
言って。
声にならない声が聞こえた気がした。
こいつがなにを考えているのか、俺にはまったくわからない。もしかしたらこいつ自身もよくわかっていないのかもしれない。けれどひとつだけわかるのは……こいつが俺の言葉を聴きたいと思ってくれているらしいこと。
だから。
「さっき、さ、俺ね、あひるくんに言われたんだ」
「え、あひるくん?」
思わぬ単語を聞いたというように木杉が目をぱちぱちする。そんな顔をすると、普段の大人びた表情が崩れて、あどけなく見える。それがなんだか可愛くて、つい微笑んでしまいながら俺は言葉を継ぐ。
「『あなたが我慢してなにも言わないことを悲しいと思う人もきっといるよ』って。俺はさ、それを聞いた瞬間、お前の顔、思い出したんだよね」
「……俺?」
ゆらり、と木杉が首を傾げる。その木杉を一度見上げてから俺は顔を俯ける。
「だってお前は俺に手、差し出してくれたから。人混みで立ち止まっちゃったときも、コンビニで中村たちに会っちゃったときも。立往生してる俺を助けてくれた。俺の話、聴きたいって顔、してくれた。それ見て俺は思ったから。お前はすごく優しくて、そんなお前だから俺は……」
だめだ。やっぱりこれ以上は言えない。木杉じゃないけれど俺も……怖い。
うなだれたとき、廊下の先にある階段から話し声が聞こえてきた。声はどんどん近づいてくる。
気付けば、めちゃくちゃ近い距離で向かい合って見つめ合っている。はたから見たらどんな関係に見えちゃうのだろう。
想像したらかっと頬が熱くなった。慌てて重ねていた手を木杉の手の上からどかす。けれど、体はドア側に追い詰められた状態だ。木杉がどいてくれないと離れられない。
「木杉、あの」
人が、と言いかけたときだった。俺の声を掬い取るように、不意に木杉の手が動いた。俺の肩を掴んでいた手で俺の体を引き寄せ、反対の手で、俺が背中を預けていた第二美術室の扉を開ける。
そのままするっと身を翻すようにして扉の中へ入る。俺の肩を抱えたまま。
からり、と扉が閉じられ、とん、と軽い音を立てて閉じた扉に背中を押し付けられる。驚く俺の耳が、第二美術室を通り過ぎ、その奥へと向かっていく生徒たちの声を拾った。
他愛ない話をしながら行き過ぎていく彼らの目に俺達の姿は映らなかったらしい。ほっとした直後だった。
「続き」
声とともに掴まれていたままの肩がきゅっと握り締められた。
ドアを挟んで室内に入っても、寸分変わらない距離で木杉は俺を見つめていた。
「さっきの続き、話して」
「ええと、あの」
ここは俺がなんとかするべきだろうか。そろそろと口を開いたとたんだった。いきなり木杉が俺を置いて足早に歩き始めた。あまりにも予想外すぎる行動にぎょっとしたものの、そのマイペースな動きにさすがにいらっとした。
「こら待て! なんなんだよ! こんなとこ連れてきて! 用があるならちゃんと言え!」
俺の剣幕に圧されたように木杉の足がぴたりと止まる。背中が向けられたまま、乾いた声だけが返された。
「用はないです」
「用もないのに俺と恩師の再会を邪魔したのか」
ちょっと言い方がきつすぎるだろうか。でも言わずにいられなかった。だってひどくないか?
用はない、なんて。そんなの、お前には興味がない、と言っていることと同じじゃないのか。そんなのは……。
「わけわかんないことすんなよ! こっちは三年ぶりに先生と話してたのに。大体お前は身勝手過ぎる。こっちの気持ちも考えないで割り込んできて……」
「そんなに話したかったのかよ、あの人と!」
不意に大声に大声がかぶせられ、俺は続けようとしていた言葉を呑み込む。背中を向けていたはずの木杉がこちらに向き直り、俺のほうへとつかつかと戻ってくるところだった。
「先輩はまだあの人が好きなわけ? だからあの人といるとこ邪魔されて怒ってんの?」
「なっ……んなわけ、ないだろ!」
「だって今言った! 邪魔したって! しかもめっちゃ泣いてたし。あれってまさかうれし泣き?」
そういうことじゃない。いや、確かに邪魔はされた。でも俺が怒っているのはそういうことじゃない。というより、おかしくないか?
「なんなんだよ、お前は!」
ぴくり、と木杉が体を震わせる。その木杉の前で俺は足を踏み鳴らしていた。
「なんでお前がそんなに怒る? お前、俺のことなんてなんとも思ってないんだろ! そのなんとも思ってないやつが誰となにしてようが関係ないはずだろ!」
唖然としたように木杉はこちらを見つめ返す。その顔がとにかく苛立たしくて俺はさらに地団太を踏んだ。
「なのにお前ってば急に割り込んで手掴んで! そんなのされたら期待しちゃうだろうが!」
ぜいぜいと肩で息をする。のっぺりと重く横たわる沈黙が数秒続いた。そこではっとした。
……今、俺、なんて言った?
