進入禁止の彼~好きになったら終わりなのに~

「そこ……」
 団地の一室である我が家に辿り着き、ソファーを勧めようとして俺は固まる。
 昨日取り込んだ洗濯物がそのままソファーの上で山を作っていた。
 慌てて洗濯物を腕に抱え、リビングと隣り合っている母の部屋を開ける。ぽいぽい、と放り込んだところでそろそろと木杉を振り返る。
「ごめん、汚くて。そこ、座って。テレビ、見てくれていいから。ほんと、ごめん」
 こんな汚部屋に来いなんてよく言ったな、俺。
 首をすくめつつテレビを点け、びくびくしながらリモコンを差し出すと、興味深そうに部屋を見回していた木杉にくすっと笑われた。
「なんで謝ってるんですか。っていうか、テレビはいいです。飯、準備手伝う?」
「あ、いや、チャーハン温めるだけだから」
 よかった、引いてないっぽい。
 胸を撫で下ろしつつ俺は冷蔵庫に入れてあったチャーハンを引っ張り出す。ラップがかかったそれを電子レンジに入れる。
「すぐ温まるから先、食べてて。母親の作ったやつだけど、うちの母親のチャーハン美味いから」
 これは本当。うちの母親の料理はどれも美味い。特にこのハム入りチャーハンはぱらっとしていて、中華料理屋で食べるものより好きだ。それを木杉にも食べさせてやりたかった。
「……先輩は?」
「冷ご飯あるし、適当に作る」
「うーん」
 木杉が眉を顰める。
「それはだめな気がする」
「なんで?」
「だってそのチャーハンは先輩のためにお母さんが作ったやつじゃん。それを他人の俺が食べるのはだめでしょ」
 唇が尖らされる。言われて初めて、確かに、と思った。
 同時に、こいつが言葉にしない想いにも気持ちを寄せられるやつなんだってことを知って胸がほわりとした。
 ただ、問題なのは……。
「気遣ってくれてありがたいけど、そうするとお前に俺の作ったの食べさせることになっちゃうからそれは……」
「俺、それが食べたい」
「それ?」
「先輩が作ったチャーハン。食べたい」
 きっぱりと言われ、俺は慌てる。ダークマターができるほどのレベルではないけれど、それでも母のチャーハンのほうが絶対にお客様向きだ。
「招いておいてそんな貧相なもの食べさせるのは、ちょっと」
「作る前から貧相って暗示をかけちゃだめでしょ。ものづくりの基本でしょうに……あ、そうだ」
 呆れたように言いながら、木杉は台所に立つ俺の隣に並ぶ。そして、冷ごはんとネギ、卵、ハムを冷蔵庫から引っ張り出した俺の手元を覗き込み、にこっと笑った。
「一緒に作りましょうか。それなら連帯責任」
「連帯責任?」
「貧相な仕上がりだったとしてもそれは先輩の責任じゃなくて俺達ふたりの責任になるから」
 招待した側なのに、一緒に作らせるのはどうなのだろう。でも、にこにこする木杉を見ているうちにそれもありか、と思えてきた。
 実際、こいつと作業するのは楽しい。それを俺はエルダー制度で知っている。
「包丁さばき、見せてもらおうかな」
「お任せあれ」
 軽く請け合い、木杉はシンクで手を洗う。これ、刻みますね、とネギが取り上げられた。
 木杉の包丁さばきはなかなかのものだった。確実に俺より上だった。それがちょっと不満だったけれど、出来上がったチャーハンを見て浮かべられた満面の笑みに、そんなことどうでもよくなってしまった。
「いただきます」
「いただきます」
 ダイニングテーブルに向かい合って座り、チャーハンを食べる。俺は母の、木杉は俺の、というか、ふたりで作ったのを。
「ど、どう?」
「んー」
 そろそろと問うと、木杉はむぐむぐと口の中でチャーハンを噛みしめる。ひとしきり租借して飲み込んでから、ふふ、と笑う。
「先輩ってやっぱ嘘つき」
「え、あの、なにが?」
「めっちゃ美味い。料理下手なんて嘘じゃん。もう。味付け最高」
 くすくすと笑いながら木杉はスプーンで丁寧に皿の中のチャーハンを掬う。ぱくぱくと食べ進める姿に無理をしている様子はまるでない。口には合っているようだ。ほっとしながら俺も母さんの作ったチャーハンを掬う。
