進入禁止の彼~好きになったら終わりなのに~

 その声に弾かれるようにして俺は木杉の手を振り解く。
 二階へと伸びる階段の上に女性がいた。年齢はわからない。体のラインがくっきりとわかる黒いワンピースを着た彼女は、階段の踊り場から身を乗り出すようにしてこちらを楽しげに眺め下ろしていた。
「しかも男の子? なんでも来いねえ」
「……あんた、なんでここにいんの。父さんとは終わったんじゃなかった?」
 いつもの木杉の声は耳ざわりのいい柔らかいものだ。でも今、階上へ向けて放たれた声はこれまで俺が聞いた木杉の声の中でももっとも低く、ぴりついたものだった。
「終わるとか終わらないとか、あんたの父さんにはないから。同時進行当たり前。合鍵も何本あるんだかほんと謎。ま、それでいいかって遊べる女だけが続いてるって感じじゃないの?」
(けが)れてんな。相変わらず」
「人のこと言えるの? 連れ込んでキスして。お父さんと同じじゃない」
 目の前で交わされる会話に全然ついていけない。女の顔に張り付いた薄ら笑いが怖いし、それに対する木杉の険しい顔も怖い。
 でもそんなことより、俺には気になって仕方ないことがあった。
 ずっと拳を作って震えている、木杉の態度のほうがずっと気にかかっていた。
「親父と一緒にするな。さっさと出てけよ」
 声は勇ましい。なのに……肩も腕も震えるのを止められないでいる。
「一緒でしょ。現に今、連れ込んでるし。ねえ?」
 女の目が俺を見る。そうされてぞくっとした。
 綺麗な人だとは思う。母さんと違って化粧もしっかりしているし髪につやだってある。洗練された身のこなしの都会的な美女ってやつだとは思う。
 けれど、はっきりと感じたことがあった。
 それは……この人、嫌いだ、ということ。
 今日初めて会ったのだ。そんなこと思うのも良くないのかもしれない。母からも人を第一印象で測る人間になっちゃだめよ、と子どものころから言われている。
 ――どんな人だってそれぞれ事情がある。人間なんて玉ねぎみたいなものなのよ。幾重にも皮があって、真ん中なんて見えない。その見えない真ん中にこそ実はその人の素敵な部分があるかもしれないじゃない。だから見た目とか、最初の挙動とかで人を判断しちゃだめ。
 俺もそう思う。もし第一印象だけで全部を判断される世界だったら、俺みたいなタイプは誰からも見向きもされないってことになる。まあ、実際のところ今だって注目なんてほぼされてないけれど。
 それでも見てくれる人間はいる。
 ――俺は今、俺が見てる先輩を支持するだけ。
 蘇る声に押されるようにして木杉をそっと横目で見る。そして……その木杉の顔が青ざめているのを見た瞬間、はっきりと思った。  
 母さんの言葉を裏切るように強く。
 こいつにこんな顔をさせる人がいい人なわけ、ない。
「勝手に家に上がり込んでいるのはそちらですよね」
 掠れた声が出た。木杉が仰天したようにこちらを見たのがわかった。ああ、そりゃあ驚くだろう。俺が一番驚いているのだから。でももう黙っていられるか。
「それでその言い方はさすがに失礼だと、思います」
 女性の細引きの眉がすっと寄る。やばい、激怒されるだろうか、と身構えたが、予想に反し、女性の反応は穏やかなものだった。声を荒らげることもなく、手すりにもたれかかってこちらをしげしげと見つめてくる。
「めちゃくちゃ真面目そうじゃない。ねえ、君。なんで夏緒くんに引っかかってるの?」
「引っかかって、ってことではなくて」
「じゃあなんでこんなとこにいるの? せっかくだし忠告してあげるけどやめたほうがいいわよ? この子、空っぽだから」
 空っぽ。
 ――父親はまだ帰ってきてなくてふたりきりだった。そしたら……その女が急に迫ってきて。
 ――その人に、キスしました。
 ああ、この人だ。
 俺の家に木杉が来たとき、木杉が語ってくれた人の話が脳内に再生される。
 その相手の女の人は多分、この人だ。この人が木杉に迫った人。
「そもそも父親がしょうもないから。人を振り回しておいてけろっとしてるの。今日だってそう。来いって言うから来たら、留守って。ほんと、この子の父親、ろくなものじゃないから。君も本気になる前に……」
 本当のことを言うなら、あの話はショックだった。迫られたからといってキスするなんて、という気持ちが確かに湧いた。
