◯薄氷家花蓮の部屋・数日後の朝
朝日が差し込む部屋の化粧台に向かい、花蓮は専属使用人と複数人の屋敷の使用人に精一杯のおめかしをしてもらっている。
花蓮モノ(今日は隊長様と街にお出かけすることになっているけれど……)
◯回想・薄氷家食堂・前日の夜
屋敷の使用人が作った豪華な和食の料理を、一朔と花蓮が向かい合っていただいている。会話は少ない。突如、一朔が花蓮に声をかける。
一朔「明日の予定なのだが」
花蓮「は、はい!」
花蓮の返事が裏返り、一朔がほんの少しだけ笑い声をこぼす。
一朔「街に出かけようと思っている。一緒に行かないか」
花蓮「え?」
一朔「無理に、とは言わないが」
花蓮「いえ、あの……お邪魔ではないのですか?」
花蓮の言葉に、一朔は眉をひそめる。
一朔「邪魔などではまったくもってない。では明日、よろしく頼む」
花蓮「よ、よろしくお願いします……」
◯薄氷家花蓮の部屋・現在に戻る
花蓮モノ(本当にお邪魔ではないのかしら……私なんかと一緒では、つまらないかも)
専属使用人が、花蓮の唇に明るい色の口紅を乗せる。花蓮はその明るさにびっくりしてしまう。
花蓮「そ、そんなに明るい色で、その……浮いてしまわないでしょうか」
専属使用人「いいえ。花蓮様はとても色が白くていらっしゃいますので、明るい色のほうがお似合いですよ。それに、今日はご主人様とお出かけなさるのですよね?」
頷く花蓮。すると、専属使用人は力強くニコッと笑う。
専属使用人「では、花蓮様の最高級に美しい姿をお見せしましょう!」
使用人が二人がかりで花蓮の夜色の髪を結う。編み込みハーフアップに、薄紫色のリボンをつける。似たような色合いの着物に帯の結び方は少し簡単で和洋折衷っぽい形。
専属使用人「やっぱり! 花蓮様は夜空のような美しい髪をお持ちですから、きっとこの色がお似合いになると思っていたのです! 専属になれたことで、こうして女性を美しく着飾ることができるのは、やりがいを感じますね」
花蓮「ありがとうございます……でも、私なんかがおめかしして、変ではないでしょうか?」
専属使用人「変なわけがありますか! とっても美しいですよ。ほら、口角を少し上げて。それだけで、花蓮様の魅力は十分に伝わりますから」
専属使用人は花蓮のえくぼのあたりを人差し指でちょんと触る。花蓮はぎこちなく笑う。おそるおそる一朔の元へ。
◯薄氷家玄関ホール
一朔がすでに玄関ホールで待っていた。白シャツに黒のスラックス、濃紺のジャケットには金ボタンが光っている。ネクタイは銀灰色で彼の髪色とマッチしている。一朔は花蓮の姿を見ると、少し微笑んだ。
花蓮「あのぅ……お待たせいたしました」
一朔「ああ、いや、待ってない。似合っているな」
さらりと言われた褒め言葉に、花蓮は一瞬固まり、意味を咀嚼してから赤面してしまう。
花蓮「あ、ああ、ありがとうございます……」
一朔「では行こう」
あくまで淡々と花蓮をエスコートする一朔。玄関の外の車に乗せられる。
◯新式庭園(デート先)・昼
目的地に到着し、車が止まる。
一朔「降りるぞ」
そこは、和洋折衷の新式庭園だった。受付を済ませ、入り口のアーチをくぐって中に入る。入ってすぐは大きな池があり、その周りを回遊する砂利道が用意されていた。落ち着いた雰囲気に歓声ともため息ともつかない声が漏れ出る。
花蓮「とても落ち着きますね」
一朔「ああ、そうだろう。——最近売れ始めた稀代の天才芸術家、霧島有恒が設計した庭園だ」
花蓮「霧島有恒……聞いたことがあるような気がします」
花蓮はいつその名前を聞いたのかをなんとなく思い出そうとしたが、はっきりとは出てこない。
