卒業してから一度も会ってはいなかった。でも久しぶりに目にした先生は、少しも変わっていなかった。
華奢で、姿勢がよくて、頭が小さい。男でも女でも生徒のことはさん付けで呼び、敬語も崩さない。あのころそのままだ。
ただ、その先生がなぜこんなところにいるのだろう。
「すみ、ません。少し、驚いて。あの……なんで……」
ああ、だめだ。全然言葉が出てこない。あわあわする俺を、先生は相変わらずの凪いだ瞳で見つめている。
「気になっていたので。ちゃんと元気にされているのかと。ただ、去年の釣りゲームを見て、楽しく学校通えているのかなと思ってはいたので、それほど心配はしていなかったんですけど」
「去年って……え? 去年も来てくれてたんですか?」
「まあ。しかし菊工祭は毎年すごいですね。今年も作品数が膨大で。おかげで迷ってしまいました」
照れたように笑ってから、こちらに歩み寄ってくる。先生の手元には菊工祭の案内マップがあり、それにはくしゃりとしわが寄っていた。
「相当、迷ったんですか?」
「あー、はい。方向音痴で」
ああ、こういう人だった。しっかりしているようで意外と抜けていて。だからこの人は中学時代、人気があった。
そんなこの人に俺は迷惑をかけてしまった。
俺なんかが好きと言ったために。
「拝見、していいですか? 上原さんの作品」
でも、そんなことなんてまるでなかったみたいな優しい顔で、先生は俺の傍らにあるノートパソコンを覗き込む。
あひるくんがぱくぱくと口を開け閉めして、先生を見上げた。
「声から感情を読み取り、その人に今必要な言葉を返します」
パソコンの横に置かれた作品紹介のプレートを読み上げ、先生がそっと目元を和ませる。
「面白いですね。発想がとても」
「先生、俺、あの」
この人はどうしてこんなに変わらないでいてくれるのだろう。
あまりにも昔のままのその態度にだんだん胸が苦しくなってきた。
「俺、あの、先生に謝りたいと思って、たんです。ずっと」
……俺が水野先生に告白し、それを中村に見られた後、水野先生は妙な噂を立てられるようになった。付き合ってなんていないのに、俺と先生がふたりでこっそり会っているとか、授業でも贔屓されているだとか、身勝手なことを言い立てられた。
俺はそれを片っ端から否定した。そんなことはあり得ない、と断言した。そもそも俺達は噂されるような関係なんかじゃまったくなかったから、先生が学校を追われるだとか、そんなことまでにはならなかったけれど、生徒との距離の取り方には気を付けるように、と校長から注意を受けたらしい。
それを聞いて、消えたくてたまらなくなった。だって俺が告白しなければ先生はそんな嫌な思いをしないで済んだのだ。本当なら先生に土下座したいくらいだったが、俺が下手にそばに寄ればますます先生の立場が悪くなる。そう思ったから、なにも言えないまま、卒業してしまった。
その僕の後悔の核にいた人が目の前にいる。
「中学のとき……俺が告白、なんかしたから。先生に迷惑をかけてしまい、ました」
水野先生はなにも言わない。ただ、相変わらず静かな眼差しをこちらに向けてくる。
「俺、そのこと、ずっと。だからあの、本当に……」
「ああ、やっぱりそうか」
まだ続けようとした俺の声を制するように、ぽつん、と声が落ちる。ふっと目を上げると、先生は困ったように笑っていた。
「上原さんのことだからまだ気にされているのではと思っていました。ただ……僕は勘違いしていたようですね。僕の顔を見ると嫌なことを思い出させてしまうのかもと思っていたけれど、そうじゃなかったんですね」
「嫌なんて……! そうじゃなくて、俺のせいで先生が大変な目にあったから……」
「上原さん、はっきり言いますね」
