木杉が案内してくれたのは、高台にある児童公園で、ベンチと滑り台とブランコだけがちんまりとあるような小さなものだった。
時刻は夜七時。夏は日が高いからまだ空は真っ暗ではない。でも、昼を押し戻すようにして夕闇が青を垂らし始めているのがわかる。
「始まる前のプラネタリウムの空みたいな色」
空を眺めながらぽつん、と木杉が言う。市街地を見下ろすように備え付けられたベンチに腰を下ろした直後だった。
「プラネタリウム?」
「そう。小学生のとき、よく行ったんですよ。科学館。そこのプラネタリウム、プログラム始まる前のスクリーンの色がこんなだった。ぶっちゃけ、プログラムよりもこの始まる前の色が好きで行ってたかも」
「……どうして? 本編、面白くなかった?」
「そういうことじゃなくて」
木杉は手にした袋をがさり、と開けながら目を細める。
「始まる前のわくわく感が好きで。だからね、今日もめちゃくちゃ楽しくて。いろいろ買ってきちゃった」
ふふ、と笑いながら並べられたのは、おにぎりとお茶。それと三色団子だった。
「ここのおにぎり、めっちゃ美味いから。先輩にも食べさせてあげたくて。ただ先輩の好きな具、わかんなかったからたくさん買っちゃった」
どれがいい? と木杉がおにぎりを指さす。こっちは鮭、こっちはおかか、それはツナマヨ、梅、鳥そぼろ、チャーハン、それから、それから。
「買いすぎ」
呟いた瞬間、なんだか泣きそうになった。自分で自分の感情がよくわからなくて慌てる。危ういところで顔を伏せ、俺はそろそろとおかかのおにぎりに手を伸ばす。
「おかか、好き?」
木杉が訊いてくる。その声は手の中のおにぎりよりもずっと温かかった。
「……好き」
そっと小さな声で答えたとき、ぱあっと目の前から明るい光が来た。
はっとして見上げた先に広がったのは、大輪の花。
黄金色の火の粉が花を象り、空を彩っていた。次いで広がるのは深紅のサルビア。
「わ……」
ぱあん、と遅れて音が響く。目の前いっぱいに広がる花火に俺は思わず片手で口を覆う。
「きれい」
「うん」
木杉が隣で短く頷く。その声を連れていくみたいに、ぱあん、ぱあん、と破裂音が連続する。ぱらぱら、と火花が空に踊り、しだれるように流れていく。
「こんなに大きい花火見たの初めてかも」
呟いた俺の横顔を木杉が見るのがわかったけれど、彼を見ないまま俺は夜空に顔を向ける。そうじゃないと……言えない気がした。
「ありがと、木杉」
どんどん夜が濃くなっていく。その空を花火が花畑にしていく。儚く灯っては消えていく、その明滅する花の中で木杉がそっと動くのがわかった。ふっと目を向けると、ペットボトルのお茶が差し出されていた。
「食べて。先輩。花火も大事。でも綺麗なもの見てるだけじゃお腹いっぱいになんないから」
「そう、だね」
にこやかな笑顔を向けられて、かしこまって礼を言ってしまった自分が少し恥ずかしかった。そろそろとペットボトルに手を伸ばし、キャップを外す。木杉は俺に微笑みかけながらおにぎりを手に取る。俺も木杉に倣いおにぎりを取り上げ、巻かれたラップを剥がし口に運ぶ。木杉の言う通り、米の粒がしっかりしていてすごく、美味しかった。
「俺もね」
花火も終わりがけなのだろうか。音と音が手を繋ぎ始める。花火と花火の輪が溶け合い、夜空が明るく輝く。その揺れる光の中で木杉がこちらをすっと見た。
「ありがとうって言おうと思ってた。ただ、ちょっと怒ってもいたから言い出せなくて。先に先輩に言わせちゃった。ごめん」
「え、あの、怒ってって、なんで? あ、浴衣俺だけ着てきたから? ごめん、母さんが着ていけって言うから。その、これ、死んだ父さんのらしくて。懐かしくなっちゃったみたいで。だからあの」
「お父さんのなんだ。すごく似合います。お母さん、グッジョブですね」
うっすらと微笑んで木杉は俺の浴衣を見る。その眼差しは柔らかだ。怒りは収まったということなのだろうか。そもそもなにに怒っていたのだろう。俺はなにかしただろうか。
メッセージの返事が素っ気なさ過ぎたから? 買い出しをひとりでさせてしまったから? それとも。
「先輩、宮下先輩と花火、見たかったんでしょ」
「…………は?」
なんでここにあいつの名前が出るのだろう。そもそも宮下と仲良さそうにしていたのはお前じゃないのか。
「ごめん。なんで?」
「だって」
花火が徐々に夜空から消えていく。夜の顔を思い出し始めた空の下、木杉がくっと唇を一度強く噛んだ。
「先輩、宮下先輩と会ったとき、俺が宮下先輩と一緒にいるの嫌そうだったから。花火も宮下と一緒がよかったのにって言ってましたよね」
・・・え?
