「やっぱりデータが足りない気がします」
「フリー音源で賄えない感じ?」
「うーん。変化が少ない音声だとやっぱり精度が落ちる気がするんです。怒ってんだか悲しいんだか読み取れない、みたいな。もうちょっといろんな音源集めて学習させたほうがよくないでしょうか」
終業式が終わり、夏休みに入っても俺達は学校に集まっていた。幸いにもうちの高校は夏休み中も開放されていて、許可さえとれば、作業をすることはできる。
それをいいことに俺達はほぼ毎日、顔を合わせて作業をしていた。
あの日、吐露しあったお互いの内情には触れぬままに。
木杉があの日のことをどう思っているのか、俺は訊いていない。向こうも訊いてこない。だからなにを考えているのかはわからない。
ただ……少しだけ距離を感じるのは確かだ。
それが苦しくもある。でもこれ以上近づきすぎるのは怖かった。
下手に近寄ったら、ここまで一緒にいた時間も全部、木杉の中から消されてしまう。それはやっぱり……嫌だ。
だから、今日も俺はいつもの顔をする。
「そしたら……使えそうなデータないか先生に相談してみる」
「お願いします」
淡々と頷いて木杉はモニターに向き直る。
開発が進み、個人PCでは限界を感じ、マシンスペックの高いPCを、冷房ががんがんに利いたパソコン室で使いながら作業を行っているせいか、真夏なのにその気配が遠い。
ふと手を止めて外を見ると、馬鹿みたいに真っ青な空が目を射た。
一階のここからはグラウンドがよく見える。ぎらぎらと照り付ける太陽の下、ランニングする生徒の姿がある。苦しそうに汗を垂らす後輩に先輩らしい生徒が、もうちょっとの辛抱だぞ~、と檄を飛ばしているさまは、しんどそうだけれど眩しい。反対に窓のこちら側は俺と木杉しか作業をしている人間がいなくて、ひっそりしていて水底みたいでほんのり薄暗い。
水槽の中の魚はこんな気分なのだろうか。
ぼんやりとしていたら机の上に、ことん、となにかが置かれた。見ると、スポドリのペットボトルがあった。外の暑さを思い出せといわんばかりに表面はほんのり水滴をまとっている。
「ここ、水、厳禁」
やっぱり鼓動が早くなってしまう。小動物が胸の中にいるみたいなこんな感じ……本当に久しぶりだ。どきどきしながら見上げると、木杉が軽く肩をすくめた。
「そうですけど。水分取らないとひからびちゃうし」
「冷房きいてるここでそんなこと言ったら、グラウンドのやつらに恨まれる」
「ああ、確かにそうかも。でも、外、気持ちよさそうですね」
ひいひい言っている様子を見て、気持ちよさそう、か。やっぱりこいつは変わっている。けれどちょっとわかる気もした。
ここは涼しくて気持ちいいけれど、ずっといると痛いくらいの太陽の光が恋しくなる。
「今日、これくらいにしません?」
真っ白な光の中を走る彼らを眺めている俺の横で、視線をグラウンドに向けたまま木杉が不意に言った。
「なんで?」
「や、だって、夏休みも半ばだってのに、毎日作業してるの俺達くらいだから。せっかくの夏、先輩も楽しまないと」
「あ……」
確かにそうだ。毎日作業作業ばかりで、夏休みらしいことを全然していない。お互い、宿題をする時間を設けて一緒に宿題を広げていたその時間こそが、夏休みらしいと言えば夏休みらしいが。
「なんか、ごめん」
「なに謝ってるんですか?」
驚いたようにこちらを見下ろしてくる木杉から目を逸らし、俺はグラウンドに目を凝らす。夏そのものみたいな外の世界を。
「いや、お前、高校入って初めての夏休みなのに。俺に付き合わせて悪いなって思って。あの、予定あるだろ。形になってきたし、あとはひとりでもなんとか……」
「いいんですってば」
強めの声が降ってきて俺は顔を上げる。首を巡らせ、木杉の顔を仰ぐと、グラウンドを眺めていたはずの木杉の顔はまっすぐ俺に向けられていた。
「俺が来たくてここに来てるんで。そこはいいんです。ただ」