不意に声が硬くなり、すっと居住まいが正された。
「僕は迷惑なんて思ったことはないです。応えることはできませんでしたけれど、それでも好意を向けてもらえたことは素直にうれしいと思いましたよ」
「いや、でも校長先生から注意受けたりとか、みんなに噂されたりとかしましたよね。そんなの、俺が先生に告白、しなかったら……」
「それらは全部あなたのせいじゃないでしょう」
強い口調で言いきられ、思わず背中が揺れる。
「あなたは好きと言ってくれただけ。好きだと思う相手に好きと伝えることはそんなに悪いことでしょうか。あなたは困らせたくて僕に言ったわけじゃないでしょう?」
好きだと思う相手に好きと伝えること。
先生が言った言葉が胸を刺した。
そう、なのだろうか。本当にそれでいいのだろうか。
「困らせたかったわけじゃ、ないです。でも」
相思相愛なら伝えるのが正解だと思う。でも確実に自分のことを好きじゃない相手に想いを告げることは、単なる自己満足であり、相手の負担にならないか。
瞼の裏に、木杉の後ろ姿がすっと横切る。
「俺、間違えてばっかりなんです。好きって思っちゃいけないのに好きになってしまう。それ、今も全然変わって、なくて」
そこまで言ってしまってからはっとする。
一体俺はなにを言っているのだろう。
「あの、えと、すみません。今更こんな。あ、あの! 先生、これ、試してみます? 後輩と作ったんです。結構力入れて、だから」
慌てふためき、キーボードを操作する。が、動揺しすぎたのか、操作手順を誤り、認識ボタンを押してしまった。
とっさにリセットボタンを押そうとしたが遅かった。ぽろん、とPCが鳴き、一瞬早く俺の声をあひるくんが拾った。処理中であることを示すようにぱくぱくとオレンジ色のくちばしが動く。
「あ、すみません。もう一度……」
だが、俺がリセットボタンを押す前に処理が完了したメッセージが画面に点灯する。次いで、さらさらっと文字がモニターに刻まれ始めた。
何やってんだ俺、と自分に呆れながら文字に目を走らせ……息を呑んだ。
『俺はあなたみたいな人のことがとても、好きだよ』
呆気にとられる俺を置いてきぼりに、あひるはぱくぱくと口を動かしながら文字を画面に紡ぎ続けている。
『我慢して、言いたいことも言えなくて。耐えているあなたはとても優しいと思うから』
『でも、あなたが我慢してなにも言わないことを悲しいと思う人もきっといるよ』
『手を繋ぎたいと思う人もいるはず。そのことをどうか覚えていて』
これは……ただのプログラムだ。アルゴリズムに従い、人の音声から感情パターンを読み取り、響きそうな言葉をデータから引っ張り出しているだけ。だから間違いだってある。的外れなことだって言う。
もちろん感情も、ない。
あるわけない。でも今、目の前に表われた文字を見たとたん、目頭が熱くなるのを止められなかった。
――詩や短歌を紹介するっていうのもいいと思うんです。でももっとこう、生きている言葉みたいなのが俺はほしい。
――生きている言葉?
これは……あひるくんを開発中、木杉と交わした会話だ。
音声から感情を読み取った後、どんな言葉を提供するかについて検討していたときのものだ。
――普通に使うみたいな、普段使いの言葉。元気出して、とか、ここにいるよ、とか、そういうの返ってきたら俺はうれしい。
あのときは木杉の言うことがあまりよくわからなかった。しょせんプログラムによって導き出された言葉だ。そんな当たり前の言葉を機械に言われたからって響きはしないだろう。それよりは今の自分の心に添うような名言や短歌を紹介してくれるAIのほうが有意義なのでは、という気持ちが俺にはあった。
でも……違った。
――なんでそんな顔してんのに意地はんの? いいって言うんだから甘えたら?
