連れてこられたのは俺の家とはまったく違う、高級マンションだった。メゾネットというやつだろうか。通された室内には、集合住宅にもかかわらず上階へと伸びる階段がある。インテリアもうちみたいにカラフルじゃない。磨き上げられた真っ白な壁と床の中に、すっと差し込むみたいに黒系の家具が配置されている。カラーボックスなんて当然ない。黒皮のソファーも黒檀で作られていると思しき本棚もモデルルームみたいにかっちりとはまりこんでいて、過不足がまるでない。
ただ……少し、生活感がなくて寂しくも感じられた。
「先輩、タオル」
俺を室内に通した木杉は一度姿を消してからすぐに戻ってきた。手には白いふかふかのタオルがある。
「あり、がと」
そろそろと頷いて受け取り顔を拭く。思ったより降られてしまったらしい。濡らさないようにと走ってくれたけれど、浴衣がぴたりと肌にはりついてしまっている。
「大丈夫? 寒い?」
木杉が心配そうに覗き込んでくる。その木杉の髪からも雫が滴っている。俺は慌てて手にしたタオルで木杉の髪を拭いてやった。
「俺のことはいいから。お前、自分のことも拭けってば。風邪引いちゃう」
俺より背の高い木杉の髪をわさわさと拭いているとなんだか犬や猫を拭いている気持ちになってきた。くすっと笑う俺を木杉がタオルの隙間から見る。
「どしたの?」
「いや、なんかその……俺、犬飼ったことないけど犬拭くのってこういう感じかなって思ったらなんかその、可愛くて」
そこまで言ってしまってから俺は自分で自分にぎょっとする。
いくらなんでも、可愛くて、はだめだろう。
動揺し、髪を拭いていた手からそろそろと手を離す。木杉の手が伸びてそのタオルの端を握った。
「俺は先輩がきれいだって、思ってた」
声とともに、するり、と髪からタオルが取り払われる。こちらに向けられた目には真剣な光があった。
その目で木杉が俺をまっすぐに射抜く。
「浴衣、着てるの見て、ずっとどきどき、してた」
どくん、と心臓が大きく鳴いて、体まで震えた。天井まである大窓に雫が当たる音がひっきりなしに響いてくる。耳障りなほどに激しいそれに紛れることなく、木杉の声は俺にまっすぐに落ちてくる。
「先輩、言ってたよね。浴衣のこと、宮下先輩の反応なんて気にしてない。俺はただお前にって」
さっきは盛大な勘違いをして突っかかってきたくせに、今度は一言一句間違えずに覚えているあたり、お前の記憶媒体はどうなってるんだと文句を言いたくなる。でも言わせてくれるような空気じゃ、ない。
「宮下と仲良さそうにしてたのはお前のほうだとも言ってた。あれってどういう意味で言ったの?」
「そ、んなこと、言った……かな」
「言ったでしょ」
すっと木杉がこちらに向かって体を寄せてくる。木杉の肩も濡れていて、シャツが体に張り付いている。でもそんなこと気にもしていないみたいに、彼は自分の手の中にあったタオルをそうっと俺の頭にかぶせる。
「ねえ、先輩」
ふぁさふぁさと木杉の手が俺の髪を拭く。俺がさっき木杉にしたみたいなわしゃわしゃとした強い力じゃない。柔らかく包み込むみたいな手つきで髪がタオル越しに撫でられる。
「先輩はあのとき、もしかしてやきもち、妬いたりしたの。宮下先輩に」
「そん、な、わけ」
だめだ。これ以上詰められたらもう、ごまかせない。
窓の外の雨はますます強くなる。俺の髪を拭く木杉の手も止まらない。
「もしそうなら……」
そこまで言って木杉は言葉を途切れさせる。手も、止まる。そろそろとタオルの陰から見上げると、木杉が俺を見つめていた。俺が顔を上げるとわかっていたみたいに、木杉の俺よりも淡い色彩の瞳が俺だけを映した。
「もし、そう、なら……?」
問い返したりしたらだめだ。戻れなくなる。そんな恐怖がふっと俺を襲った。なのに、止められなかった。