 やっぱり美味かった。
「お前が協力してくれたからうまくできたんだと思うよ。俺、そんな料理上手くないし」
「そうかな。でもさ、思いません? 料理って誰かのためにすると見えないスパイス的なものが加えられるみたいな」
「スパイス?」
「愛的な」
 さらっと言われて噴きそうになった。が、木杉は平然とした顔で、麦茶が注がれたグラスに手を伸ばしている。
「だって自分が食べるのならどうでもいいじゃん。でも人に食べさせるとしたらそんな適当はできない。その気持ちが愛でしょ。俺がいくら料理練習しても死んだ母親の味にはなんないのはそういうことなんじゃないかな」
「あ……」
 さらっとなんでもないことのように言われたから、却ってずしりと来た。
 無神経に母親のチャーハンを勧めてしまった自分がひどく子供に思えた。
 けれど、ごめん、と言うのもなんだか違う気がした。だって、ごめん、と言ったら、許さないといけなくなる。ごめん、は人と人を繋ぐ言葉でもあるけれど、一方的に気持ちを軽くするだけのものでもあると俺は思う。
 迷っている俺の前で、こくん、と麦茶を一口飲み、木杉はグラスをテーブルに戻す。
「俺ね」
 黙っている俺の前で、木杉は再びスプーンでチャーハンを掬い始める。それは、一粒たりとも残すまいとするような真摯な手つきに見えた。
「先輩の作品作りには優しさがあるなあって思ってた」
「そ、そうかな」
「触ってくれた人が元気になれたらいいなあとかそういうの考えて作ってるじゃないですか。俺、それ、すごくいいなあって思ってたし、このチャーハンの味もそう」
 ぱくん、とスプーンをくわえ、木杉はゆっくりと噛みしめるみたいに口を動かす。こくん、と飲み下すたびに動く木杉の喉を俺はぼんやりと見つめる。
「俺が美味しいって思えるように一生懸命作ってくれたでしょ。それ、見てればわかる」
 ありがと、と小さく声が続く。その声に引っ張られるように心臓がまたどくん、と音を立てた。
 ……こいつは、違う。
 遊び人と言われてもいた。実際、めちゃくちゃもてていた、いや、現在進行形でもてていることも知っている。
 でもこいつは噂されているようなそんないい加減なやつじゃない。じゃあ……。
「お前って一体どういう人間?」
「どしたの、いきなり」
 くすっと木杉が笑う。その声は茶化すみたいで、そんな声を出すところはやっぱり気に入らなかった。
「俺、聞いたんだ。お前の噂。中学時代のこと」
 一気に言うと木杉が黙り込む。かちゃかちゃとスプーンが皿を掻く音しか返してくれない彼に苛立って、俺はテーブル越し身を乗り出す。
「でもその噂とお前がどうしても重ならなくて。だって、噂通りの非情なやつなら、俺を見捨てたと思う」
「なんの話ですか?」
「さっきのコンビニでの話」
 あのときのことを話していたら、また息が苦しくなってきた気がする。大丈夫。ここはあのときじゃない。そう自分に言い聞かせながら息を吸って、吐く。
「うれしかったから。事情はよくわかんないけど、俺は今、俺が見てる先輩を支持するだけって、あれ」
 そこでふうっと息をもう一度吸う。さっき点けたテレビから能天気なCMソングが流れてくる。完全なる無音ではないことに助けられながらも俺は迷う。
「俺、あの……」
「言いたくないことは言わなくてもいいんだよ。先輩」
 すっと言葉が差し挟まれ顔を上げると、目を伏せて残った米粒をスプーンで寄せている木杉が目に入った。
「めちゃくちゃしんどいことだったんじゃないの? 思い出すと息が苦しくなっちゃうくらいの。そんなの、無理して思い出してほしくはないです」
「それは……うん、だけど」
 俺は聞きたいんだ。
 お前の話を。お前がどんな人間なのか、なにを考えているのか。
 お前がどんなつもりで俺に、次落とす人、なんて言ったのか。
 でもそれは……自分勝手な押し付けだ。自分はカーテンの陰に隠れているくせに、相手のことばかり知りたいなんて言うのは虫が良すぎる。
 それに、思ってしまったのだ。
