進入禁止の彼~好きになったら終わりなのに~

 木杉がすうっと席を立つ。ソファーの上に放り出してあったリモコンを取り上げた彼は、テレビを消すと元通り俺の向かいに腰を下ろす。
「先輩、聞いたんですよね。俺の噂」
「あ、うん、でも……」
「最低って思ったでしょ」
 さらっと訊かれて困惑する。その俺の戸惑いをものともせず、木杉は俺に微笑みかけてから、肩をすくめた。
「気にしなくていいですよ。実際最低だし。そもそも悪いことしたかったからなんて理由で周りを巻き込んでるんだもん。弁解の余地ない」
 悪いことをしたかった? 首を傾げた俺に木杉は軽く頷いてから、すっと瞼を下ろす。
「あの人、ああ、さっきテレビ出てた父親、まあ有名人で。あの人から言われてたんですよ。俺が表に出る仕事をしているんだから、お前もその自覚を持って責任ある行動を取れとか。恥ずかしくない行いをしろとか。けど、恥ずかしくない行いってなんだよってずっと思ってた。だってあの人、笑っちゃうくらいの遊び人なんだもん」
「そう、なの?」
「うん。短期間でころころ恋人変わるの。しかもその恋人達、みんな勝手にうち出入りするし。うち母親が早くに亡くなったから別に不倫じゃないけど、家帰ると父親と恋人がいちゃついてるとか珍しくなかった。そのくせ俺には恥ずかしくない行いしろって言われてもってばかばかしくて。だから、あの人にあてつけるみたいに、深く考えずに付き合って別れてを繰り返してた……って、こんな話、先輩大丈夫? 気分いい話じゃないし、無理って言ってくれていいですけど」
「あ、いや……」
 正直、頭は完全にオーバーヒートしている。親への当てつけみたいに人と付き合うとか、そんな不誠実な行い、受け入れたくなんてないとも思っている。
 でも……信じたかった。
 ――俺は今、俺が見てる先輩を支持するだけ。
 こいつは俺のことを支持すると言ってくれたから。
「聞かせて」
 促すと、くっと木杉が息を呑みこむみたいな仕草をした。迷うように視線を躍らせてから、咳払いをする。
「去年の今頃に、父親の恋人と家で鉢合わせて。父親はまだ帰ってきてなくてふたりきりだった。そしたら……その女が急に迫ってきて。めちゃくちゃ驚いて……でも、いいのかって思っちゃったんですよね。好き勝手やる父親に腹も立ってたし、で……」
 言い淀むように言葉が止まる。首を折るようにうなだれてから覚悟を決めたみたいに顔を上げる。
「その人に、キスしました」
 俺は今、どんな顔をしているのだろうか。自分で自分の顔が怖い。痛む心臓から目を逸らすのに必死で表情まで取り繕えない。
 木杉はそんな俺の顔を見ている。俺の反応を待っている。でもどう言えばいいかわからない。沈黙する俺からすっと木杉が目を逸らす。
「した後にその人に言われました。あんたは父親と同じで人を好きになれない空っぽな子ねって。中身がなんにもないから、相手の望むままの姿を演じるけど、そんなすかすかの人間と誰が関係を築いていきたいと思う? 本当に哀れねって」
「なんだそれ……」
 今も頭の中はぐるぐるしている。聞かされたことが衝撃的過ぎて解析できないでいる。でも……混乱した思考の中で浮かび上がってきたのは強烈な怒りだった。
 俺は父親の恋人に迫られるなんて壮絶な経験をしたことがないし、どっちに非があるとか俺が言うのもおかしいのだろう。でも、よく知りもしない女にそこまで言われないといけない理由がわからなかった。そもそも恋人の息子に苛立ちをぶつけることにどんな意味があるんだ? 女が放ったという言葉からも、父親の息子を誘うという行動からも、ただ傷つけたい、という思いしか感じられなくて、とにかく不快だった。
 憤然としたのが顔に出たのだろうか。俺に向かって木杉が緩く首を振る。
「あの人は悪くない。実際、俺、誰とも続かなかったから。好きって言われてもその重さに見合う気持ちも返せなかったし。相手が俺のどこを好きって言ってるのかも全然わかんなかったし。それ、気付かされて怖くなった。俺、このままだと父さんみたいになるのかなって」
 エアコンが利いた部屋の中だけれど、窓ガラスの向こうからは暑い夏を思わせる子どもの声が聞こえる。おかあさーん、喉乾いたー! と跳ねるみたいな声が。それに耳を傾けるような顔を一瞬してから、木杉は言葉を継いだ。
「父さん、全然幸せそうじゃないんですよね。いろんな人と付き合って離れて酒飲んで。あんなふうに俺もなるのかなって思ったら……怖かった。だから、俺のこと、好きって言ってくる人とは距離を置いて、俺に興味がない人に近づくようになりました」
「それ、なんで……」
「俺なんてどうでもいいって思ってくれる人なら、俺に期待しないでしょ」
 すがるような手が麦茶のグラスを包む。きゅっとグラスを握り締め、木杉はグラスの中に視線を落とす。
「好かれたら気持ちを返さないといけないし、演技じゃなくその人の望む俺にならないといけない。俺にはそれはできそうにないし、そもそも俺を好きな人を自分が好きになるとも思えない。けど、俺に興味がない人なら……好きになれる気がして。それに、相手が俺のことなんとも思ってなかったら、傷つけず終わりにできるでしょ」
 そんなの、おかしい。
 即座にそう言い返したかった。だって、それは……結局、誰かを傷つける行為じゃないのか?