無言で見つめ合う。その俺と木杉の顔の隙間がゆらっと揺らいで、縮まった。
縮めたのは……木杉、だった。
垂れ下がったタオルによって蛍光灯の光がほんのりと遮られたその俺の顔の前に、身を屈めた木杉が滑り込んでくる。丁寧な仕草でそうっとタオルの端を掴み、のれんを上げるみたいにして、そのまま顔を寄せて来る彼を俺はショートした頭で見つめた。
誰かとこんなことをしたことが俺にはない。これが初めてだ。だからすごく怖いし、恥ずかしい。しかも相手は、好きという感情がよくわからない、と明言するこいつだ。
だから……こんなの、絶対だめなんだと思う。俺がいくらこいつを好きでも、こいつにはわからない。そんな相手とこんなことをしてしまったらきっと、きっと、俺は後悔する。なのに、俺の体は言うことをきかない。
動かずに木杉の唇を待ってしまっている。
ほのかに香るのは柑橘系のなにかの香り。それは、近づいてきた木杉の服に沁み込んだ香りなのか、それとも木杉自身の香りなのか。
わからない。わからないけれど……その香りに包まれたとたん、くらくらして目を開けていられなくなった。
すっと瞼を下ろした、その俺の気持ちと、近づいてくる木杉の気持ちがそっと手を引きあうみたいに、顔の距離がゼロになる。
「……先輩」
蝶の羽がさらっと撫でるみたいに震える唇が唇を掠める。触れたかどうかさえ怪しいほどの口づけに朦朧としながらも、掴まれた手から彼の震えが伝わってきて心配で、うっすらと目を開けた俺は、瞠目した。
すぐ目の前にまだ、木杉の顔があった。
栗色の瞳が蛍光灯の下で、切なげに揺れていた。
「なんで……そんなに無防備に目、閉じるの」
問われて、かっと赤くなった。慌てて身を引こうとする俺の肩を木杉の手がぐいと引き寄せる。
「そんなふうにされたら……なんかもっとしていいって勘違いしちゃうんだけど。先輩、それ、わかっててやってる?」
「わ、かって、っていうか、あの」
どうしよう。もうなにがどうなっているのか全然わからない。俺はこいつを好きで、でもこいつは俺を好きじゃなくて。多分、俺が好きになっていると気付かれたら離れていってしまうわけで……。
でもずっと思っている。こいつの言動こそあまりにも意味深で勘違いさせるって。
だって、そうじゃないだろうか。自分が好きになれるか試すだけのために、あんなに優しくする必要があるか? 人混みで立ち往生しているからって手を引いてくれたり、絡まれているところに割って入ってきたり。
一緒に花火見ようって、言ったり。
そんなの、好きにならないほうがおかしいじゃないか。
なのに、こんな言い方してくるなんてひどい、と思う。
「お前こそ、なに」
頭の上にかかったままだったタオルをかなぐり捨て俺が怒鳴ると、木杉が怯むのがわかった。
「人を好きになれないなんて言いながら……俺にこんなことしてきて。どんな気持ちでやってんの。からかってんの? やっぱりあれ? キスしたら好きになれるか試し中? で、どうだった? 好きになった? それともやっぱそれほどじゃねえってなった?」
さっきまでとは違うどきどきが胸を打って苦しい。絶対に言ってはならないことだとわかっていながら言葉を口にするときの感触が舌にある。でも、引きたくはなかった。
「答えろよ!」
「……人に訊いてばっかりいるけど、先輩こそ、どうなんだよ」
低い声とともに俺の腕がぐい、と捕まれる。きりっと痛みが走る。その手の力でわかった。
こいつは本気で、怒っている。
「先輩は俺のこと、どう思ってたの。好きでもないのに、あの日、家に呼んだのはなんで? 好きでもないのに浴衣着て来たのはどうして? 好きでもないのに、キスさせたのは……どういう、意味?」
「そんな、の」
「先輩こそからかってるの? 木杉は軽いし遊んでも問題ないだろうとか、そういう」
「ふざけんな! そんなわけないだろ!」