「期待、しちゃうって、なに?」
重い空気をこじ開け、木杉が問いかけてくる。詰め寄るように歩を進められて、俺はとっさに下がる。けれど木杉は止まってくれない。
背中が閉ざされた第二美術室の扉に当たったところで木杉が俺の肩をぐい、と掴んだ。
「教えてよ。先輩はなにに期待してるの」
「いや、あの、期待なんて、言ってない」
「言った」
なおも木杉が歩を詰める。俺の足と足の間に上靴の爪先が入るほどに近づいた木杉は、俺を睨み下ろすようにして囁いた。
「ねえ、先輩。教えて。教えてくれないと俺、怖くて……もう、どうしていいかわからない」
――怖いよ……。
少し震えたその声を聞くや否や、俺の鼓膜に蘇ったのは、あの雨の日、俺を抱きしめながら漏らされたこいつの声だった。そこで気付いた。
あのときと同じようにこいつが震えていることに。
「なにが、怖い?」
密やかな声で問い返すと木杉の目が揺れた。俺の左肩に絡んでいた右手がすっと解けそうになる。その手の上に俺は手を置いた。肩から離れないように上からそっと力をかけると、木杉はますます動揺したように視線を逸らした。
「訊いてるの、俺なんだけど」
「うん。でも俺もお前がなにを怖がってるのかちゃんと聞きたい。じゃないと俺も言えない。だって、俺が期待していることがお前を怖がらせていることだったら俺、嫌だ」
本当は俺だってすごく怖い。こいつが怖がっているのが俺のこの胸の内にある気持ちだったらと思うと震えが止まらない。だから今、こう言うことだってもしかしたらぎりぎりのラインかもしれない。こいつを怖がらせてしまうかもしれない。でももう。
「先輩が俺を怖がらせてるわけじゃ、ないよ」
ぼそりと零れた声に俺は弾かれたように顔を上げる。木杉は唇を噛みしめている。その表情はまるでなにかを抑え込もうとでもしているみたいに見えた。
「全部、俺の問題。先輩がなにを言っても俺は怖がったりしないから。だからお願い、先輩」
言って。
声にならない声が聞こえた気がした。
こいつがなにを考えているのか、俺にはまったくわからない。もしかしたらこいつ自身もよくわかっていないのかもしれない。けれどひとつだけわかるのは……こいつが俺の言葉を聴きたいと思ってくれているらしいこと。
だから。
「さっき、さ、俺ね、あひるくんに言われたんだ」
「え、あひるくん?」
思わぬ単語を聞いたというように木杉が目をぱちぱちする。そんな顔をすると、普段の大人びた表情が崩れて、あどけなく見える。それがなんだか可愛くて、つい微笑んでしまいながら俺は言葉を継ぐ。
「『あなたが我慢してなにも言わないことを悲しいと思う人もきっといるよ』って。俺はさ、それを聞いた瞬間、お前の顔、思い出したんだよね」
「……俺?」
ゆらり、と木杉が首を傾げる。その木杉を一度見上げてから俺は顔を俯ける。
「だってお前は俺に手、差し出してくれたから。人混みで立ち止まっちゃったときも、コンビニで中村たちに会っちゃったときも。立往生してる俺を助けてくれた。俺の話、聴きたいって顔、してくれた。それ見て俺は思ったから。お前はすごく優しくて、そんなお前だから俺は……」
だめだ。やっぱりこれ以上は言えない。木杉じゃないけれど俺も……怖い。
うなだれたとき、廊下の先にある階段から話し声が聞こえてきた。声はどんどん近づいてくる。
気付けば、めちゃくちゃ近い距離で向かい合って見つめ合っている。はたから見たらどんな関係に見えちゃうのだろう。
想像したらかっと頬が熱くなった。慌てて重ねていた手を木杉の手の上からどかす。けれど、体はドア側に追い詰められた状態だ。木杉がどいてくれないと離れられない。
「木杉、あの」
人が、と言いかけたときだった。俺の声を掬い取るように、不意に木杉の手が動いた。俺の肩を掴んでいた手で俺の体を引き寄せ、反対の手で、俺が背中を預けていた第二美術室の扉を開ける。
そのままするっと身を翻すようにして扉の中へ入る。俺の肩を抱えたまま。
からり、と扉が閉じられ、とん、と軽い音を立てて閉じた扉に背中を押し付けられる。驚く俺の耳が、第二美術室を通り過ぎ、その奥へと向かっていく生徒たちの声を拾った。
他愛ない話をしながら行き過ぎていく彼らの目に俺達の姿は映らなかったらしい。ほっとした直後だった。
「続き」
声とともに掴まれていたままの肩がきゅっと握り締められた。
ドアを挟んで室内に入っても、寸分変わらない距離で木杉は俺を見つめていた。
「さっきの続き、話して」