ただ、と言ってから木杉は迷うように目を伏せる。数秒そうしてからすうっと瞼が上げられる。
「俺は作業以外のことも先輩としてみたいって思ってます」
「え……」
呆然と見つめる俺を見下ろし、木杉がゆらっと首を傾げた。
「先輩はどうですか? 俺と作業以外のこと、するの嫌、ですか?」
今俺達が開発している音声感情認識AI。その学習用に俺達は数多の音源をデータとして読み込ませている。声の大きさ、声音、速さ。そこから感情を分析させるために。
その俺達が開発中のAIに今の木杉の声を聞かせたら、AIはなんと解析するだろうか。どんな感情を読み取るだろうか。それを教えてほしいと思った。いや、今、こいつの声に混じって聞こえたものが、俺が思った通りのものなのか、答え合わせをさせてほしかった。
「たとえば、この間みたいに一緒にご飯食べたりとか。一緒に散歩するとか、どう、ですか?」
木杉の声。柔らかくて耳ざわりのいい、声。そこに滲んだ感情。俺にはそれが、怯えに思えた。
でもその理由がわからなかった。だってこいつが怯える必要なんてどこにある? 怯えるとしたら、気持ちを悟られてしまうのではと悩む俺のほうが……。
ぐるぐると考えていて……はっとした。
俺がこいつと同じ立場だったらどうだろう。
俺はこの間、自分の気持ちに振り回されてこいつの話を途中でぶち切るようにして会話を終わらせてしまった。
もし同じことを俺もされたら? お前の話なんてもう聞きたくない、と拒絶されたと感じないだろうか。
多分、感じる。俺なら。そしてそんな状態だったら怖くて、その人に近づけなくなる。
なのに、こいつはここにいる。ここに来て、手伝ってくれて、いる。
それどころか、変な蟠りが残らないようにいつも通りにしてくれてさえいる。
やはりこいつはすごく……優しい。その優しいやつにこれ以上、怯えた顔をさせたくなんて、ない。
「……あの、アイス」
でもなにを言ったらいいだろう。なにを言ったら、拒絶してなんていないよ、と伝えられる? さんざん悩んで、ない頭を絞って出てきたのはそんな脈絡のない単語だった。
「はい?」
不審そうに木杉のふさふさの睫毛が揺れる。そうされてじわりと背中が汗ばんだ。
ああもう、しっかりしろ。俺。
「美味そうだった。この間、送ってくれた写真」
「ああ」
怪訝そうだった木杉の頬がふっと緩む。
「よかった。喜んでもらえて」
「いや、喜んでっていうか……あれ見てめちゃくちゃアイス食べたくなって、眠れなくなっちゃって……困った」
「あー」
くすっと木杉が肩を揺らす。ごめんなさい、と小さく頭が下げられた。
「飯テロしちゃった」
「ほんとに。すごく食べたかった」
一緒に、とは言えなかったけれど、俺は必死に言葉を紡ぐ。
「で……あの、ああいうの、他にも木杉、知ってる? 知ってたら教えて。俺、あんまり知らないんだ。おすすめアイスとか、美味い店とか、遊べそうな場所とか。人混み、苦手だから避けてたらなんかそういうの疎くなっちゃって。だから」
ああ、どう言っても言い訳臭くなる。でも素直に一緒に行きたいって言うことはやっぱり怖い。
こちらの気持ちを悟られてしまいそうで……怖い。
「できれば、教えてもらえたら……って。え、あの」
それでも伝えたくて、必死に紡いでいた俺の言葉は、半ばで途絶えた。
突然手が伸びてきて……髪を、撫でられたために。
「可愛い」
「……え」
今、こいつ、可愛い、と言わなかったろうか。可愛い? なにが? 可愛い……俺の苗字を河合と勘違いしてるとか。そんなわけあるか、俺!
パニックになる俺の髪をひとしきり撫でた木杉の手が遠ざかる。そのまま俺を見つめること数秒。
木杉が唐突に笑んだ。
「寝ぐせ、ついてますよ。子どもみたい。可愛い」
「は……」
そろそろと手を伸ばして髪を確かめる。確かにちょっと、跳ねて、る?