花蓮モノ(きっと、常盤家に関連があるのだわ。だって、庭園を造るには木々や花々が必要だもの)
二人は池の周りを歩き始める。鳥の鳴き声、風に揺れる水面、砂利を踏み締める音。そのどれもが絶妙に絡み合って、神聖な空間を生み出している。色づいた紅葉がはらりと落ちて、池に波紋が浮かび上がる。
花蓮「いい香り……」
一朔「清涼感のある香りだな」
花蓮「石菖と薄荷の香りだそうです」
花蓮が説明を指さして言う。目立たないところに達筆で書かれた説明は、回遊式の部分の計算された香りの流れや木の種類についてを簡単に書いていた。説明を覗き込んだ花蓮の髪に紅葉の葉が落ちて引っかかる。花蓮は気づいていない。
一朔「少し触れてもよいだろうか」
花蓮「えっ?」
花蓮モノ(触れるってどういう……もしかして、いや、もしかしなくてもこれはデートなのだから……)
一朔はあまり躊躇うことなく花蓮の髪に触れ、優しく紅葉を払った。
一朔「紅葉の葉がついていた。深い青紫の髪にはよく映えていたが、せっかく美しく結ってあるものだから……」
みるみるうちに花蓮の顔が赤くなっていく。
花蓮モノ(やだ、私ったら勘違いもはなはだしい)
花蓮「あ、ありがとうございます……」
花蓮が真っ赤になってしまったのを見て、一朔も己の無意識のうちの行動が恥ずかしいものだったと気づく。口もとを手で隠し、少し赤くなって言い訳する。
一朔「い、いや、すまない。つい触れてしまったが、嫌だったか」
花蓮「い、いいえ! 嫌だなんてことはまったく!」
二人はぎこちなく、そっぽを向いたまま回遊路を進み、東屋にたどり着いた。黒檀の柱で造られた落ち着いた雰囲気の東屋は、清涼感のあるそれまでの香りと、ほのかに甘い香り、ウッディでフローラルな香りが混ざっている。二人で並んでベンチに腰かける。
花蓮「きっと、香りの流れが細かく計算されているのですね。これまでとはまた違った深みのある香りもするような」
一朔「お前はよく気がつくのだな」
花蓮モノ(私、はしゃいでしゃべりすぎてしまったかしら?)
花蓮「も、申し訳ございません! 余計なことを……」
一朔は花蓮の言葉に眉をひそめ、細く息を吐く。
一朔「謝る必要はない。余計なことではないだろう。私はお前の観察力に感嘆しただけだ」
花蓮「恐縮でございます」
一朔は困ったように笑う。
一朔「そうやってすぐに固くなってしまう。婚約者どうしなのだ。もう少し緩くてもよいだろう」
花蓮はどうすればいいかわからず、俯いてしまう。
花蓮「隊長様は雲の上のようなお方なので、どうにも……」
一朔「そうか。まあ、じっくり慣れていけばいい。だが——」
一朔は少し躊躇うように目線を逸らし、間を置く。他に誰もいない東屋に沈黙が訪れる。
一朔「婚約するのに、隊長様と呼ぶのは、なんというか距離がありすぎやしないか」
花蓮は一朔の言葉を咀嚼するのに数秒かかってしまった。
花蓮「ええと……」
一朔「一朔と呼んでほしい。もちろん、無理強いはしないが」
一朔は花蓮をまっすぐに見つめて、柔らかく言う。表情も優しく、鋭く剣呑な瞳は鳴りをひそめ、薄い唇は微かに弧を描いている。
花蓮「い、一朔、さま……」
覚悟を決めて名前を呼ぶ花蓮。呼んでからまた、かあっと顔が赤くなって俯く。
一朔「それも少しずつ慣れていけばいいのだ。だから、そう俯くな。上を見上げてみろ」
花蓮が不思議に思って言われた通り上を向くと、天井には豪華な日本画が。青白く輝く龍と満月が夜空とコントラストを成し、日本画らしく余白がモチーフの主張を強めている。
花蓮「これは……とても美しいですね」
花蓮は感嘆のため息をつく。