「そ、れ……もしも、相手が好きになっちゃったら……どうなるの?」
「え?」
 ふっと視線がこちらに向けられる。数度瞬きをしてから木杉はゆらっと首を振った。
「さすがにそんなことは起こらないんじゃないかな。自然に離れるか嫌われまくって終了が今までのパターンだったし」
「いやでも、万一ってこともあるだろ。そうなったら、お前、どうするの?」
 俺は、こいつになにを言わせたいのだろう。
 そうなったらうれしいです? いや、そんなこと、こいつが言うわけがない。
 自分を好きだと言ってくれる相手には気持ちを返せないからそばに寄れない。だから自分に無関心な相手に近づいて、自分が人を好きになれるか試している。
 こいつはそう言っているのだ。それは極めて悪質な穢れた論理だ。でもそのどうかしている論理でこいつは動いている。そのこいつが、好きでもない相手に好かれて、うれしいです、なんて絶対言うわけがない。
 言うわけが、ないのだ。なのに、俺は訊きたくなってしまう。
「もしも……」
 ……もしも俺がお前のこと好きって言ったらお前は、どうするの?
 危ういところで飲み込んだ問いが体の内側でわんわんわめいているのを自覚しながら、俺は唇を噛む。
 ――そのときは、終わりですね。
 想像の中で木杉が返す。さっきみたいな願望交じりの妄想じゃない。一番あり得る温度で木杉は俺に返事をするだろう。冷めた笑みを浮かべながら。
 だってそうじゃないか。こいつは俺のことなんて少しも好きじゃないのだから。
 そんな相手にこんな質問を投げつけたら、気付かれてしまう。
 ――こうしてずっと握ってて。
 ――話してくれて、うれしい。
 俺にだけ視線を向けて、優しくしてくれた。その時間もきっと失われてしまう。
 一緒にももういられない。笑いあうことも、チャーハンを食べることも、もう。
 それは……嫌だ。
「そうですね……そのときは」
「あーっと」
 なにかを口にしようとした木杉を俺は押しとどめる。言葉半ばで目を見張る木杉の手の中にあるグラスに俺は乱暴に麦茶を注ぎ足す。
「あの、ほら、ええと。もうすぐ夏休みだけど、作業、どうする? 木杉、夏休み、時間ある? あるなら手伝ってほしいとこ、あって」
「え……」
 意表を突かれたように木杉が目を瞬く。俺は自分の分のグラスにも麦茶を注ぎながら口を動かす。
「まだまだデータ読ませないといけないし、テストも、したいし。できれば、協力、して、ほしいんだけど」
 絶対に不自然だろう。こんなの。これまでしていた話題をぶった切ってとってつけたような頼み事を放り込むなんて。きっとこいつも不快に思ったに違いない。怒り狂って席を立たれるかもしれない。でもこうするしか思いつかなかった。
 自分の気持ちを自覚した瞬間に思い知った絶望的な状況を打破し、こいつを繋ぎとめる方法なんて、これしか思い浮かばなかった。
 なにも聞かなかったみたいな……見ないふりしか思いつかなかった。
 チャーハンはとっくに食べ終わってしまった。紡ぐ言葉も思いつかない。濁った色になったスプーンを意味なく見つめるくらいしかできない。どうしよう、どうしよう、そう思っていた俺の前でことん、と麦茶のグラスがテーブルに置かれた。
「夏休み、暇です」
 顔を上げると、木杉がこちらを見ていた。口角は上がっている。でも、消化不良みたいな、どんな顔をしていいんだかわからないと言いたげな笑みがその顔には浮かんでいた。
 ああ、失敗した、と肩を落とす俺の前で、すっと木杉が椅子を引いて立ち上がる。無言でテーブルの上の皿を重ね、流し台へと運ぶ。
