進入禁止の彼~好きになったら終わりなのに~

 ――先輩、今日、夜、暇ですか?
 お盆時期は学校も閉鎖される。開発を進めることもできないし、ごろごろするしかなかったはずのそんな昼下がり、木杉からメッセージが届いた。
 木杉はあの日から時々、俺を連れ出すようになった。公園や図書館、美術館にも誘われて行った。
 そうされて……気付いた。
 あいつはあえて人混みが少ない場所を選んでくれている、と。
 そのことがうれしくて、でも少し、苦しい。
 優しくされればされるほど、勘違いしてしまいそうになるから。決定的なことを自分が言ってしまいそうになるから。
 ――なに? 別に用事はないけど。
 素っ気なく返したが、木杉の返事にはそれを不満に思う様子は微塵もなかった。
 ――よかった! そしたら今日、花火見ません? 花火大会、あるじゃないですか。隣町で。あれ、うちの近くの児童公園からだとよく見えるので。
 ほら、やっぱりだ。花火大会へ行こう、じゃなくて、人混みの中へ行かないでいいように誘ってくれる。それがものすごく。
 ――いいよ。
 うれしい。
「え、花火?」
 ふうっと息を吐いてスマホの文字を撫でたとき、突然背後から声がした。見ると、夜勤の準備をしていたはずの母さんが俺の手元を眺めていた。
「ちょ! 勝手に見んなよ! もう! プライバシーの侵害!」
「えー、何度か呼んだのに返事しなかったのは瑞記でしょー。……ねえ、もしかしてそれ、デート?」
「ち、がうよ」
 ――行きましょうか。デート。
 耳の奥で木杉の声に言われ、ばばっと頬に血が上る。エアコンの温度、もっと下げておくべきだったかもと思っている俺を母さんは興味深そうに見つめてから、ぽん、と手を叩いた。
「ね、そしたら、浴衣、着ない?」
「は?! そしたらってなに! なんにもかかってないし! ってか、浴衣とか変だから。近くの公園で花火見るだけなんだし。そんな張り切った格好おかしいよ」
「子どもねえ。何気ないときに浴衣着るのが粋な大人なのよ」
「いや、でも……大体浴衣なんて俺、持ってないよ」
「んー、あるんだな、これが」
 母さんはにこにこしながら自分の部屋へと入っていく。ほどなくして戻ってきた母さんの手には紙に包まれた着物らしきものがあった。
「どしたの、それ」
「父さんの。そろそろ瑞記も着られるころだと思ってたの。着せてあげるから、どう?」
 言われて俺はちらっとリビングの飾り棚の上にある写真に目をやる。物心つく前に亡くなった父さんが爽やかな顔で笑っていた。精悍な顔立ちながらふんわりと柔らかく笑むその人のことを俺は覚えていないけれど、母さんは亡くなって十五年以上経った今も忘れてない。変わらず大好きでいて、時々思い出話を聞かせてくれる。
 その父さんが着ていた浴衣を俺が着る……。
「それ俺、着ちゃだめじゃないかな」
「ん? なんで?」
「だって、父さんとの思い出詰まってるんじゃないの? 母さん、嫌じゃない?」
 そう言うと、母さんは一瞬目を見開いたけれど、その目元はすぐ解けるように和んだ。
「もう! 可愛いな! 我が息子よ!」
 片手が伸ばされ、めちゃくちゃに髪を乱される。完全に犬猫に対する手つきだ。
「ちょ! やめてって!」
「こんな優しい男の子に育ってくれて母さん幸せ! だからいいの。そういう瑞記にだから着てほしいのよ」
 あっさりと俺の髪から手を離し、母さんは浴衣を包んでいた紙をばさり、と開く。
 中にはきちんと手入れされた状態の浴衣が入っていた。宵を思わせる藍色に白い波のように麻の葉が染め抜かれている。涼しげでとても大人っぽい。
「これ……俺には似合わない気が……」
「そんなことないよ。似合う。絶対」
 言いながら母さんが浴衣をそっと俺の肩に当てる。
「うん。父さん思い出すな」
「……いや、俺、母さん似だし」
「顔立ちはね。でも雰囲気がね。瑞記は父さんにすごく似てるよ。人を大事にするあの人に」
 人を大事に。
 そうだろうか。人と関わることが怖くて逃げるみたいにものづくりの世界に閉じこもる俺は母さんの言うような優しい人間じゃない気がする。
 ――先輩の作品作りには優しさがあるなあって思ってた。
 思い出したのは木杉が俺に言ってくれた言葉だ。
 あいつはああ言ってくれたけれど、俺の作品からなにかを読み取り、優しさ、という言葉で表現してくれる木杉のほうがやはり、優しい、と思う。
 優しいって……誰かに対して面と向かって言うのには恥ずかしさもあるから。
 でもそれをあいつはしっかり伝えてくれる。それこそがあいつが持つ、優しさ、なんだと思う。