一朔「そうだな。有恒は造園だけでなく、香道、日本画、書道にも精通している多才な芸術家だそうだ。この天井画も彼が描いたのだろう」
それから、二人は東屋を出て先ほどとは反対側に進んだ。柱を通り抜けると途端に視界が広がり、今度は一気に洋風庭園の様相。幾何学的に計算され尽くしたシンメトリーのバラ園が目の前に広がっている。真ん中には噴水があり、奥に向かって色が濃くなっていくようだ。
花蓮「わあ……!」
一朔「先ほどとは打って変わって派手だな、色も香りも」
晴れ渡る空に視界いっぱいに主張する味わい深い彩りのバラたち。花蓮は徐々に緊張も解けて、しっかり堪能したのだった。
◯貴族向け商店街・昼
新式庭園から車で移動し、近くの貴族向け商店街を歩く。商店街には一朔の顔を知っている人も多いのだろうか、行き交う女性がうっとりと一朔を眺め、花蓮をキッと睨めつける。
花蓮モノ(やっぱり私では不釣り合いなのだわ。隊長……一朔様はもっと才色兼備な方と婚約するべき……)
だが、一朔は周りの視線などまったく気に留めないで歩き続ける。花蓮は置いていかれまいとついていく。突如、一朔が止まったのは、「妖具専門店」と書かれた店の前だった。
一朔「新しい妖石を買おうと思ってだな」
花蓮「妖石とは——この石と同じものですか?」
先日一朔から渡された、首にかけている透き通った石を取り出す。
一朔「ああ、そうだ。たくさんあるに越したことはないからな。今日いくつか買うから、またひとつ持っておけ」
花蓮「ありがとうございます」
一朔は店主と顔見知りのようで、店主はすぐに質の良い妖石を複数出してきた。用が済んで、店を出る。商店街をさらに進んでいく。
花蓮モノ(まだ買うものがあるのかしら)
一朔「——何かほしいものはないか」
花蓮は一朔の質問に驚いて、すぐにここ数日の生活を思い返す。何か必要なものはあっただろうかと。
花蓮「ええと、必要なものは用意していただきましたし……これといってございません」
一朔「いや、そういう意味ではなくてだな……。まあ、いい。もし何かあったら遠慮せず言ってほしい」
花蓮「そんな、私のことでお手を煩わせるわけには……」
一朔「煩わすだなんて、そんなことを思うわけがないだろう。——いや、あの家にいたのなら、そう思うのも仕方あるまい。ゆっくり欲しいものを探せばいい」
花蓮モノ(ああ、一朔様はどうしてこんなにもお優しいのでしょうか……)
商店街の反対側の出口に待つ車に乗り込み、二人は帰路につく。
◯常盤家居間・ちょうどデートのころ・芙蓉視点
芙蓉はイライラしながら、常盤家分家の長男である、園田柊一に当たる。柊一は顔も妖術も平凡だが、堅実で真面目だ。質素倹約という四文字が似合うその男は、芙蓉とは根本的に価値観が合わない。
芙蓉「何よこれ! わたくしにこんな地味な布切れが似合うと思って? もっと高価で美しいものが欲しいと言っているじゃない!」
柊一「そんなに贅沢はできないよ。もっと必要なところにお金を回さないと」
芙蓉「はあ? わたくしにそれなりの身なりをさせるのだってあなたの役目じゃない! それが必要ないと言うの?」
芙蓉は二人の間のテーブルに手をついて立ち上がり、柊一が買ってきた地味な和服を乱暴に床にはたき落とす。
柊一「もったいないだろう! ものは大切にしないと、名家の令嬢なんだから」
芙蓉「分家の出のくせに、わたくしに楯突くつもりかしら? 立場をわきまえなさい?」
柊一は呆れた顔でため息をつく。その様子に芙蓉は般若のように顔を歪めて怒る。
芙蓉モノ(こんなことになるなんて……全部あの忌み子のせいよ! わたくしは薄氷様のようなお方と結ばれるべきなのに、こんな芋くさい男と結婚するなんてありえない!)