……もう、答えてしまいたい。
……好きって、言ってしまいたい。
でも、言ったら、こいつは俺から離れてしまう。そんなのは……。
「俺は……」
「あらら~、連れ込んじゃって」
唐突に空気を震わせたのは、女性の声だった。
ただ……少し、生活感がなくて寂しくも感じられた。
「先輩、タオル」
俺を室内に通した木杉は一度姿を消してからすぐに戻ってきた。手には白いふかふかのタオルがある。
「あり、がと」
そろそろと頷いて受け取り顔を拭く。思ったより降られてしまったらしい。濡らさないようにと走ってくれたけれど、浴衣がぴたりと肌にはりついてしまっている。
「大丈夫? 寒い?」
木杉が心配そうに覗き込んでくる。その木杉の髪からも雫が滴っている。俺は慌てて手にしたタオルで木杉の髪を拭いてやった。
「俺のことはいいから。お前、自分のことも拭けってば。風邪引いちゃう」
俺より背の高い木杉の髪をわさわさと拭いているとなんだか犬や猫を拭いている気持ちになってきた。くすっと笑う俺を木杉がタオルの隙間から見る。
「どしたの?」
「いや、なんかその……俺、犬飼ったことないけど犬拭くのってこういう感じかなって思ったらなんかその、可愛くて」
そこまで言ってしまってから俺は自分で自分にぎょっとする。
いくらなんでも、可愛くて、はだめだろう。
動揺し、髪を拭いていた手からそろそろと手を離す。木杉の手が伸びてそのタオルの端を握った。
「俺は先輩がきれいだって、思ってた」
声とともに、するり、と髪からタオルが取り払われる。こちらに向けられた目には真剣な光があった。
その目で木杉が俺をまっすぐに射抜く。
「浴衣、着てるの見て、ずっとどきどき、してた」
どくん、と心臓が大きく鳴いて、体まで震えた。天井まである大窓に雫が当たる音がひっきりなしに響いてくる。耳障りなほどに激しいそれに紛れることなく、木杉の声は俺にまっすぐに落ちてくる。
「先輩、言ってたよね。浴衣のこと、宮下先輩の反応なんて気にしてない。俺はただお前にって」
さっきは盛大な勘違いをして突っかかってきたくせに、今度は一言一句間違えずに覚えているあたり、お前の記憶媒体はどうなってるんだと文句を言いたくなる。でも言わせてくれるような空気じゃ、ない。
「宮下と仲良さそうにしてたのはお前のほうだとも言ってた。あれってどういう意味で言ったの?」
「そ、んなこと、言った……かな」
「言ったでしょ」
すっと木杉がこちらに向かって体を寄せてくる。木杉の肩も濡れていて、シャツが体に張り付いている。でもそんなこと気にもしていないみたいに、彼は自分の手の中にあったタオルをそうっと俺の頭にかぶせる。
「ねえ、先輩」
ふぁさふぁさと木杉の手が俺の髪を拭く。俺がさっき木杉にしたみたいなわしゃわしゃとした強い力じゃない。柔らかく包み込むみたいな手つきで髪がタオル越しに撫でられる。
「先輩はあのとき、もしかしてやきもち、妬いたりしたの。宮下先輩に」
「そん、な、わけ」
だめだ。これ以上詰められたらもう、ごまかせない。
窓の外の雨はますます強くなる。俺の髪を拭く木杉の手も止まらない。
「もしそうなら……」
そこまで言って木杉は言葉を途切れさせる。手も、止まる。そろそろとタオルの陰から見上げると、木杉が俺を見つめていた。俺が顔を上げるとわかっていたみたいに、木杉の俺よりも淡い色彩の瞳が俺だけを映した。
「もし、そう、なら……?」
問い返したりしたらだめだ。戻れなくなる。そんな恐怖がふっと俺を襲った。なのに、止められなかった。
無言で見つめ合う。その俺と木杉の顔の隙間がゆらっと揺らいで、縮まった。
縮めたのは……木杉、だった。
垂れ下がったタオルによって蛍光灯の光がほんのりと遮られたその俺の顔の前に、身を屈めた木杉が滑り込んでくる。丁寧な仕草でそうっとタオルの端を掴み、のれんを上げるみたいにして、そのまま顔を寄せて来る彼を俺はショートした頭で見つめた。