 でもあのとき、思ったのだ。こいつはこの女との一件をめちゃくちゃ後悔していると。いいや、悔いているだけじゃない。こいつは決して言わないだろうけれど……多分すごく傷ついていた。
 その木杉の傷になった相手が目の前にいる。そう思ったらもう……我慢なんてできなかった。
「あー! もう……うるさい!」
 ぎょっとしたように女が口を開けた。木杉も青い顔のままだ。そのふたりの前で俺はどん、と床を踏み鳴らす。
「知らないよ! 父親がどうとか、昔の話がどうとか! でも、木杉は俺の今を見てくれたんだから! だから俺もそうしたいって思うだけ! それでいいんだよ! 部外者ががたがた言うな!」
 生まれて十七年と少し。こんなふうに初対面の人に怒鳴ったことがあったろうか。いや、ないと思う。
 そもそも怒鳴って気持ちを晴らしたり、自分の意志を通したりなんて、俺のスタイルじゃないと思っていたから。陰キャが吠えたところで、キモっ、で終わることを俺は知っていたから。
 でもそのこれまでを塗り替えるくらい俺は怒っていた。
「これ以上、木杉のこと傷つけるな! こいつの親父に文句があるなら直接言え! 以上! 来い! 木杉!」
「え、あ……」
 言葉を失っていた木杉が目を瞬く。その彼の手首を俺は強引に引っ掴むとリビングのドアを蹴立てて玄関ホールへ出た。うちの家とは全然違う広すぎる三和土で下駄に足を突っ込む。
「あの、先輩、どこへ……。雨、降ってるし」
「傘貸して」
「え、あ、じゃあ、これ」
 靴箱の脇にあった傘立てから木杉がビニール傘を出す。それを片手で受け取り、俺は木杉をせかす。
「ぼさっとしてんなよ。お前も靴履くの」
「あの、なんで」
「あんなやばい人とふたりきりにしておきたくないから!」
 なんだかいつもと逆だと思ったけれど、それはこの際どうでもいい。今大事なのは、こいつをあの人から引き離すこと。
 だってここに置いておいたら絶対また傷つけられる。そんなのは……嫌だ。
「さっさとしろってば」
 気圧されたように木杉がスニーカーに足を入れる。木杉の手首を掴んだまま、俺は馬鹿でかい玄関ドアを押し開けた。豪奢なエントランスを下駄の音をからから言わせながら走る。
「わ」
 自動ドアを抜けるといきなり顔面に雨粒が襲い掛かってきた。慌てて木杉から受け取った傘を開く。かっかしていたから今頃気付いてしまったけれど、傘が一本しかない。
 でも、戻るのは嫌だった。
「入って、ほら」
 乱暴に言って木杉の手首を引いて手荒に傘の下へと入れる。大人しくされるままになりながら木杉が躊躇いがちな手で俺の手から傘を抜き取った。
「俺が差します」
「……ん」
 身長差を考えたらそのほうがいいだろう。
 大人しく傘を預けながらふたりで雨の町を歩き出す。地面を穿つ勢いで空から降り注ぐ雨が行き場を失った水流みたいにアスファルトの上を走っていく。普段は輝くことなんてないのにてらてらと光って、前方から来る車のヘッドライトに照らされると、鏡みたいで眩しくて現実をふっと見失いそうになった。
 こんなふうに近い位置にこいつといるからだろうか。
 狭い傘の中、濡れた浴衣越し、木杉の二の腕が触れる。それにどうしようもないくらい心音をざわめかせながら前方を見ると、白く無骨な形の、でもどうしようもなく懐かしい我が家が見えてきた。階段の踊り場ごとにある蛍光灯はところどころ切れかけてちかちかと点滅しているし、六階建てのくせにエレベーターもない。そんな不便で古びた建物なのに、今日はそのおんぼろな佇まいを目にしただけでほっとした。真っ暗な山の中で見つけた唯一の明かりみたいにさえ思えて、ちょっとおかしかった。
 家の鍵を開け、灯りを点ける。真夏だし、もっと暑さを感じてもいいはずなのに、濡れた浴衣のせいだろうか。うっすら寒い。背後からも、くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえ慌てる。
「大丈夫か? 濡れたままだったし……。着替え出すから。でも俺の服だと小さ……」
 振り向いたその俺の声が消えた。
「なんで」
 目の前に広がったのは、木杉が来ていた白いシャツの肩。
 鼻腔をくすぐるのは、柑橘系の清しい何かの香り。
 頬に触れるのは、柔らかい、髪の毛の感触。