◯芙蓉回想・常盤家居間・花蓮と一朔の婚約決定の数日後
当主(芙蓉の父)「芙蓉、お前に常盤家の今後について話しておかねばならん」
芙蓉「……」
芙蓉モノ(あの忌み子が薄氷様に嫁いで行ってしまった以上、この家を継ぐのはきっとわたくし。ああ、素敵な旦那様と結ばれることはもうないのだわ)
当主は腕を組み、真剣な顔をして話し始める。
当主「緑の妖術を操る歴史ある常盤家を継ぐのは——分家の長男、園田柊一とする。芙蓉、柊一を常盤家の養子にするために、お前は彼と結婚するのだ」
芙蓉「な、なんですって!? お父様、それは本気でおっしゃっていらして?」
当主「やはり当主の座を継ぐのは男だった方が都合がいいのだ。芙蓉、お前は確かに器量よし、頭脳も妖術も申し分ない。だが、やはり女に生まれたということ、それだけで当主候補からは外れてしまうのだよ」
芙蓉「そんな……! でも、ただ柊一さんを養子として迎え入れるだけでもいいではないですか! わたくしが他家の方と婚約すれば、関係だって築けます」
当主「当主の命令に逆らう気か!」
突然大声を出した父に、芙蓉は不服そうながらも従わざるを得なかった。
◯回想終了・現在に戻る・常盤家居間
芙蓉モノ(婚約が決まってからというもの、柊一さんとは何度かこうしてお会いしているけれど、この方、まったく気が利かないのよ。贅沢は禁止するわ、センスの悪いプレゼントをしてくるわ、本当に信じられない)
芙蓉「本当に信じられないわ! 薄氷様だったらこんなつまらない着物なんて買ってこないでしょうに」
柊一「薄氷様は関係ないだろう」
芙蓉「いいえ! あの忌み子が薄氷様と婚約したのよ、わたくしはあの忌み子よりも上なの。上でなくてはならないの! 関係なくないわ!」
柊一はこめかみに青筋を立て、怒鳴りかけるが、怒りを無理やり飲み込む。
柊一「君は本当にわがままだな。当主夫人として支えてもらおうと思ったが、もうその必要もない。贅沢したいのならば、君のお父上から直接出してもらえ。僕はもう君と関わる気はない」
静かに発されたその言葉は、何よりも彼の怒りを感じさせるものだった。芙蓉は流石に焦り始めるが、それでも自らの過ちを認めることはしない。
芙蓉「……ひどい! そんなことを言うだなんて、お父様に言いつけてあげるわ!」
芙蓉モノ(こんな質素な男、わたくしとは不釣り合いだもの。別にいいわ、わたくしはいずれ薄氷様と婚約するのだから。ふふふ、待っていなさい、忌み子のお姉様?)
芙蓉は底意地の悪い笑みを浮かべ、花蓮を蹴落とす策を考え始める。
朝日が差し込む部屋の化粧台に向かい、花蓮は専属使用人と複数人の屋敷の使用人に精一杯のおめかしをしてもらっている。
花蓮モノ(今日は隊長様と街にお出かけすることになっているけれど……)
◯回想・薄氷家食堂・前日の夜
屋敷の使用人が作った豪華な和食の料理を、一朔と花蓮が向かい合っていただいている。会話は少ない。突如、一朔が花蓮に声をかける。
一朔「明日の予定なのだが」
花蓮「は、はい!」
花蓮の返事が裏返り、一朔がほんの少しだけ笑い声をこぼす。
一朔「街に出かけようと思っている。一緒に行かないか」
花蓮「え?」
一朔「無理に、とは言わないが」
花蓮「いえ、あの……お邪魔ではないのですか?」
花蓮の言葉に、一朔は眉をひそめる。
一朔「邪魔などではまったくもってない。では明日、よろしく頼む」
花蓮「よ、よろしくお願いします……」
◯薄氷家花蓮の部屋・現在に戻る
花蓮モノ(本当にお邪魔ではないのかしら……私なんかと一緒では、つまらないかも)
専属使用人が、花蓮の唇に明るい色の口紅を乗せる。花蓮はその明るさにびっくりしてしまう。
花蓮「そ、そんなに明るい色で、その……浮いてしまわないでしょうか」
専属使用人「いいえ。花蓮様はとても色が白くていらっしゃいますので、明るい色のほうがお似合いですよ。それに、今日はご主人様とお出かけなさるのですよね?」
頷く花蓮。すると、専属使用人は力強くニコッと笑う。
専属使用人「では、花蓮様の最高級に美しい姿をお見せしましょう!」
