進入禁止の彼~好きになったら終わりなのに~

 菊工祭の日は気持ちよく晴れた。
「毎年雨が多いんだけどね。みんなが善行積んでくれてたおかげかねえ」
 野宮先生はそんなふうに言っていたが、その理屈でいくと例年は善行を積む人が全くいなかったみたいにならないだろうか。だとするならば、この学校はもっと風紀が悪くなっていてもおかしくないと思うのだけれど、そのあたりどう考えての発言だったのだろう。
 ……なんて、荒んだ思考に陥っているのは、ここ数日あまり眠れていないからかもしれない。
 作業が遅延して提出に間に合いそうになかったから寝不足だった、という意味じゃない。むしろ、作業は順調すぎるくらい順調だった。
 木杉のおかげで。
 木杉の仕事は丁寧で、面と向かって確認しなければならないような不明点がまるでなかった。問題点や注意事項はすべて連絡用にと設けられたファイルにまとめられていて、俺はそれを見るだけでよかったから。その鮮やかな手際はプロみたいで舌を巻くほどだった。
 ただ、その完璧すぎる仕事ぶりを見るたび、俺の胸は痛んだ。
 だってこれじゃまるで、姿を消すことを想定していたみたいじゃないか。
 そんなの、あんまりじゃないだろうか。
 作業は終わったのに、思考は同じ場所に留まって動かない。だから今夜も多分、俺は寝不足なんだと思う。
「うそ! 動かないんだけど!」
「えー! ちょっと、先輩勘弁してくださいよ!」
 展示室が一緒になったやつらが騒いでいる。この光景も珍しくない。さっきもどこかで「やばい、どんぐり一号の腕とれたんだけど! どうしよう! くっつかない!」と騒ぐ声が聞こえていたし。
 その意味で……俺と木杉が作ったアプリは優秀だ。展示用のPCにアプリをインストールしても問題なく動いている。これもあいつが「事前にテストしておいたほうがいいかも」と言ってくれていたからだ。
 展示場所にと指定されたのは奇しくも化学室だった。室内には三組分の展示物しか並んでいない。おかげで菊工祭が始まってしばらくすると、すっかり暇になってしまった。まあ、モニター上で楽しむ作品よりも、ロボット系の機械展示のほうが人気なのは当たり前だ。
 遠くから響く歓声に耳を傾けながら俺は化学室の窓にもたれて外を眺める。ここと違って外は盛況だ。模擬店も出ているから子どもの声も聞こえてくる。
 楽しそうだ。
 そう思うけれど、さすがに行こうとは思えない。やっぱり人混みはまだ苦手だ。
 ひとりじゃ、やっぱり、まだ。
 ――こうしてずっと握ってて。いい?
 蘇った声を振り払うように首を振る俺の耳には、どんよりした俺の心とは反対の、底抜けに明るい声が飛び込んでくる。
「先輩、ちょっと~! また動作おかしいです!」
「おまっ! なんか変なとこいじっただろ!」
「いじってないですってば! 先輩でしょ! さっきファイルの保管場所のパス、変えてたの」
「俺だっけ?」
「ですって!」
 最初はエルダー制度にぶーぶー言っていたやつらも今はすっかり馴染んでいて、今日も先輩、後輩そろって作品紹介をしている姿を幾組もみかけた。
 今も廊下を移動しながら騒ぐ声がする。大声はすぐに遠ざかり、隣の地学室へと消える。微笑ましい気持ちになりながら、俺はノートパソコンを撫でる。
 あいつも今日くらいはここに顔を出すだろうか。
「来ないだろうな」
 肩を落としつつ、俺はスマホをそっと取り出す。
 来るわけはないのだ。それでも時々俺は通知を確認してしまう。ひょっこりとアイスの写真を送ってくるんじゃないか、何事もなかったみたいに軽口を叩いてくれるんじゃないか、そんな期待がどうしても拭えなかったから。
 でもあれから木杉から連絡が来たことはない。勇気を振り絞って送った夕日の写真についても一切返信はない。
 ブロックされていないだけましなのかもしれないが、それでも沈黙を続けるスマホを見るたびに胸が絞られるように痛んだ。
 ただそんなふうにあいつからの連絡を待ってしまうくせに、俺はあいつにかける言葉を持ってはいなかった。夕日が俺の精一杯。情けなさすぎる。
 溜め息を噛み殺しながら俺はパソコン前に座る。今、室内には誰もいない。誰かが覗きに来る前に動作がおかしくないかテストをしておいたほうがいいだろう。さっき廊下で騒いでいた彼らのように動かなくなっていたら大変だし。
 画面の中からあひるが俺の顔を見返す。ちなみに作品名はぎりぎりまで迷って、「あひるくん」にした。理由は……あいつの言っていたあひるの鳥言葉がすごく素敵だと思ったから。
 ――あひるの鳥言葉。
 ――安心。
 木杉の声が耳元を掠めたとたん、俺は思わず口許を片手で覆っていた。
 そうしないと呻いてしまいそうだった。
「テスト、しないと」
 動揺を噛み下し、震える手でキーボードに指を走らせる。愛らしいあひるが嘴をぱくぱくしながら『君の声を聞かせて』と促してくる。
 ――君の声を聞かせて、なんて、恥ずかしくないか? もうちょっとこう、システマチックに、なにか話してみて、とかでよくない?
 そう言った俺に反論したのは、木杉だった。
 ――このアプリって声の感情を読み取って元気づけるためのものでしょ。だったらこれくらいでもいいんじゃないかな。だってこっちのほうが寄り添いたいって気持ち、伝わると思う。
 あいつは自分のことを最低野郎だと嘲っていた。でもやっぱり俺はそんなふうに思えない。だって最低野郎だったら、寄り添いたいって気持ちを込めた言葉なんて思いつくわけがない。
 ――こうしてずっと握ってて。いい?
 最低野郎だったら……あんなふうに俺の手を引いてくれようなんてきっと、思わない。
 お前はそれくらい、すごく。
「優しいんだよ」
 囁いたとき、からり、と扉が滑る音が背後でした。
 慌てて目尻を拭い、振り向く。
 ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ、そこにいるのが木杉ではないかと期待したけれど……そこにいたのはやっぱり木杉ではなかった。
「あ」
 俺の姿を目にした相手が狼狽するように目を伏せる。俺も……声をなくす。ふたり、ドアを境にこちらと向こうで向かいあってどれくらいそうしていただろうか。
「久しぶりですね、上原さん」
 おっとりとした笑みを浮かべ声をかけてきたのは、彼のほうだった。
「突然伺ってごめんなさい。作品だけ拝見するつもりだったのに。嫌な気持ちにさせてしまいましたね」
 そう言って丁寧に頭を下げる彼から俺は目が離せない。だって。
「上原、さん?」
 この人は、俺にとって、大切な人、だったから。
 中学時代、進路に悩んだ俺に真剣に向き合ってくれ、ものづくりの道を示してくれた。
 そのままのあなたを認めてあげなさい、と言ってくれた。
 俺に恋という感情を教えてくれた。
 ……水野紬樹(みずのつむぎ)先生。