進入禁止の彼~好きになったら終わりなのに~

 夏っぽい場所ってどこだろう。海だろうか。しかし時刻は昼前。これから電車に乗って海に行くというのも時間的に厳しいか。だとしたらどこだ?
 と、思案している間に連れてこられたのは、俺達の学校から二駅ほど離れた自然公園だった。テニスコートやバスケットコート、野球場があるほか、バーベキューもできる場所で、公園全体に様々な木々が植えられていてちょっとした森のようだ。春には花見客でもにぎわうスポットだが、八月の今は暑さもあって人は少ない。
「夏……っぽい?」
「ぽいでしょ。緑の匂いめっちゃするもん」
 言いながら木杉が深呼吸する。つられて俺も空気を吸い込んでみる。
 暑い夏の空気とともにほんのり草の香りが体の中を満たした。
「とはいえ、緑の匂いでは腹いっぱいにならないので飯にしましょう。先輩、こっち」
 言いながら木杉が俺の手首を引っ掴む。彼に手首を預けながら俺は俯く。
 こちらは半端なくどきどきしているのだけれど、さらっと触れてくる木杉には動揺も戸惑いも見えない。
 こいつは本当にここまで人に望まれて、当たり前みたいに人と一緒にいたやつなんだな、と思い知らされる。
 そんな木杉にとって俺はどんな存在なのだろう。こいつが俺を好きになる可能性なんて……あるのだろうか。
「よし。キッチンカー来てる」
 弾んだ声が隣から聞こえる。声に促されて前方を見ると、円型に開けた広場があった。その広場の円周に添うようにしてキッチンカーが数台、軒を連ねていた。
 からあげ、ロングフライドポテト、たこ焼き、かき氷、ケバブもある。色とりどりの看板と美味しそうな匂いにぐううっと腹が鳴るのがわかった。
「ここ、こんなの出てるんだ」
「来たことなかった?」
「いや、あるけど、ちっちゃいころだったから。いいな。なんかお祭りみたい」
 人混みが苦手になってから近所の夏祭りにも行っていない。だから……こういうものを食べるのも久しぶりかもしれない。
「たこ焼きと焼きそばとお好み焼き、食べちゃおう。あ、団子もありますよ。団子も行っちゃう?」
 木杉がキッチンカーを見渡しながら言う。彼の口から飛び出すラインナップに俺は苦笑いする。
「粉ものばっかりじゃん」
「お祭りっぽいでしょ」
 にやっと笑い、木杉はキッチンカーのレジへ向かって、すいませーん、と声をかけている。
「ほら、先輩、受け取って」
 促され、出来上がった商品を受け取る。目線よりずっと上から渡されるのすら新鮮でわくわくした。
「この先に池あるのでそこで食べましょうか」
 たこ焼きにお好み焼き、団子にロングポテト、フルーツの氷漬け(冷凍ミカンがぎゅうぎゅうに凍ったもので衝撃だった)を抱え木杉が案内してくれたのは、公園の中央部にある池のほとりだった。ちょっとしたランチスペースになっていて、色とりどりのパラソルとベンチが設置されている。そのうちのひとつ、青いパラソルの下に俺達は陣取った。
「暑かったけど、ここの下だと涼しい」
「ね」
 笑いながら木杉が買ってきた戦利品を備え付けのテーブルの上に広げる。見事に茶色で統一されているそれらを見て俺は笑ってしまった。
「炭水化物地獄」
「いいじゃん。がつがつ食べましょ」
 俺より身長がでかいからか、旺盛な食欲を見せる木杉を眺めながら俺もみたらし団子をかじる。
 甘くてしょっぱくて、すごく、懐かしい味がした。
「木杉はここ、よく来てたの?」
 満腹になると気持ちも落ち着くのだろうか。リラックスして訊くと、うーん、と木杉は唸った。
「まあ、時々? 家がね、あんまり居心地よくなかったので」
「あ……」
 ――家帰ると父親と恋人がいちゃついてるとか珍しくなかった。
 不用意なことを訊いてしまった。うなだれると、不意にとんと肩を突かれた。
「先輩、それだめ」
「え、あの、なにが」
「まずいこと言っちゃったなあ、って顔。俺、気にしてない。なのに、そんな顔されたら俺も困る。言いたいことあるなら言ってほしい。黙って気にされているほうが正直きつい」
「あ、あの、そう?」
「普通そうじゃないですか?」