誰かとこんなことをしたことが俺にはない。これが初めてだ。だからすごく怖いし、恥ずかしい。しかも相手は、好きという感情がよくわからない、と明言するこいつだ。
だから……こんなの、絶対だめなんだと思う。俺がいくらこいつを好きでも、こいつにはわからない。そんな相手とこんなことをしてしまったらきっと、きっと、俺は後悔する。なのに、俺の体は言うことをきかない。
動かずに木杉の唇を待ってしまっている。
ほのかに香るのは柑橘系のなにかの香り。それは、近づいてきた木杉の服に沁み込んだ香りなのか、それとも木杉自身の香りなのか。
わからない。わからないけれど……その香りに包まれたとたん、くらくらして目を開けていられなくなった。
すっと瞼を下ろした、その俺の気持ちと、近づいてくる木杉の気持ちがそっと手を引きあうみたいに、顔の距離がゼロになる。
「……先輩」
蝶の羽がさらっと撫でるみたいに震える唇が唇を掠める。触れたかどうかさえ怪しいほどの口づけに朦朧としながらも、掴まれた手から彼の震えが伝わってきて心配で、うっすらと目を開けた俺は、瞠目した。
すぐ目の前にまだ、木杉の顔があった。
栗色の瞳が蛍光灯の下で、切なげに揺れていた。
「なんで……そんなに無防備に目、閉じるの」
問われて、かっと赤くなった。慌てて身を引こうとする俺の肩を木杉の手がぐいと引き寄せる。
「そんなふうにされたら……なんかもっとしていいって勘違いしちゃうんだけど。先輩、それ、わかっててやってる?」
「わ、かって、っていうか、あの」
どうしよう。もうなにがどうなっているのか全然わからない。俺はこいつを好きで、でもこいつは俺を好きじゃなくて。多分、俺が好きになっていると気付かれたら離れていってしまうわけで……。
でもずっと思っている。こいつの言動こそあまりにも意味深で勘違いさせるって。
だって、そうじゃないだろうか。自分が好きになれるか試すだけのために、あんなに優しくする必要があるか? 人混みで立ち往生しているからって手を引いてくれたり、絡まれているところに割って入ってきたり。
一緒に花火見ようって、言ったり。
そんなの、好きにならないほうがおかしいじゃないか。
なのに、こんな言い方してくるなんてひどい、と思う。
「お前こそ、なに」
頭の上にかかったままだったタオルをかなぐり捨て俺が怒鳴ると、木杉が怯むのがわかった。
「人を好きになれないなんて言いながら……俺にこんなことしてきて。どんな気持ちでやってんの。からかってんの? やっぱりあれ? キスしたら好きになれるか試し中? で、どうだった? 好きになった? それともやっぱそれほどじゃねえってなった?」
さっきまでとは違うどきどきが胸を打って苦しい。絶対に言ってはならないことだとわかっていながら言葉を口にするときの感触が舌にある。でも、引きたくはなかった。
「答えろよ!」
「……人に訊いてばっかりいるけど、先輩こそ、どうなんだよ」
低い声とともに俺の腕がぐい、と捕まれる。きりっと痛みが走る。その手の力でわかった。
こいつは本気で、怒っている。
「先輩は俺のこと、どう思ってたの。好きでもないのに、あの日、家に呼んだのはなんで? 好きでもないのに浴衣着て来たのはどうして? 好きでもないのに、キスさせたのは……どういう、意味?」
「そんな、の」
「先輩こそからかってるの? 木杉は軽いし遊んでも問題ないだろうとか、そういう」
「ふざけんな! そんなわけないだろ!」
……もう、答えてしまいたい。
……好きって、言ってしまいたい。
でも、言ったら、こいつは俺から離れてしまう。そんなのは……。
「俺は……」
「あらら~、連れ込んじゃって」
唐突に空気を震わせたのは、女性の声だった。