「あ、あの、洗うから」
「いいです」
 さらっと言ってスポンジを手に取る。慣れた様子で皿を洗い終えた木杉は、手拭きタオルで手を拭いてからシンプルに言った。
「帰ります」
「あ、うん、あの」
 やっぱり怒らせてしまったのかもしれない。真剣に話していたのに、と不愉快になったのだろう。それはそうだ。俺だってあの話……卒業式での話をしている途中で話題を変えられたらさすがにむっとする。覚悟をしていたら余計にそうだ。
「えと、あの、木杉」
 呼びかける俺を無視して木杉は玄関へ向かう。スニーカーに足を突っ込み、とんとん、と爪先で三和土を叩く。木杉を追って玄関まで出て来たものの、背中を見つめるしかできないでいる俺の前で木杉がドアノブに手を伸ばす。
「ごちそうさまでした」
「あ、うん」
 ああ、自分はなんて馬鹿なのだろう。このままじゃ……と焦っているとノブを握ったまま木杉が振り返った。
「夏休み、楽しみにしてますから」
「え……」
 きいっとドアが開かれる。そのまま流れるような所作で、木杉はドアの隙間から滑り出て行く。振り返りはしない。ただ、力任せではない、静かな閉め方でドアが閉められたところで、張りつめていた気が緩み、俺は上がり框にへたり込んだ。
 楽しみにしてます……?
 怒ってはいない、ということだろうか。
 俺の気持ちにも気付かれずに済んだ……? 現状維持成功、ということか……?
 わからない。今がどんな状態なのか、まったく読めない。でも、なんとか乗り切れたのならこの先も気を付けなければならない。
 もしも俺の気持ちに気付かれたら……確実に終わってしまうから。
 ざわつく気持ちを必死になだめながら眠りにつこうとしたその夜、スマホがメッセージを受信した。
 表示されたアイコンは、進入禁止のあれだった。
 木杉からのあの話を聞いた後にこのアイコンを見ると思う。これは木杉からの無意識の声かもしれないと。
 入ってこないで。
 わかりもしないのに、立ち入らないで。
 あいつはそう言っているのかもしれない。多くを望まれてきたあいつからしたらそう言いたくなっても仕方ない。
 望まれたい。誰かと触れ合いたい。でも勝手な好意を押し付けられるのは、怖い。
 アイコンからそんな怯えがじんわりと滲んでいるようなそんな気がする。考えすぎだろうか。
 ため息を噛み殺しながらメッセージを開くと写真が添付されていた。
「うまそ……」
 イチゴとバニラの赤と白が画面の中で鮮やかに波打つ。コンビニで売っている、ソフトクリームだ。
 ――散歩中。
「夜中になにやってんだよ……」
 少しだけ笑ってしまった。と同時に思ってしまってもいた。
 ……一緒に食べたいな。
 でもそれは、言っちゃ、だめだ。
 ――夜中になにやってんの。気を付けて帰りな。
 だから先輩らしいメッセージだけを送った。数秒後、木杉から返信があった。
 ――はーい。先輩、また学校で。
 いつもの木杉らしい軽いノリかつ、後輩らしいラインを守った文言にくっと胸が痛んだ。うん、と短く返事を打とうとしたとき、画面にぽっと通知が上がってきた。
 ――先輩。
 ――おやすみなさい。
 おやすみなさい。
 ただの挨拶だ。生まれてからここまで何千回と口にしてきたただの言葉だ。
 でも、胸の内で唱えたら、なぜか泣きたくなった。
 ――おやすみ。
 たったの四文字。その四文字を俺は丁寧に打ち込んだ。この黒い夜の底、ひとりでコンビニの白い光に照らされているあいつのもとへちゃんと届きますように。そんな思いを込めて送信ボタンを押した。