使用人が二人がかりで花蓮の夜色の髪を結う。編み込みハーフアップに、薄紫色のリボンをつける。似たような色合いの着物に帯の結び方は少し簡単で和洋折衷っぽい形。
専属使用人「やっぱり! 花蓮様は夜空のような美しい髪をお持ちですから、きっとこの色がお似合いになると思っていたのです! 専属になれたことで、こうして女性を美しく着飾ることができるのは、やりがいを感じますね」
花蓮「ありがとうございます……でも、私なんかがおめかしして、変ではないでしょうか?」
専属使用人「変なわけがありますか! とっても美しいですよ。ほら、口角を少し上げて。それだけで、花蓮様の魅力は十分に伝わりますから」
専属使用人は花蓮のえくぼのあたりを人差し指でちょんと触る。花蓮はぎこちなく笑う。おそるおそる一朔の元へ。
◯薄氷家玄関ホール
一朔がすでに玄関ホールで待っていた。白シャツに黒のスラックス、濃紺のジャケットには金ボタンが光っている。ネクタイは銀灰色で彼の髪色とマッチしている。一朔は花蓮の姿を見ると、少し微笑んだ。
花蓮「あのぅ……お待たせいたしました」
一朔「ああ、いや、待ってない。似合っているな」
さらりと言われた褒め言葉に、花蓮は一瞬固まり、意味を咀嚼してから赤面してしまう。
花蓮「あ、ああ、ありがとうございます……」
一朔「では行こう」
あくまで淡々と花蓮をエスコートする一朔。玄関の外の車に乗せられる。
◯新式庭園(デート先)・昼
目的地に到着し、車が止まる。
一朔「降りるぞ」
そこは、和洋折衷の新式庭園だった。受付を済ませ、入り口のアーチをくぐって中に入る。入ってすぐは大きな池があり、その周りを回遊する砂利道が用意されていた。落ち着いた雰囲気に歓声ともため息ともつかない声が漏れ出る。
花蓮「とても落ち着きますね」
一朔「ああ、そうだろう。——最近売れ始めた稀代の天才芸術家、霧島有恒が設計した庭園だ」
花蓮「霧島有恒……聞いたことがあるような気がします」
花蓮はいつその名前を聞いたのかをなんとなく思い出そうとしたが、はっきりとは出てこない。
花蓮モノ(きっと、常盤家に関連があるのだわ。だって、庭園を造るには木々や花々が必要だもの)
二人は池の周りを歩き始める。鳥の鳴き声、風に揺れる水面、砂利を踏み締める音。そのどれもが絶妙に絡み合って、神聖な空間を生み出している。色づいた紅葉がはらりと落ちて、池に波紋が浮かび上がる。
花蓮「いい香り……」
一朔「清涼感のある香りだな」
花蓮「石菖と薄荷の香りだそうです」
花蓮が説明を指さして言う。目立たないところに達筆で書かれた説明は、回遊式の部分の計算された香りの流れや木の種類についてを簡単に書いていた。説明を覗き込んだ花蓮の髪に紅葉の葉が落ちて引っかかる。花蓮は気づいていない。
一朔「少し触れてもよいだろうか」
花蓮「えっ?」
花蓮モノ(触れるってどういう……もしかして、いや、もしかしなくてもこれはデートなのだから……)
一朔はあまり躊躇うことなく花蓮の髪に触れ、優しく紅葉を払った。
一朔「紅葉の葉がついていた。深い青紫の髪にはよく映えていたが、せっかく美しく結ってあるものだから……」
みるみるうちに花蓮の顔が赤くなっていく。
花蓮モノ(やだ、私ったら勘違いもはなはだしい)
花蓮「あ、ありがとうございます……」
花蓮が真っ赤になってしまったのを見て、一朔も己の無意識のうちの行動が恥ずかしいものだったと気づく。口もとを手で隠し、少し赤くなって言い訳する。
一朔「い、いや、すまない。つい触れてしまったが、嫌だったか」
花蓮「い、いいえ! 嫌だなんてことはまったく!」
二人はぎこちなく、そっぽを向いたまま回遊路を進み、東屋にたどり着いた。黒檀の柱で造られた落ち着いた雰囲気の東屋は、清涼感のあるそれまでの香りと、ほのかに甘い香り、ウッディでフローラルな香りが混ざっている。二人で並んでベンチに腰かける。
花蓮「きっと、香りの流れが細かく計算されているのですね。これまでとはまた違った深みのある香りもするような」
一朔「お前はよく気がつくのだな」
花蓮モノ(私、はしゃいでしゃべりすぎてしまったかしら?)