 こいつなら、大丈夫じゃないのか、って。
 俺の全部を伝えたとしても、こいつはわかってくれるんじゃないか、って。
「ちょっと重いけど、話しても、いい?」
 問いかけると、木杉は眉をきゅっと寄せてから、こくん、と頷いた。
「先輩が大丈夫なら」
 返ってきた言葉はやはりこちらを案じるもので、じわっと胸が温かくなった。
「俺、好きな人がいた。中学のとき」
 言葉に背中を押され、声を押し出すと、木杉がつっと目を上げた。感情の見えない目がこちらをじっと見据える。なにも言葉は返されなかったけれど、俺は続けた。
「男の人だった。水野先生っていって、俺より十五は年上だったから三十歳越えてた。お前のさ、クラス担任の根岸先生っているじゃん。あんな感じの雰囲気の人で。線が細くて、優しそうで。うまく友達と付き合えない俺の話をいつも聞いてくれて。もの作るの好きなら菊工がいいんじゃないかって最初に言ってくれたのも水野先生だった」
 木杉はやはりなにも言わない。ただ手はもう止まっていて、スプーンの柄を指先でなぞりながら睫毛を下ろして俺の話に耳を傾けている。
「俺、恋、とか、あんまりしたことなかったけど、初めて本当に好きだって思えて。卒業少し前に告白した」
「それで……? 先生はなんて?」
 木杉がそっと声を返してくる。視線はやはりスプーンに落とされたままだった。
「ありがとう、気持ちはうれしいけれど、応えられない、ごめんって」
「そ、か」
 声に陰鬱な色を感じ、俺はひらひらと手を振る。
「いや、あの、わかってたから。そう言われるの。でもちゃんと伝えておきたかったから告白したんだ。自分がなにをしたいのかとかそういうのわからなくて悩んでたとき、道を示してくれた人だから。だから断られたのは別によくて。ただ、それ……見てたやつがいて」
「もしかしてさっきの人達の中にそいつ、いたりする?」
 やはりこいつは勘がいい。こくり、と頷くと、再び木杉は黙った。沈黙に促されるようにして俺はもう一度深呼吸をする。
「コンビニにいたやつのひとりにさ、俺、一度告白されてて」
「そうなの?」
 ぎょっとしたように顔が上げられる。そうされて少しだけ笑顔が作れた。
「うん、俺が先生に告白する少し前に呼び出されて。付き合ってって言われて。でも、俺、断ったんだ。中村のことは、あ、その……告白してくれた相手ね、クラス一緒で、よく話しかけてくれてもいて、だから、嫌いではなかったけど、そういう意味で好きじゃなかったから。それを伝えたんだけど、その中村にね、見られて。で……」
 で、と言ったところで再びくらくらしてきた。きゅっとテーブルの下で拳を一度握る。先輩、と俺を呼ぶ声が聞こえた。それに力なく笑ってから、俺はグラスに注がれていた麦茶をぐいと飲み干す。
「噂、されるようになった。男好きとか、いろいろ。そういうのよくないって言って庇ってくれる人もいたけど、『多様性だろ。よせよ』とか言われると、それはそれできつくて……」
 男がいて、女がいて。普通に付き合って。それが普通で。でも、そうじゃない人もいて。それをみんなで認め合っていこうよ、みたいな今の社会は、一昔前よりずっと開かれているなんて記事を読んだことがある。確かにそうだと思う。でも多分、本当の意味でお互いを隔てるラインは消えていない。認め合う。そう意識しなければ過ごせないというのはやっぱりまだ自然じゃない。
 俺はただ、あの人が好きだっただけ。男が、とか、女が、とか、そういうのは関係なかった。けれど、そんなことを言ったところで誰も理解なんてしてくれない。
「先生に迷惑かけるの嫌だったから、先生とも距離置くようにして、そのまま卒業式になって。で……」
 あの日。
 卒業式の後半、答辞を読み終わった俺にその声は浴びせられた。
 ――上原くーん、高校でも頑張ってくださーい、菊工、上原くんにぴったりだと思いまーす。いろいろと。
「それ……」
 すっと木杉が眉を寄せる。その表情で木杉にも伝わったのだとわかった。