「は……え? 言ってないよ、そんなこと」
「言ってたじゃないですか」
「いやいや、言ってないってば」
「浴衣のことも宮下先輩に、いいんじゃない? って言われたらうれしそうな顔してましたよね? 俺が褒めてもいまいちだったのに。それって……」
「は? 勝手なこと言うなってば!」
こいつ、普段の作業のやり方を見ていると記憶力はかなりいいはずなのに、人の台詞を脚色して覚えるきらいがあるのか。
大体、俺のほうこそもやもやしていたというのに、勝手にこちらのせいにされるのは納得がいかない。
「宮下も一緒?って確認しただけ。一緒がよかったなんて言ってない!」
声を荒らげると、木杉が唇をわずかに開いた。呆気にとられたような顔にますます苛立つ。
「勝手に脚色するな! そもそもそっちだろ! 宮下と仲良さそうにしてたの。浴衣のことだって、宮下の反応なんて気にしてない。俺はただ、お前に」
だめだ。
こんな言い方をしたら、だめだ。
自分で自分の言葉を押し込もうと片手で口許を覆う。花火の音はすっかり静まり、夏虫の声ばかりが響いてくる。ねっとりと熱い夏の夜の空気に包まれながら黙りこくっていた俺の頬に、ぽとり、と不意に雫が落ちた。
「雨……」
顔を上向けた木杉が呟く。その声に引かれたように雫が黒い幕の中から湧き出すようにして降り注ぎ始めた。
「うそ……さっきまで晴れてたのに」
「先輩、来て!」
慌てたような手が俺の手を掴む。ぐいと引き起こされ、立ち上がると同時に木杉は走り出した。
「ちょ! え! なに!」
「俺の家近いから! 行こ!」
家?!
ぎょっとして俺は立ち止まりそうになる。でも木杉の手の力は強くてそれを許してくれない。
「あの! い、家って、ちょっと、なんで……!」
「それお父さんの浴衣なんでしょ! 濡らしちゃだめだろ!」
怒ったような顔で振り向かれ、言葉が俺の口の中から消えた。
……ああ、そうだ。
懐かしいわ、と笑った母さんの顔が頭の中を過ぎる。同時に今、濡らしちゃだめだろ、と怒った顔で言ってくれたその木杉の声がじわっと胸の内を温めた。
「先輩、早く!」
木杉は俺の表情になんて気付きもしない。ただ俺の浴衣の心配をして俺の腕を引いてくれる。
それを思ったらなんだかめちゃくちゃ目頭が熱くなって。俺はそれ以上なにも言えなかった。
時刻は夜七時。夏は日が高いからまだ空は真っ暗ではない。でも、昼を押し戻すようにして夕闇が青を垂らし始めているのがわかる。
「始まる前のプラネタリウムの空みたいな色」
空を眺めながらぽつん、と木杉が言う。市街地を見下ろすように備え付けられたベンチに腰を下ろした直後だった。
「プラネタリウム?」
「そう。小学生のとき、よく行ったんですよ。科学館。そこのプラネタリウム、プログラム始まる前のスクリーンの色がこんなだった。ぶっちゃけ、プログラムよりもこの始まる前の色が好きで行ってたかも」
「……どうして? 本編、面白くなかった?」
「そういうことじゃなくて」
木杉は手にした袋をがさり、と開けながら目を細める。
「始まる前のわくわく感が好きで。だからね、今日もめちゃくちゃ楽しくて。いろいろ買ってきちゃった」
ふふ、と笑いながら並べられたのは、おにぎりとお茶。それと三色団子だった。
「ここのおにぎり、めっちゃ美味いから。先輩にも食べさせてあげたくて。ただ先輩の好きな具、わかんなかったからたくさん買っちゃった」
どれがいい? と木杉がおにぎりを指さす。こっちは鮭、こっちはおかか、それはツナマヨ、梅、鳥そぼろ、チャーハン、それから、それから。
「買いすぎ」
呟いた瞬間、なんだか泣きそうになった。自分で自分の感情がよくわからなくて慌てる。危ういところで顔を伏せ、俺はそろそろとおかかのおにぎりに手を伸ばす。
「おかか、好き?」
木杉が訊いてくる。その声は手の中のおにぎりよりもずっと温かかった。
「……好き」
そっと小さな声で答えたとき、ぱあっと目の前から明るい光が来た。
はっとして見上げた先に広がったのは、大輪の花。
黄金色の火の粉が花を象り、空を彩っていた。次いで広がるのは深紅のサルビア。
「わ……」
ぱあん、と遅れて音が響く。目の前いっぱいに広がる花火に俺は思わず片手で口を覆う。
「きれい」
「うん」
木杉が隣で短く頷く。その声を連れていくみたいに、ぱあん、ぱあん、と破裂音が連続する。ぱらぱら、と火花が空に踊り、しだれるように流れていく。
「こんなに大きい花火見たの初めてかも」
呟いた俺の横顔を木杉が見るのがわかったけれど、彼を見ないまま俺は夜空に顔を向ける。そうじゃないと……言えない気がした。