花蓮「も、申し訳ございません! 余計なことを……」
一朔は花蓮の言葉に眉をひそめ、細く息を吐く。
一朔「謝る必要はない。余計なことではないだろう。私はお前の観察力に感嘆しただけだ」
花蓮「恐縮でございます」
一朔は困ったように笑う。
一朔「そうやってすぐに固くなってしまう。婚約者どうしなのだ。もう少し緩くてもよいだろう」
花蓮はどうすればいいかわからず、俯いてしまう。
花蓮「隊長様は雲の上のようなお方なので、どうにも……」
一朔「そうか。まあ、じっくり慣れていけばいい。だが——」
一朔は少し躊躇うように目線を逸らし、間を置く。他に誰もいない東屋に沈黙が訪れる。
一朔「婚約するのに、隊長様と呼ぶのは、なんというか距離がありすぎやしないか」
花蓮は一朔の言葉を咀嚼するのに数秒かかってしまった。
花蓮「ええと……」
一朔「一朔と呼んでほしい。もちろん、無理強いはしないが」
一朔は花蓮をまっすぐに見つめて、柔らかく言う。表情も優しく、鋭く剣呑な瞳は鳴りをひそめ、薄い唇は微かに弧を描いている。
花蓮「い、一朔、さま……」
覚悟を決めて名前を呼ぶ花蓮。呼んでからまた、かあっと顔が赤くなって俯く。
一朔「それも少しずつ慣れていけばいいのだ。だから、そう俯くな。上を見上げてみろ」
花蓮が不思議に思って言われた通り上を向くと、天井には豪華な日本画が。青白く輝く龍と満月が夜空とコントラストを成し、日本画らしく余白がモチーフの主張を強めている。
花蓮「これは……とても美しいですね」
花蓮は感嘆のため息をつく。
一朔「そうだな。有恒は造園だけでなく、香道、日本画、書道にも精通している多才な芸術家だそうだ。この天井画も彼が描いたのだろう」
それから、二人は東屋を出て先ほどとは反対側に進んだ。柱を通り抜けると途端に視界が広がり、今度は一気に洋風庭園の様相。幾何学的に計算され尽くしたシンメトリーのバラ園が目の前に広がっている。真ん中には噴水があり、奥に向かって色が濃くなっていくようだ。
花蓮「わあ……!」
一朔「先ほどとは打って変わって派手だな、色も香りも」
晴れ渡る空に視界いっぱいに主張する味わい深い彩りのバラたち。花蓮は徐々に緊張も解けて、しっかり堪能したのだった。
◯貴族向け商店街・昼
新式庭園から車で移動し、近くの貴族向け商店街を歩く。商店街には一朔の顔を知っている人も多いのだろうか、行き交う女性がうっとりと一朔を眺め、花蓮をキッと睨めつける。
花蓮モノ(やっぱり私では不釣り合いなのだわ。隊長……一朔様はもっと才色兼備な方と婚約するべき……)
だが、一朔は周りの視線などまったく気に留めないで歩き続ける。花蓮は置いていかれまいとついていく。突如、一朔が止まったのは、「妖具専門店」と書かれた店の前だった。
一朔「新しい妖石を買おうと思ってだな」
花蓮「妖石とは——この石と同じものですか?」
先日一朔から渡された、首にかけている透き通った石を取り出す。
一朔「ああ、そうだ。たくさんあるに越したことはないからな。今日いくつか買うから、またひとつ持っておけ」
花蓮「ありがとうございます」
一朔は店主と顔見知りのようで、店主はすぐに質の良い妖石を複数出してきた。用が済んで、店を出る。商店街をさらに進んでいく。
花蓮モノ(まだ買うものがあるのかしら)
一朔「——何かほしいものはないか」
花蓮は一朔の質問に驚いて、すぐにここ数日の生活を思い返す。何か必要なものはあっただろうかと。
花蓮「ええと、必要なものは用意していただきましたし……これといってございません」
一朔「いや、そういう意味ではなくてだな……。まあ、いい。もし何かあったら遠慮せず言ってほしい」
花蓮「そんな、私のことでお手を煩わせるわけには……」
一朔「煩わすだなんて、そんなことを思うわけがないだろう。——いや、あの家にいたのなら、そう思うのも仕方あるまい。ゆっくり欲しいものを探せばいい」