今、俺に向かってあひるくんが紡いでくれた言葉の向こうに、木杉の声が聞こえた。
それは、コンビニで中村たちに絡まれた後、遠慮する俺を叱り飛ばしたときの声だった。
思い出したらもう、だめだった。
溢れ出してくるものを抑えきれなくなってしまった。
……木杉。
モニター上に連なる文字を見つめながら俺はそっと呼びかける。
ここにはいないあいつに。進入禁止の向こう側にいる、彼に。
……木杉、俺はお前に会いたいよ。
……会って、好きって、言いたいよ。
「上原さん?」
先生が傍らから呼びかけてくる。我に返り、ごしごしと腕で目元をこする。その俺の腕を先生の細い手が押さえた。
「だめです。そんなふうにこすっては。あの、これで」
慌てたように先生が上着のポケットからハンカチを引っ張り出す。綺麗にアイロンのかかったそれを受け取って目元に押し当てた。
「すみません……」
「いえ」
短く言って先生はモニターに目をやる。あひるくんは放ち終わった言葉を前に相変わらず単調な動きで口をぱくぱくさせている。そのあひるくんを見つめていた先生の横顔がふっと和んだ。
「とても素敵な言葉ですね」
「あ、ええと」
ありがとうございます。そう言おうと思った。多分、それが今、一番この場に適した言葉だろう。実際、途中まで言いかけた。
でも気が変わった。もっと言いたいことができてしまったから。
「この台詞のパターン、後輩のアイディアなんです」
「一緒に作った?」
「はい。そいつ、なんていうか……人の気持ちなんてわかんないみたいなこと言うやつですけど、でもそうじゃなくて。むしろいつも人のこと、見てて。いや、見過ぎてて。苦しそうで。そんなあいつだから」
……そばにいたい、そう思ったんです。
そこまでは言えなかった。先生も促さなかった。ただ、そうですか、と頷いてあひるくんから俺に目を戻し、微笑んだ。
後悔ばかりしていた。この人を苦しめて、自分も苦しくて、人を好きになるなんてろくなものじゃないと思っていた。でも……それは間違っていたと思う。
俺はやっぱりこの人を好きになってよかったと思うし、あいつのことも好きになってよかったって思うから。
「水野先生、俺」
まだ出たがる涙を借りたハンカチで拭き、顔を上げた。だが、先生の目は俺から逸れていく。逸れて、俺の背後をすうっと見る。不自然な視線の動きにつられて振り向く。
その俺の手首が、いきなり掴まれた。
「今」
手首を握り締めた相手が低い声で言う。その声を聞いた瞬間、とくん、と大きく心臓が跳ねた。
ここ数日、ずっと聴きたいと思っていた声だったから。
ただ声は硬くて、少し怒っているようにも聞こえて、それが俺を戸惑わせた。
「え、あの、木杉?」
「水野先生って、言った?」
しかも久しぶりに会ったというのに、木杉の目は俺ではなく、俺の向こうで焦点を結んだままだ。
「ちょっと、木杉、なに……」
こいつは一体、なにを言うつもりなのだろう。ぴりぴりしているようだけれど、なんで……。
「あんたさあ、急に来て、先輩泣かしてんじゃねえよ」
だが、木杉の口から飛び出た台詞は、俺の予想をはるかに超えるものだった。
「ちょ、は? お前、なに言ってんの?」
「だって泣いてんじゃん。それこの人のせいだろ」
木杉の俺よりもずっと淡い色の目が初めてこちらを向く。ああ、相変わらず綺麗な目だな、と思ってしまってから、そんなことを考えている場合じゃないと自分に呆れた。
「い、いや、泣いてはいるけど、先生は悪くないから。ハンカチ、貸してくれて、ええと」
「ハンカチくらい俺が貸す!」
言いざま、ぱっと木杉の手が俺の手からハンカチを奪う。おいこら、と言う間もなく、ぐいっとハンカチが先生に突き返された。
「どうもありがとうございました! もういいので!」
「あ、ええと。はい」
水野先生はあまり慌てるタイプではない。自分の意に添わない出来事が起こって暴れる生徒に対しても顔色を変えず、静かな表情で対峙する。
今もそうでその穏やかな顔がやっぱり懐かしかった。
「行くよ、先輩」
「え、でも、そんなわけに……」