 お前だってなんでもかんでも俺に言えているわけじゃないんじゃないの? と言いたくなった。でも……それを制するようなタイミングで木杉が低い声で言った。
「第一、俺、中学のときのこととか、父親のこととか、先輩にしか話してない。先輩にだけ、話したいって思った。だから……家のこと、先輩に触れられても俺は嫌じゃない」
 ……なんでこいつはこんな言い方をするのだろう。
 先輩にだけ、なんて。
 俺のことなんて、好きじゃないくせになんで。
 ああ、言いたい。全部言ってしまいたい。でも言えるわけがない。こんな中途半端なわけのわからない関係でありながら、俺はまだ木杉といたいのだ。
 本当に、どうかしている。
 ぐるぐるする思考に押しつぶされ俯くこと、数十秒。楽しげな笑い声を耳が拾った。
 目を上げると、テーブルを挟んだ向こうに夏の日差しにきらめく池があり、その水面を複数のボートが行きかっているのが見えた。
「あれって、ハクチョウ?」
「あー、いわゆるスワンボートってやつですね。ハクチョウ以外もいるみたい。あれは、クジラ、かな」
「……乗ったこと、ある?」
「……ありませんよ。ひとりで乗るものでもないでしょ、あんなの」
「いや、だから、昔付き合って人と乗ったかな、と」
 ぽろっと言ってしまってから、しまった、と慌てる。木杉も黙っている。ふたりして無言で目の前の焼きそばやらたこ焼きやらを消化していたが、ひとしきり食べたところで木杉が箸を置いた。
「乗りません? 一緒に」
「え」
 男ふたりで? スワンボートに? だが木杉は冗談なんて一切ない顔でこちらを見ている。どういうつもりなのかもわからなくて言葉に詰まっていると、すっと木杉が目を逸らした。
「先輩となら楽しく乗れそうって思って。どうですか?」
「え、と、あの」
 乗りたいか乗りたくないかと言われると困る。興味はある。でも、こいつがどんなつもりでこう言ってくるのかがまったく読めない。
「嫌、ですか?」
 恐る恐るというようなそんな問いかけだった。いつだって朗らかでぐいぐい押してくる木杉にはあるまじき気弱な声が、俺の戸惑いを消した。
「嫌じゃない。俺も、乗りたい」
 ふっと木杉がこちらを向く。目が合うと同時に木杉の顔が綻んだ。
「先輩はどのボート、乗りたいですか?」
「え? あ、ええと、やっぱり、ハクチョウ、かな」
「ですよね。俺もそう」
 笑顔でそう言ってから木杉はテーブルの上を片づけ始める。食べ終わった容器を重ね、ごみ箱へと走っていく。手を出す間もないくらい手際がいい。
 こういうところももてる理由なんだろうな、と考えたら胸がじりりとひりついた。
 考えても仕方ないことをぐるぐる考える。ここのところずっとこんなふうだ。
 肩を落としつつ、戻ってきた木杉と連れ立ってボート乗り場へ行くと、夏休みだからか、家族連れやカップルが列を作っていた。その最後尾に並び、順番を待つ。好きな形のボートに乗れるわけではなさそうで、当着順にボートが割り当てられるシステムらしい。
「この順番だと……ハクチョウに当たれる、かも?」
 戻って来たボートと列に並ぶ人の数を数えていた木杉が言う。
「木杉はなんでハクチョウがいいの?」
「え、なんか幸せになれそうだから? 鳥言葉、なんだったかな。忘れちゃったけど、悪い意味じゃなかったような気がするし」
「鳥言葉? なにそれ」
「知りません? 花言葉とか宝石言葉とかみたいに鳥にも特定の言葉があるらしいですよ。ただやったら幸福って意味の鳥言葉持つやつが多かった気がする」
「そうなの?」
「フクロウとかツバメはそうだったと思います。ハクチョウは……なんだったかな」
 船着き場のデッキに池の水がざばりざばりと打ち寄せる音が、ちょっとだけ海みたいだ。夏っぽい場所と言われて連れてこられたが、ここは確かに夏っぽい。
 ……この感じ、すごく、いい、かも。
 その夏の空気の中、ゆっくりと進む列に並んで、俺達はゆったりと会話した。
 一緒にいるとどきどきしてばかりだけれど、こいつとこんなふうに話すのが俺はすごく好きなんだとふと思った。
「思い出せよ。ハクチョウ、乗れそうなんだから」