花蓮モノ(ああ、一朔様はどうしてこんなにもお優しいのでしょうか……)
商店街の反対側の出口に待つ車に乗り込み、二人は帰路につく。
◯常盤家居間・ちょうどデートのころ・芙蓉視点
芙蓉はイライラしながら、常盤家分家の長男である、園田柊一に当たる。柊一は顔も妖術も平凡だが、堅実で真面目だ。質素倹約という四文字が似合うその男は、芙蓉とは根本的に価値観が合わない。
芙蓉「何よこれ! わたくしにこんな地味な布切れが似合うと思って? もっと高価で美しいものが欲しいと言っているじゃない!」
柊一「そんなに贅沢はできないよ。もっと必要なところにお金を回さないと」
芙蓉「はあ? わたくしにそれなりの身なりをさせるのだってあなたの役目じゃない! それが必要ないと言うの?」
芙蓉は二人の間のテーブルに手をついて立ち上がり、柊一が買ってきた地味な和服を乱暴に床にはたき落とす。
柊一「もったいないだろう! ものは大切にしないと、名家の令嬢なんだから」
芙蓉「分家の出のくせに、わたくしに楯突くつもりかしら? 立場をわきまえなさい?」
柊一は呆れた顔でため息をつく。その様子に芙蓉は般若のように顔を歪めて怒る。
芙蓉モノ(こんなことになるなんて……全部あの忌み子のせいよ! わたくしは薄氷様のようなお方と結ばれるべきなのに、こんな芋くさい男と結婚するなんてありえない!)
◯芙蓉回想・常盤家居間・花蓮と一朔の婚約決定の数日後
当主(芙蓉の父)「芙蓉、お前に常盤家の今後について話しておかねばならん」
芙蓉「……」
芙蓉モノ(あの忌み子が薄氷様に嫁いで行ってしまった以上、この家を継ぐのはきっとわたくし。ああ、素敵な旦那様と結ばれることはもうないのだわ)
当主は腕を組み、真剣な顔をして話し始める。
当主「緑の妖術を操る歴史ある常盤家を継ぐのは——分家の長男、園田柊一とする。芙蓉、柊一を常盤家の養子にするために、お前は彼と結婚するのだ」
芙蓉「な、なんですって!? お父様、それは本気でおっしゃっていらして?」
当主「やはり当主の座を継ぐのは男だった方が都合がいいのだ。芙蓉、お前は確かに器量よし、頭脳も妖術も申し分ない。だが、やはり女に生まれたということ、それだけで当主候補からは外れてしまうのだよ」
芙蓉「そんな……! でも、ただ柊一さんを養子として迎え入れるだけでもいいではないですか! わたくしが他家の方と婚約すれば、関係だって築けます」
当主「当主の命令に逆らう気か!」
突然大声を出した父に、芙蓉は不服そうながらも従わざるを得なかった。
◯回想終了・現在に戻る・常盤家居間
芙蓉モノ(婚約が決まってからというもの、柊一さんとは何度かこうしてお会いしているけれど、この方、まったく気が利かないのよ。贅沢は禁止するわ、センスの悪いプレゼントをしてくるわ、本当に信じられない)
芙蓉「本当に信じられないわ! 薄氷様だったらこんなつまらない着物なんて買ってこないでしょうに」
柊一「薄氷様は関係ないだろう」
芙蓉「いいえ! あの忌み子が薄氷様と婚約したのよ、わたくしはあの忌み子よりも上なの。上でなくてはならないの! 関係なくないわ!」
柊一はこめかみに青筋を立て、怒鳴りかけるが、怒りを無理やり飲み込む。
柊一「君は本当にわがままだな。当主夫人として支えてもらおうと思ったが、もうその必要もない。贅沢したいのならば、君のお父上から直接出してもらえ。僕はもう君と関わる気はない」
静かに発されたその言葉は、何よりも彼の怒りを感じさせるものだった。芙蓉は流石に焦り始めるが、それでも自らの過ちを認めることはしない。
芙蓉「……ひどい! そんなことを言うだなんて、お父様に言いつけてあげるわ!」
芙蓉モノ(こんな質素な男、わたくしとは不釣り合いだもの。別にいいわ、わたくしはいずれ薄氷様と婚約するのだから。ふふふ、待っていなさい、忌み子のお姉様?)
芙蓉は底意地の悪い笑みを浮かべ、花蓮を蹴落とす策を考え始める。