「あー、ほんとだ……」
しかし子どもみたいってなんだ。こっちは年上だというのに。赤面しつつ唇を尖らせる俺のそばから木杉はすっと離れると、作業をしていたパソコンをシャットダウンし始めた。
「行きましょうか、先輩」
「行く? どこへ」
「デート」
「はっ……?」
せっかく抑え込もうとしたのに、熱が駄々洩れてかっと頬が熱くなる。木杉はパソコン周りを片づけていてこちらを見てはいない。そのことに安堵しつつ俺はモニターに隠れて問う。
「で、デートとか冗談きついわ……。そもそも、どこに……」
「んー。せっかくだから夏っぽいとこ行きましょう。どうですか?」
ひょい、とモニターの上から顔が出される。わ、と小さく声を漏らしてしまう。
どうしよう。
デートなんて、どうしていいかわからない。ぼろが出ちゃうかもしれない。でも心の内がじわっと熱くなるのを止められない。
「まあ、行ってやっても、いいよ」
蚊の鳴くような声で返事をすると、モニターに片肘を突いた木杉がふっと笑うのがわかった。
よかった、と囁く声が聞こえた気がしたけれど、もしかしたら聞き違いだったのかもしれない。
「フリー音源で賄えない感じ?」
「うーん。変化が少ない音声だとやっぱり精度が落ちる気がするんです。怒ってんだか悲しいんだか読み取れない、みたいな。もうちょっといろんな音源集めて学習させたほうがよくないでしょうか」
終業式が終わり、夏休みに入っても俺達は学校に集まっていた。幸いにもうちの高校は夏休み中も開放されていて、許可さえとれば、作業をすることはできる。
それをいいことに俺達はほぼ毎日、顔を合わせて作業をしていた。
あの日、吐露しあったお互いの内情には触れぬままに。
木杉があの日のことをどう思っているのか、俺は訊いていない。向こうも訊いてこない。だからなにを考えているのかはわからない。
ただ……少しだけ距離を感じるのは確かだ。
それが苦しくもある。でもこれ以上近づきすぎるのは怖かった。
下手に近寄ったら、ここまで一緒にいた時間も全部、木杉の中から消されてしまう。それはやっぱり……嫌だ。
だから、今日も俺はいつもの顔をする。
「そしたら……使えそうなデータないか先生に相談してみる」
「お願いします」
淡々と頷いて木杉はモニターに向き直る。
開発が進み、個人PCでは限界を感じ、マシンスペックの高いPCを、冷房ががんがんに利いたパソコン室で使いながら作業を行っているせいか、真夏なのにその気配が遠い。
ふと手を止めて外を見ると、馬鹿みたいに真っ青な空が目を射た。
一階のここからはグラウンドがよく見える。ぎらぎらと照り付ける太陽の下、ランニングする生徒の姿がある。苦しそうに汗を垂らす後輩に先輩らしい生徒が、もうちょっとの辛抱だぞ~、と檄を飛ばしているさまは、しんどそうだけれど眩しい。反対に窓のこちら側は俺と木杉しか作業をしている人間がいなくて、ひっそりしていて水底みたいでほんのり薄暗い。
水槽の中の魚はこんな気分なのだろうか。
ぼんやりとしていたら机の上に、ことん、となにかが置かれた。見ると、スポドリのペットボトルがあった。外の暑さを思い出せといわんばかりに表面はほんのり水滴をまとっている。
「ここ、水、厳禁」
やっぱり鼓動が早くなってしまう。小動物が胸の中にいるみたいなこんな感じ……本当に久しぶりだ。どきどきしながら見上げると、木杉が軽く肩をすくめた。
「そうですけど。水分取らないとひからびちゃうし」
「冷房きいてるここでそんなこと言ったら、グラウンドのやつらに恨まれる」
「ああ、確かにそうかも。でも、外、気持ちよさそうですね」
ひいひい言っている様子を見て、気持ちよさそう、か。やっぱりこいつは変わっている。けれどちょっとわかる気もした。
ここは涼しくて気持ちいいけれど、ずっといると痛いくらいの太陽の光が恋しくなる。
「今日、これくらいにしません?」
真っ白な光の中を走る彼らを眺めている俺の横で、視線をグラウンドに向けたまま木杉が不意に言った。
「なんで?」
「や、だって、夏休みも半ばだってのに、毎日作業してるの俺達くらいだから。せっかくの夏、先輩も楽しまないと」
「あ……」
確かにそうだ。毎日作業作業ばかりで、夏休みらしいことを全然していない。お互い、宿題をする時間を設けて一緒に宿題を広げていたその時間こそが、夏休みらしいと言えば夏休みらしいが。
「なんか、ごめん」
「なに謝ってるんですか?」
驚いたようにこちらを見下ろしてくる木杉から目を逸らし、俺はグラウンドに目を凝らす。夏そのものみたいな外の世界を。
「いや、お前、高校入って初めての夏休みなのに。俺に付き合わせて悪いなって思って。あの、予定あるだろ。形になってきたし、あとはひとりでもなんとか……」
「いいんですってば」
強めの声が降ってきて俺は顔を上げる。首を巡らせ、木杉の顔を仰ぐと、グラウンドを眺めていたはずの木杉の顔はまっすぐ俺に向けられていた。
「俺が来たくてここに来てるんで。そこはいいんです。ただ」