けれどそんなノスタルジーに浸っている俺の気持ちなど無視した手が、俺の腕をぐい、と掴んで引く。
さすがにこんなの失礼だ。せっかく来てくれたのに。文句を言おうと口を開きかけたが、その俺に向かって水野先生が浮かべてみせたのは、あのころと寸分変わらないひっそりとした笑みだった。
大丈夫だよ、と言う声が溶け込んでいるみたいな、柔らかい表情だった。
その笑顔のまま、先生は丁寧な会釈をこちらへよこす。
先生の変わらなすぎる一礼を見たら、張りつめていた空気が一気に緩むのを感じた。
だから笑った。笑ってひょこりと頭を下げてみた。引っ張られながらだったから先生みたいに綺麗じゃない、不格好な礼だったけれど、先生にはちゃんと受け取ってもらえたと思う。
なんだか……今初めて、中学をちゃんと卒業した気がした。
華奢で、姿勢がよくて、頭が小さい。男でも女でも生徒のことはさん付けで呼び、敬語も崩さない。あのころそのままだ。
ただ、その先生がなぜこんなところにいるのだろう。
「すみ、ません。少し、驚いて。あの……なんで……」
ああ、だめだ。全然言葉が出てこない。あわあわする俺を、先生は相変わらずの凪いだ瞳で見つめている。
「気になっていたので。ちゃんと元気にされているのかと。ただ、去年の釣りゲームを見て、楽しく学校通えているのかなと思ってはいたので、それほど心配はしていなかったんですけど」
「去年って……え? 去年も来てくれてたんですか?」
「まあ。しかし菊工祭は毎年すごいですね。今年も作品数が膨大で。おかげで迷ってしまいました」
照れたように笑ってから、こちらに歩み寄ってくる。先生の手元には菊工祭の案内マップがあり、それにはくしゃりとしわが寄っていた。
「相当、迷ったんですか?」
「あー、はい。方向音痴で」
ああ、こういう人だった。しっかりしているようで意外と抜けていて。だからこの人は中学時代、人気があった。
そんなこの人に俺は迷惑をかけてしまった。
俺なんかが好きと言ったために。
「拝見、していいですか? 上原さんの作品」
でも、そんなことなんてまるでなかったみたいな優しい顔で、先生は俺の傍らにあるノートパソコンを覗き込む。
あひるくんがぱくぱくと口を開け閉めして、先生を見上げた。
「声から感情を読み取り、その人に今必要な言葉を返します」
パソコンの横に置かれた作品紹介のプレートを読み上げ、先生がそっと目元を和ませる。
「面白いですね。発想がとても」
「先生、俺、あの」
この人はどうしてこんなに変わらないでいてくれるのだろう。
あまりにも昔のままのその態度にだんだん胸が苦しくなってきた。
「俺、あの、先生に謝りたいと思って、たんです。ずっと」
……俺が水野先生に告白し、それを中村に見られた後、水野先生は妙な噂を立てられるようになった。付き合ってなんていないのに、俺と先生がふたりでこっそり会っているとか、授業でも贔屓されているだとか、身勝手なことを言い立てられた。
俺はそれを片っ端から否定した。そんなことはあり得ない、と断言した。そもそも俺達は噂されるような関係なんかじゃまったくなかったから、先生が学校を追われるだとか、そんなことまでにはならなかったけれど、生徒との距離の取り方には気を付けるように、と校長から注意を受けたらしい。
それを聞いて、消えたくてたまらなくなった。だって俺が告白しなければ先生はそんな嫌な思いをしないで済んだのだ。本当なら先生に土下座したいくらいだったが、俺が下手にそばに寄ればますます先生の立場が悪くなる。そう思ったから、なにも言えないまま、卒業してしまった。
その僕の後悔の核にいた人が目の前にいる。
「中学のとき……俺が告白、なんかしたから。先生に迷惑をかけてしまい、ました」
水野先生はなにも言わない。ただ、相変わらず静かな眼差しをこちらに向けてくる。
「俺、そのこと、ずっと。だからあの、本当に……」
「ああ、やっぱりそうか」
まだ続けようとした俺の声を制するように、ぽつん、と声が落ちる。ふっと目を上げると、先生は困ったように笑っていた。