 母さんの手によって浴衣を着せられ、帯を結ばれる。さらさらした麻の手触りが気持ちいい。
「母さん、あの、ありがとう。浴衣も、その、いつもご飯とかも、いろいろ」
 そう言ってしまったのは、あいつの優しさを思い出したからかもしれない。母さんは少し驚いたように目を見張ってから、解けるみたいに笑って、楽しんでらっしゃい、と送り出してくれた。
 ほかほかした心を抱いて、少しだけ大きい下駄をからから言わせながら、待ち合わせ場所として指定された交差点に向かう。見回してみたが、木杉の姿はまだなかった。
 早かったかな、と肩をすくめながら待っていると、横断歩道の向こうに木杉の姿が見えた。
 手を上げかけて……俺は動きを止める。
 木杉はひとりじゃなかった。隣に立っているのはもっさりとした髪に猫背の小柄な男。
 宮下だ。
 あの、学校ではまず声を発しない彼、宮下蛍。
 でも今、横断歩道の向こうにいる彼の口は開いている。しかも笑顔すら見える。黒縁の顔よりも大きく見えるような眼鏡の奥の目も木杉をしっかりと見上げている。
 彼とは同じクラスになったことがあるけれど、俺以上に人と目を合わせないタイプだったのに。その彼が木杉を見て、笑っている。
 木杉もまた笑顔だ。なにかおかしなことを宮下が言ったのか、白いシャツの肩が揺れている。
 それを見た瞬間、はっきりと胸の奥が軋んだ。
 考えてみれば、宮下だって十分、簡単に落ちたりしない人だと思う。なのに木杉は、俺に決めた、と言った。
 どうして木杉は俺に、決めた、などと言ったのだろう。
 そもそも木杉は宮下のこと、どう思っているのだろう。
「あ、先輩」
 信号が青に変わる。白線を踏んでこちらへと木杉が近づいてくる。宮下と肩を並べたままで。
「待たせてごめんなさい。いろいろ買い物してたら遅くなって……ってか」
 にこにこしている木杉の手にはエコバッグがある。が、そこで急に木杉はまじまじとこちらを見てきた
「先輩、浴衣」
「あー、とあの。母さんが、着ていけって」
 口の中で言ってから俺は猛烈に恥ずかしくなってきた。花火大会に行くわけでもないのに浴衣なんてやっぱり張り切り過ぎだ。お腹痛いって言って帰っちゃおうかな、なんてちらっと思ったとき、めっちゃいい、と木杉が掠れた声で言った。次いで、悔しそうに地面をかつん、と蹴る。
「すごく、似合ってる。あー、もう、なんで連絡してくれなかったんですか。俺も浴衣着てきたのに」
「え、あ、でもこんなの、恥ずかしい……」
「そんなわけないじゃないですか。めっちゃ素敵です。ね、そう思いますよね」
 木杉の目が俺から逸れる。その視線の先にいるのは、宮下。
「ああ」
 眼鏡の奥の目がつと、細められた。真夏にありながらも冬めいた青白い頬が小さくくっとひきつるように動いて唇の端が上がる。
「いいんじゃない?」
 ……しゃべった。
 初めて聞いた宮下の声は想像よりもずっと高くて澄んだ声だった。驚いている俺を置いてきぼりに宮下は木杉を見上げて言う。
「じゃあ、俺、あっちだから」
「あ、はーい。また学校で。ってか、アイス食べ過ぎないほうがいいですよ~」
「大きなお世話」
 じゃあな、と素っ気なく言い、宮下は木杉に手を上げる。ただ……背中を向ける一瞬、俺を見たような気も、した。
 その目はなんだか馬鹿にするみたいに眇められていたようにも思えた。
「……アイスってなに?」
 宮下が去ったところで問うと、宮下の背中を見送っていた木杉が笑い出した。
「いや、あの人、コンビニアイス、どのアイスだったら毎日食べても飽きないか、調べてるんですって。連続何日でもういいって思うか、厳選した五種類を毎日食べ比べて記録取ってるって言うんですもん。笑っちゃいましたよ」
「……そう、なんだ」
「結果、どうなるんだろ。楽しみ」
 面白くて仕方ないという顔で笑う。その木杉の顔を見上げているうちに押さえようとしていたもやもやに耐え切れなくなってきた。
「宮下と、なんで一緒に……?」
「え?」
 木杉の声から笑みが抜ける。無言の俺達の間を埋めるみたいに車道を行き過ぎていく車の排気音が響く。
「花火、宮下も一緒なのかと思った」
 息が苦しい。必死に声を押し出す俺を木杉は黙って見下ろしている。声は降ってこない。視線だけが意志を持って落ちてくる。そうされてだんだんいたたまれなくなってきた。
 俺、馬鹿みたいだ。
「悪い。変なこと言った。あの、公園、どっち?」
「……あっちです」
 笑みのない声で言い、木杉が歩き出す。その彼の背中について歩きながら俺は唇を噛みしめる。
 せっかく誘ってくれたのに、こんな変な空気にしちゃうなんて俺はやっぱり全然、優しくない。