「あの後のことはあんまり覚えてない。救いだったのは、菊工進んだのが俺だけだったってことかな」
 テレビからは夕方の情報番組が流れてくる。地元名産の魚介たっぷりの海鮮丼に舌鼓を打つタレントの甲高い声が響く。その声が震えそうになる俺の声を覆い隠す。
「別に男が多いからとか、そういう理由で選んではいない。それは本当。でも、女子が少ないのは気持ち的に楽ではあったかも。女子がいて男子がいて。そういう場所だと、自分が異常なのかなって考えることもやっぱりないわけじゃなかったから。まあ、その意味では、中村の言うことも間違いじゃ」
「いや、間違いだらけでしょうが」
 激しい声が正面から来る。目を上げると、木杉が仏頂面でこちらを睨みつけていた。
「先輩、だめ。そういうの」
「だめ、って?」
「俺も悪かったかもとか、一理あるとか。認めたらだめ。どんな理由があるにせよ、嫌がらせしていい理由になんてならないでしょうが。実際、めちゃくちゃ苦しそうじゃん。先輩。そんな状態にさせた相手をかばったら絶対だめです」
 ってか、となんだか興奮したらしい木杉がとん、とテーブルを叩く。
「その話、もっと早く聞いてたらよかった。一発くらい殴ってやったのに」
「いや、殴るのはだめだろ。それこそ暴力ふるっていい理由なんてない」
「ないけど。それでもやられっぱなしは腹立つから。でも」
 そこまで言ったところでふっと木杉がテーブルの上に身を乗り出す。
 大きな手が髪をゆっくりと撫でるのがわかった。
「き、すぎ、あの」
「話してくれて、うれしい」
 静かな声で木杉が言う。激昂していたときとはまた違う、でも芯に熱のある声によって心の内にさわっとさざ波が立つ。
 ここのところずっとこんなふうだ。こいつになにか言われるたび、触れられるたび、どうしようもなくふわふわしてじっとしていられなく、なる。
 こんなのは……あのとき以来じゃないだろうか。
「先輩」
 ――上原さん。
 柔らかく呼んでくれたのは”あの人”だ。中学時代、俺の人生を共に考えてくれようとした人。俺が初めてすごく、すごく、触れたいと思った人。水野、先生。
 その特別だった先生に呼ばれたときと同じ疼きが胸を駆け上がる。
「しんどいのに、話してくれて、ありがと」
 俺の髪を撫で続ける木杉の手。心からの、ありがと。
 それらが胸にすうっと沁み込んでいく。干上がっていた鉢植えに水をやったときみたいにかすかな音を放ちながら声が俺の心に落ちていく。
 異次元のイケメンで。意味不明な言動も多くて。人からの好意を平気で踏みにじる非情さもあって。
 苦手だ、と思っていた。なんでこんなやつと組むことになっちゃったんだ、と自分の運の悪さを呪ってもいた。
 でも、この瞬間、気付いてしまった。
「先輩?」
 イベント会場で苦しくて蹲りそうになった俺の手を躊躇わず掴んでくれて。コンビニで追い詰められて、固まってしまった俺の前にすっと立ちふさがってくれて。
 今の先輩を支持すると言ってくれた。
 そんな木杉を、俺は。
 俺は。
「木杉、あの」
 声を漏らしたとき、あ、と小さく木杉が呟いた。すっと視線が俺から逸れ、点けっぱなしにしていたテレビ画面に向く。
「先輩が教えてくれたから俺も言うね」
 画面上では七時のニュースを読み上げるアナウンサーがいる。四十そこそこだろうか。すっと鼻筋が通った男性だ。我が家ではBGM代わりにこの人のニュースを聞くことも多い。
 その人を指さして、木杉が言った。
「あの人、俺の父親」
「え……」
 間の抜けた声が漏れた。ふふ、と木杉が笑う。促されるまま俺は画面を見る。今日の株価について明晰な口調で説明を続ける男性のすぐ下に彼の名前が表示されていた。
 それは、木杉清吾(きすぎせいご)、と読めた。
「え、だってお前、夜の仕事って……」
「夜ニュース読む仕事、です」
 くすっと笑ってから、木杉は冷めた目でテレビを眺める。
「ってかごめん。先輩、俺のこと、いいやつって思ってくれてるみたいだけど……残念ながら俺、そんないいやつじゃない。俺は最低野郎。あの人と同じに」