「上原さんのことだからまだ気にされているのではと思っていました。ただ……僕は勘違いしていたようですね。僕の顔を見ると嫌なことを思い出させてしまうのかもと思っていたけれど、そうじゃなかったんですね」
「嫌なんて……! そうじゃなくて、俺のせいで先生が大変な目にあったから……」
「上原さん、はっきり言いますね」
不意に声が硬くなり、すっと居住まいが正された。
「僕は迷惑なんて思ったことはないです。応えることはできませんでしたけれど、それでも好意を向けてもらえたことは素直にうれしいと思いましたよ」
「いや、でも校長先生から注意受けたりとか、みんなに噂されたりとかしましたよね。そんなの、俺が先生に告白、しなかったら……」
「それらは全部あなたのせいじゃないでしょう」
強い口調で言いきられ、思わず背中が揺れる。
「あなたは好きと言ってくれただけ。好きだと思う相手に好きと伝えることはそんなに悪いことでしょうか。あなたは困らせたくて僕に言ったわけじゃないでしょう?」
好きだと思う相手に好きと伝えること。
先生が言った言葉が胸を刺した。
そう、なのだろうか。本当にそれでいいのだろうか。
「困らせたかったわけじゃ、ないです。でも」
相思相愛なら伝えるのが正解だと思う。でも確実に自分のことを好きじゃない相手に想いを告げることは、単なる自己満足であり、相手の負担にならないか。
瞼の裏に、木杉の後ろ姿がすっと横切る。
「俺、間違えてばっかりなんです。好きって思っちゃいけないのに好きになってしまう。それ、今も全然変わって、なくて」
そこまで言ってしまってからはっとする。
一体俺はなにを言っているのだろう。
「あの、えと、すみません。今更こんな。あ、あの! 先生、これ、試してみます? 後輩と作ったんです。結構力入れて、だから」
慌てふためき、キーボードを操作する。が、動揺しすぎたのか、操作手順を誤り、認識ボタンを押してしまった。
とっさにリセットボタンを押そうとしたが遅かった。ぽろん、とPCが鳴き、一瞬早く俺の声をあひるくんが拾った。処理中であることを示すようにぱくぱくとオレンジ色のくちばしが動く。
「あ、すみません。もう一度……」
だが、俺がリセットボタンを押す前に処理が完了したメッセージが画面に点灯する。次いで、さらさらっと文字がモニターに刻まれ始めた。
何やってんだ俺、と自分に呆れながら文字に目を走らせ……息を呑んだ。
『俺はあなたみたいな人のことがとても、好きだよ』
呆気にとられる俺を置いてきぼりに、あひるはぱくぱくと口を動かしながら文字を画面に紡ぎ続けている。
『我慢して、言いたいことも言えなくて。耐えているあなたはとても優しいと思うから』
『でも、あなたが我慢してなにも言わないことを悲しいと思う人もきっといるよ』
『手を繋ぎたいと思う人もいるはず。そのことをどうか覚えていて』
これは……ただのプログラムだ。アルゴリズムに従い、人の音声から感情パターンを読み取り、響きそうな言葉をデータから引っ張り出しているだけ。だから間違いだってある。的外れなことだって言う。
もちろん感情も、ない。
あるわけない。でも今、目の前に表われた文字を見たとたん、目頭が熱くなるのを止められなかった。
――詩や短歌を紹介するっていうのもいいと思うんです。でももっとこう、生きている言葉みたいなのが俺はほしい。
――生きている言葉?
これは……あひるくんを開発中、木杉と交わした会話だ。
音声から感情を読み取った後、どんな言葉を提供するかについて検討していたときのものだ。
――普通に使うみたいな、普段使いの言葉。元気出して、とか、ここにいるよ、とか、そういうの返ってきたら俺はうれしい。
あのときは木杉の言うことがあまりよくわからなかった。しょせんプログラムによって導き出された言葉だ。そんな当たり前の言葉を機械に言われたからって響きはしないだろう。それよりは今の自分の心に添うような名言や短歌を紹介してくれるAIのほうが有意義なのでは、という気持ちが俺にはあった。
でも……違った。
――なんでそんな顔してんのに意地はんの? いいって言うんだから甘えたら?