ただ、と言ってから木杉は迷うように目を伏せる。数秒そうしてからすうっと瞼が上げられる。
「俺は作業以外のことも先輩としてみたいって思ってます」
「え……」
呆然と見つめる俺を見下ろし、木杉がゆらっと首を傾げた。
「先輩はどうですか? 俺と作業以外のこと、するの嫌、ですか?」
今俺達が開発している音声感情認識AI。その学習用に俺達は数多の音源をデータとして読み込ませている。声の大きさ、声音、速さ。そこから感情を分析させるために。
その俺達が開発中のAIに今の木杉の声を聞かせたら、AIはなんと解析するだろうか。どんな感情を読み取るだろうか。それを教えてほしいと思った。いや、今、こいつの声に混じって聞こえたものが、俺が思った通りのものなのか、答え合わせをさせてほしかった。
「たとえば、この間みたいに一緒にご飯食べたりとか。一緒に散歩するとか、どう、ですか?」
木杉の声。柔らかくて耳ざわりのいい、声。そこに滲んだ感情。俺にはそれが、怯えに思えた。
でもその理由がわからなかった。だってこいつが怯える必要なんてどこにある? 怯えるとしたら、気持ちを悟られてしまうのではと悩む俺のほうが……。
ぐるぐると考えていて……はっとした。
俺がこいつと同じ立場だったらどうだろう。
俺はこの間、自分の気持ちに振り回されてこいつの話を途中でぶち切るようにして会話を終わらせてしまった。
もし同じことを俺もされたら? お前の話なんてもう聞きたくない、と拒絶されたと感じないだろうか。
多分、感じる。俺なら。そしてそんな状態だったら怖くて、その人に近づけなくなる。
なのに、こいつはここにいる。ここに来て、手伝ってくれて、いる。
それどころか、変な蟠りが残らないようにいつも通りにしてくれてさえいる。
やはりこいつはすごく……優しい。その優しいやつにこれ以上、怯えた顔をさせたくなんて、ない。
「……あの、アイス」
でもなにを言ったらいいだろう。なにを言ったら、拒絶してなんていないよ、と伝えられる? さんざん悩んで、ない頭を絞って出てきたのはそんな脈絡のない単語だった。
「はい?」
不審そうに木杉のふさふさの睫毛が揺れる。そうされてじわりと背中が汗ばんだ。
ああもう、しっかりしろ。俺。
「美味そうだった。この間、送ってくれた写真」
「ああ」
怪訝そうだった木杉の頬がふっと緩む。
「よかった。喜んでもらえて」
「いや、喜んでっていうか……あれ見てめちゃくちゃアイス食べたくなって、眠れなくなっちゃって……困った」
「あー」
くすっと木杉が肩を揺らす。ごめんなさい、と小さく頭が下げられた。
「飯テロしちゃった」
「ほんとに。すごく食べたかった」
一緒に、とは言えなかったけれど、俺は必死に言葉を紡ぐ。
「で……あの、ああいうの、他にも木杉、知ってる? 知ってたら教えて。俺、あんまり知らないんだ。おすすめアイスとか、美味い店とか、遊べそうな場所とか。人混み、苦手だから避けてたらなんかそういうの疎くなっちゃって。だから」
ああ、どう言っても言い訳臭くなる。でも素直に一緒に行きたいって言うことはやっぱり怖い。
こちらの気持ちを悟られてしまいそうで……怖い。
「できれば、教えてもらえたら……って。え、あの」
それでも伝えたくて、必死に紡いでいた俺の言葉は、半ばで途絶えた。
突然手が伸びてきて……髪を、撫でられたために。
「可愛い」
「……え」
今、こいつ、可愛い、と言わなかったろうか。可愛い? なにが? 可愛い……俺の苗字を河合と勘違いしてるとか。そんなわけあるか、俺!
パニックになる俺の髪をひとしきり撫でた木杉の手が遠ざかる。そのまま俺を見つめること数秒。
木杉が唐突に笑んだ。
「寝ぐせ、ついてますよ。子どもみたい。可愛い」
「は……」
そろそろと手を伸ばして髪を確かめる。確かにちょっと、跳ねて、る?
「あー、ほんとだ……」
しかし子どもみたいってなんだ。こっちは年上だというのに。赤面しつつ唇を尖らせる俺のそばから木杉はすっと離れると、作業をしていたパソコンをシャットダウンし始めた。
「行きましょうか、先輩」
「行く? どこへ」
「デート」
「はっ……?」
せっかく抑え込もうとしたのに、熱が駄々洩れてかっと頬が熱くなる。木杉はパソコン周りを片づけていてこちらを見てはいない。そのことに安堵しつつ俺はモニターに隠れて問う。
「で、デートとか冗談きついわ……。そもそも、どこに……」
「んー。せっかくだから夏っぽいとこ行きましょう。どうですか?」
ひょい、とモニターの上から顔が出される。わ、と小さく声を漏らしてしまう。
どうしよう。
デートなんて、どうしていいかわからない。ぼろが出ちゃうかもしれない。でも心の内がじわっと熱くなるのを止められない。
「まあ、行ってやっても、いいよ」
蚊の鳴くような声で返事をすると、モニターに片肘を突いた木杉がふっと笑うのがわかった。
よかった、と囁く声が聞こえた気がしたけれど、もしかしたら聞き違いだったのかもしれない。