「えー……。そう言われても。まあ、いいじゃないですか。そんなのどうでも」
「お前が言い出したんだろ。鳥言葉がどうとか」
「先輩細かい。ほーら、ハクチョウ来ましたよ~」
 くつくつ笑いながら木杉が俺の肩を押す。順番が来てボートへと歩み寄る。ハクチョウがつんと、くちばしを上げて俺達を迎える。と。
「はーい、お兄さんたち、あひるのボートね~」
 ボート乗り場の係員のおじいさんが笑顔でボートを指し示す。思わずふたり、顔を見合わせてしまった。
「あひる? え、これ、あひる?」
「ハクチョウですよね、これ」
「でも、言われてみると、他のと比べてちょっとくちばし平たいような……」
「ほらほら、早く乗って乗って」
 急かされて俺達はボートに乗る。船底に足が触れると、ぐらっと大きく体が傾いて俺はたたらを踏んだ。
「先輩、大丈夫?」
 後から乗り込んできた木杉がふらついた俺の腕を掴んで支える。ちょっとどきっとする。でもそれをおくびにも出さず俺は明るく頷いてみせた。
「平気平気。あ、これ漕ぐと動くのか」
「……ですね」
 横並びに座るふたり乗りのボートには、それぞれの座席の足元にペダルがついていて、真ん中部分にハンドルがあった。よし漕ぐぞ、とペダルに足をかけたところでふと思い出す。
「なあ、あひるの鳥言葉ってなに?」
「え?」
 俺に先んじてペダルをぐいと踏んだ木杉がきょとんとする。
「えーと、なんだったかな」
 物思う目をしながらくるくるとハンドルを器用に回す。とぷん、と水が身じろいでボートを池の中央へと押し出す。
 陸は真夏の太陽に熱せられてじっとしても汗が滲んだのに、水の上は涼しい。枠しかない窓から吹き込む風に目を細めながら俺はペダルをぐいと足で押した。
 思ったよりも重い。これ、ひとりで漕ぐのはきついな、俺も頑張ろう、と足に力を込めた俺の横で呟きが落ちた。
「思い出した」
「え、なに?」
「あひるの鳥言葉」
 問う俺を、木杉がすっと見る。風にさらっと栗色の前髪が揺れた。
「安心」
 とぷん、とぷん、と水がボートを嘗める。ボートを漕ぐのにも体力がいると思うけれど、俺の側のペダルは全然重くない。木杉がいっぱい漕いでくれているからなのだと、思う。
「そんな力入れて漕がないでいいから。俺も頑張るし」
「いい」
 申し訳なくて言うが一言で退けられる。でも、と言いかけたとき、木杉が足を止めた。疲れたのかなと俺がペダルに体重をかけようとすると、その俺を制するように膝がすっと押し留められる。
 とぷん、と水がまたボートを舐めた。
「俺が漕ぐ」
 船着き場は遠く、人声も遠い。ボートは狭くて、発した声は天井に当たり、ふたりだけに降り注ぐ。
「俺が漕ぎたい」
 その閉ざされた空間で木杉はゆっくりと告げた。
 俺にだけ届けようとする、意志のこもった声だった。
「先輩が安心して笑っていられるように、俺が漕いであげたい。ずっと」
 ……なんで。
 瞬間……本気で取り乱しそうになった。
 だってこんなの、おかしい。
 安心して笑っていられるように、なんて言うのは、絶対、おかしい。
 おかしいのに、俺は、何言ってんだよ、と笑えない。どういう意味? とも、訊けない。
 どきどきしてどうしていいか、わからない。
 木杉がなにかを言おうと唇を開く。これを俺は呆然と見つめる。祈るみたいにきゅっとシャツの胸元を自分で握り締めてしまう。
 そのとき、甲高い笑い声が張りつめた空気を破った。はっとしたように木杉の手が俺から離れる。
 はしゃぎながら親子三人がボートを駆ってすぐ近くを通り過ぎていくのが見えた。
「ハクチョウは今のですね」
 俺の後ろ頭に木杉の声が当たる。振り向くと、木杉も俺の体越しに遠ざかっていくボートを眺めていた。
「くちばし、まっすぐだったから」
「ハクチョウがよかった?」
 すうっと木杉の視線がボートからこちらに戻ってきた。数秒俺を見つめてから、ゆっくりと笑んで首を振る。
「ううん。あひるがいい。安心するからこれがいい」
 行きましょうか、と木杉がハンドルをくい、と回す。うん、と頷いて俺もペダルに足を乗せる。
 それはやっぱりすごく軽くて……その軽さに改めて俺はどきどきした。