今、俺に向かってあひるくんが紡いでくれた言葉の向こうに、木杉の声が聞こえた。
それは、コンビニで中村たちに絡まれた後、遠慮する俺を叱り飛ばしたときの声だった。
思い出したらもう、だめだった。
溢れ出してくるものを抑えきれなくなってしまった。
……木杉。
モニター上に連なる文字を見つめながら俺はそっと呼びかける。
ここにはいないあいつに。進入禁止の向こう側にいる、彼に。
……木杉、俺はお前に会いたいよ。
……会って、好きって、言いたいよ。
「上原さん?」
先生が傍らから呼びかけてくる。我に返り、ごしごしと腕で目元をこする。その俺の腕を先生の細い手が押さえた。
「だめです。そんなふうにこすっては。あの、これで」
慌てたように先生が上着のポケットからハンカチを引っ張り出す。綺麗にアイロンのかかったそれを受け取って目元に押し当てた。
「すみません……」
「いえ」
短く言って先生はモニターに目をやる。あひるくんは放ち終わった言葉を前に相変わらず単調な動きで口をぱくぱくさせている。そのあひるくんを見つめていた先生の横顔がふっと和んだ。
「とても素敵な言葉ですね」
「あ、ええと」
ありがとうございます。そう言おうと思った。多分、それが今、一番この場に適した言葉だろう。実際、途中まで言いかけた。
でも気が変わった。もっと言いたいことができてしまったから。
「この台詞のパターン、後輩のアイディアなんです」
「一緒に作った?」
「はい。そいつ、なんていうか……人の気持ちなんてわかんないみたいなこと言うやつですけど、でもそうじゃなくて。むしろいつも人のこと、見てて。いや、見過ぎてて。苦しそうで。そんなあいつだから」
……そばにいたい、そう思ったんです。
そこまでは言えなかった。先生も促さなかった。ただ、そうですか、と頷いてあひるくんから俺に目を戻し、微笑んだ。
後悔ばかりしていた。この人を苦しめて、自分も苦しくて、人を好きになるなんてろくなものじゃないと思っていた。でも……それは間違っていたと思う。
俺はやっぱりこの人を好きになってよかったと思うし、あいつのことも好きになってよかったって思うから。
「水野先生、俺」
まだ出たがる涙を借りたハンカチで拭き、顔を上げた。だが、先生の目は俺から逸れていく。逸れて、俺の背後をすうっと見る。不自然な視線の動きにつられて振り向く。
その俺の手首が、いきなり掴まれた。
「今」
手首を握り締めた相手が低い声で言う。その声を聞いた瞬間、とくん、と大きく心臓が跳ねた。
ここ数日、ずっと聴きたいと思っていた声だったから。
ただ声は硬くて、少し怒っているようにも聞こえて、それが俺を戸惑わせた。
「え、あの、木杉?」
「水野先生って、言った?」
しかも久しぶりに会ったというのに、木杉の目は俺ではなく、俺の向こうで焦点を結んだままだ。
「ちょっと、木杉、なに……」
こいつは一体、なにを言うつもりなのだろう。ぴりぴりしているようだけれど、なんで……。
「あんたさあ、急に来て、先輩泣かしてんじゃねえよ」
だが、木杉の口から飛び出た台詞は、俺の予想をはるかに超えるものだった。
「ちょ、は? お前、なに言ってんの?」
「だって泣いてんじゃん。それこの人のせいだろ」
木杉の俺よりもずっと淡い色の目が初めてこちらを向く。ああ、相変わらず綺麗な目だな、と思ってしまってから、そんなことを考えている場合じゃないと自分に呆れた。
「い、いや、泣いてはいるけど、先生は悪くないから。ハンカチ、貸してくれて、ええと」
「ハンカチくらい俺が貸す!」
言いざま、ぱっと木杉の手が俺の手からハンカチを奪う。おいこら、と言う間もなく、ぐいっとハンカチが先生に突き返された。
「どうもありがとうございました! もういいので!」
「あ、ええと。はい」
水野先生はあまり慌てるタイプではない。自分の意に添わない出来事が起こって暴れる生徒に対しても顔色を変えず、静かな表情で対峙する。
今もそうでその穏やかな顔がやっぱり懐かしかった。
「行くよ、先輩」
「え、でも、そんなわけに……」
けれどそんなノスタルジーに浸っている俺の気持ちなど無視した手が、俺の腕をぐい、と掴んで引く。
さすがにこんなの失礼だ。せっかく来てくれたのに。文句を言おうと口を開きかけたが、その俺に向かって水野先生が浮かべてみせたのは、あのころと寸分変わらないひっそりとした笑みだった。
大丈夫だよ、と言う声が溶け込んでいるみたいな、柔らかい表情だった。
その笑顔のまま、先生は丁寧な会釈をこちらへよこす。
先生の変わらなすぎる一礼を見たら、張りつめていた空気が一気に緩むのを感じた。
だから笑った。笑ってひょこりと頭を下げてみた。引っ張られながらだったから先生みたいに綺麗じゃない、不格好な礼だったけれど、先生にはちゃんと受け取ってもらえたと思う。
なんだか……今初めて、中学をちゃんと卒業した気がした。