 これは、なに。
 一気に押し寄せてきた感覚に対応しきれず、頭が火花を散らす。その俺の肩がきゅっと強い力で引き寄せられる。
 濡れた布越し、俺を包んだのは俺よりもずっと高い体温で、その温もりによって俺は自分に起きていることを理解した。
 俺は、木杉の大きな胸の中に抱き寄せられていた。
「なんで、先輩は、そんなふうなの」
 混乱する俺の耳元で掠れた声が言う。抱きしめられたままだと近すぎて、全然うまく考えられないうえに、木杉の問いは俺に答えやすいものでもない。
 ただどきどきして……鼓動しか、返せない。
「怖いよ……」
 だが耳を震わせたその一言に俺は狼狽した。
「あ、そ、そうだよな。その、さっきはごめん、あの……急に怒鳴って。ただ、俺」
「違う」
 ふるふると木杉の頭が振られる。少し湿り気を含んだ髪が揺れることで空気が掻き回されて木杉の香りがまた濃くなった。
「違うよ。そういう意味じゃない」
「じゃ、どういう……」
 問い返すが答えは返ってこない。ただ俺より広い肩が震えている。さっきあの女の前にいたときみたいに。
 それを見ていたら胸が苦しくなってきた。
 こいつは……弱音を吐かない。でも、多分、きっと、ずっと怖かったし、嫌だったんじゃないだろうか。
 幼いころから不特定多数の人間が家に出入りするなんて絶対に普通じゃない。それをこいつは今まで誰にも言ってこなかったのだ。
 ずっと。
 それがわかったら、止められなかった。
「なん、で」
 腕を広げて木杉の背中をきゅっと抱き返すと、木杉が驚いたように身じろぎした。それでも放さずにいると、なんで、と小さな声で木杉がまた言った。
「なんで、そんなこと、するの」
「わかんないけど、したいからしてる」
 ああ、俺はなんて言葉が足りないのだろう。こんなことをしたら……木杉に俺の気持ちが気付かれてしまうかもしれないのに。なのに、俺は腕の力を抜けなかった。
 好きだから。好きで、だからこそ、こいつのこの震えを止めてやりたかったから。
 俺にどれほどの力があるわけでもないのに、それでも見えてしまったこいつのつらさをそのままになんてしておきたくなかった。
 その想いだけできゅっと抱きしめると、俺の背中に回されていた木杉の腕にもきゅっと力が籠った。引き寄せられて大きな胸の中に押し込められる。
 とくとく、と心臓の音が聞こえる。規則正しいはずなのに、頼りなくも聞こえるそれが切なくて肩口に頬を寄せたとき、もう、とかすかな声が耳の傍でした。
「俺もう、だめだ」
 そろりと見上げると間近くこちらを見つめる木杉と目が合った。
 いつも嫣然とすら見えるのに、今日の木杉の瞳には余裕がまるでなかった。ただただ心細げに揺れて俺を映していた。
「これ以上一緒にいたら俺、もっと、怖く、なる」
 先輩、と揺れる声で木杉が呼ぶ。ゆっくりゆっくりと腕の力が抜けていく。
「ごめんね。ありがとう」
 すうっと木杉が体を引く。そのまま背中を向け、三和土に置いていたビニール傘を引っ掴み玄関のドアを開けた。
「木杉?!」
 呼びかけた俺の声を跳ねのけるように金属のドアが閉ざされる。階段を駆け下りていく木杉の足音がドア越しに一瞬耳をなぞった後、遠ざかっていく。
 どんどん遠くなり、消えていくその音の途中で、くたりと足の力が抜けた。
 木杉の行動の意味なんて俺にはわからない。でもはっきりとわかったこともある。木杉が俺を拒絶した、ということ。その理由はきっと。
「気付かれ、ちゃった、から、か」
 三和土に崩れ落ちながら、そりゃあそうだよな、とぼんやりと、思う。
 だって絶対、隠しきれていなかったはずだから。
 木杉が言う通り、好きでもなんでもない相手を家になんて呼ばない。好きでもなんでもない相手に見せるために浴衣なんて着ない。好きでもなんでもない相手のために怒鳴ったり、しない。
 ――ごめんね、ありがとう。
 あれは、好きになれなくてごめん、の意味だったに違いない。ありがとう、はここまで付き合ってくれてありがとう、といったところか。
「作業、まだ残ってるのにな……」
 そんなこともはやどうでもいいはずなのに、そう呟いてしまった自分があまりにも未練がましくて泣けてきた。
 玄関の上がり框に座り込み、膝に顔を押し当てる。
 浴衣からは雨と、木杉がまとっていた柑橘の香りが……した。