「ありがと、木杉」
どんどん夜が濃くなっていく。その空を花火が花畑にしていく。儚く灯っては消えていく、その明滅する花の中で木杉がそっと動くのがわかった。ふっと目を向けると、ペットボトルのお茶が差し出されていた。
「食べて。先輩。花火も大事。でも綺麗なもの見てるだけじゃお腹いっぱいになんないから」
「そう、だね」
にこやかな笑顔を向けられて、かしこまって礼を言ってしまった自分が少し恥ずかしかった。そろそろとペットボトルに手を伸ばし、キャップを外す。木杉は俺に微笑みかけながらおにぎりを手に取る。俺も木杉に倣いおにぎりを取り上げ、巻かれたラップを剥がし口に運ぶ。木杉の言う通り、米の粒がしっかりしていてすごく、美味しかった。
「俺もね」
花火も終わりがけなのだろうか。音と音が手を繋ぎ始める。花火と花火の輪が溶け合い、夜空が明るく輝く。その揺れる光の中で木杉がこちらをすっと見た。
「ありがとうって言おうと思ってた。ただ、ちょっと怒ってもいたから言い出せなくて。先に先輩に言わせちゃった。ごめん」
「え、あの、怒ってって、なんで? あ、浴衣俺だけ着てきたから? ごめん、母さんが着ていけって言うから。その、これ、死んだ父さんのらしくて。懐かしくなっちゃったみたいで。だからあの」
「お父さんのなんだ。すごく似合います。お母さん、グッジョブですね」
うっすらと微笑んで木杉は俺の浴衣を見る。その眼差しは柔らかだ。怒りは収まったということなのだろうか。そもそもなにに怒っていたのだろう。俺はなにかしただろうか。
メッセージの返事が素っ気なさ過ぎたから? 買い出しをひとりでさせてしまったから? それとも。
「先輩、宮下先輩と花火、見たかったんでしょ」
「…………は?」
なんでここにあいつの名前が出るのだろう。そもそも宮下と仲良さそうにしていたのはお前じゃないのか。
「ごめん。なんで?」
「だって」
花火が徐々に夜空から消えていく。夜の顔を思い出し始めた空の下、木杉がくっと唇を一度強く噛んだ。
「先輩、宮下先輩と会ったとき、俺が宮下先輩と一緒にいるの嫌そうだったから。花火も宮下と一緒がよかったのにって言ってましたよね」
・・・え?
「は……え? 言ってないよ、そんなこと」
「言ってたじゃないですか」
「いやいや、言ってないってば」
「浴衣のことも宮下先輩に、いいんじゃない? って言われたらうれしそうな顔してましたよね? 俺が褒めてもいまいちだったのに。それって……」
「は? 勝手なこと言うなってば!」
こいつ、普段の作業のやり方を見ていると記憶力はかなりいいはずなのに、人の台詞を脚色して覚えるきらいがあるのか。
大体、俺のほうこそもやもやしていたというのに、勝手にこちらのせいにされるのは納得がいかない。
「宮下も一緒?って確認しただけ。一緒がよかったなんて言ってない!」
声を荒らげると、木杉が唇をわずかに開いた。呆気にとられたような顔にますます苛立つ。
「勝手に脚色するな! そもそもそっちだろ! 宮下と仲良さそうにしてたの。浴衣のことだって、宮下の反応なんて気にしてない。俺はただ、お前に」
だめだ。
こんな言い方をしたら、だめだ。
自分で自分の言葉を押し込もうと片手で口許を覆う。花火の音はすっかり静まり、夏虫の声ばかりが響いてくる。ねっとりと熱い夏の夜の空気に包まれながら黙りこくっていた俺の頬に、ぽとり、と不意に雫が落ちた。
「雨……」
顔を上向けた木杉が呟く。その声に引かれたように雫が黒い幕の中から湧き出すようにして降り注ぎ始めた。
「うそ……さっきまで晴れてたのに」
「先輩、来て!」
慌てたような手が俺の手を掴む。ぐいと引き起こされ、立ち上がると同時に木杉は走り出した。
「ちょ! え! なに!」
「俺の家近いから! 行こ!」
家?!
ぎょっとして俺は立ち止まりそうになる。でも木杉の手の力は強くてそれを許してくれない。
「あの! い、家って、ちょっと、なんで……!」
「それお父さんの浴衣なんでしょ! 濡らしちゃだめだろ!」
怒ったような顔で振り向かれ、言葉が俺の口の中から消えた。
……ああ、そうだ。
懐かしいわ、と笑った母さんの顔が頭の中を過ぎる。同時に今、濡らしちゃだめだろ、と怒った顔で言ってくれたその木杉の声がじわっと胸の内を温めた。
「先輩、早く!」
木杉は俺の表情になんて気付きもしない。ただ俺の浴衣の心配をして俺の腕を引いてくれる。
それを思ったらなんだかめちゃくちゃ目頭が熱くなって。俺はそれ以上なにも言えなかった。



