次の日は雨が降っている日だった。
 朝から雨が降り続いていて、傘がないと歩けないような降り方。空は黒い雲に覆われていて、太陽は一切顔を出していない。

「これは今日、さぶは来ないな」
「にゃぁ〜」
「え!?」

 突然さぶの声が聞こえて視線を下に向けると、さぶがほとんど濡れていないまま、いつものようにこちらを見ている。ちゃんと昨日着せて上げた服も帽子もそのままである。

「なんで濡れてないの!? 軒下(のきした)を通って来たの!?」
「にゃ」
「そうなの!?」
「……」
「いや、どっち!?」

 しかし、どう考えても軒下を通ってきたとしてしか考えられない。つまり、さぶはこの大学内にいるってこと?
 しかも、ちゃんと忘れずに今日のメモ用紙を首から下げている。えっと、今日のメモは……

『私のおやつはどこですか? ヒント:大学の一階で休憩できる場所』

 そのメモを見た私の一言目は、決まっていた。

「さぶ! 貴方、夕飯の前におやつも食べるの!?」
「にぁあ……」
「ちょっと『いやぁ、それほどでも』感出して鳴かないで!?」
「にゃあ!」
「自信満々なら良いってもんじゃないでしょ! 食べ過ぎじゃない!?」
「……」
「無視するなー!!!」

 私はそんなことを言いながらも、私は「おやつの量にもよるな」と思ってとりあえず指定された場所に向かうことにした。さぶはいつも通り私が部室を出ても気にもせず、雨が降っているのに窓の前の軒下で丸まっていた。大学の一階で休憩出来る場所を言い換えれば、きっと西側にある休憩スペースのことだろう。にしても、毎回ヒントがほぼ答えなのも気になる。メモ帳の問題の内容は関係ないのだろうか。ということは、必要なのは答えだけ? うーん、意味が分からない。
 そんなことを考えながら休憩スペースに足を進める。休憩スペースには一人の女子生徒がいた。

「え、何でここに葉乃(はの)がいるの!?」

 私の声に女子生徒が振り返る。

「美花こそ変わった場所で会うね。私は家族からメッセージが来てたから、ここで返してただけ」

 葉乃は私がいつも大学で一緒に過ごしている友達で、学部も一緒なので取っている授業もほぼ一緒。今日も放課後まで基本的に葉乃とずっと一緒にいた。

「そうなんだ」
「で、美花は何でここに?」

 その質問に、私は葉乃の横に座って今の状況を説明し始める。葉乃は適度に頷きながら、静かに最後まで話を聞いてくれた。

「美花も変な出来事に巻き込まれてるね。もっと早く教えてくれても良いのにー」
「だって、こんなの説明しづらいじゃん。ていうか、ここに猫のおやつ置いてなかった!?」
「あー、これのこと? さっきこの椅子の上に置いてあったよ」

 葉乃が私に渡した猫のおやつは「最高級!」と大きく書かれていた。金色のパッケージに少しラメまで入っている。あまりに高級感のあるおやつだった。

「さぶってば、こんなに豪勢(ごうせい)なおやつをいつも食べているの!?」

 私の大きな声のツッコミを聞いて、葉乃が引っかかったのは別の場所だった。

「その猫の名前『さぶ』っていうの?」
「あ、うん。『寒い』に反応したから……」
「ふはっ!」

 その言葉で葉乃が吹き出して笑い出し、お腹を抱えて笑い転げている。ケタケタと笑い続けて、若干呼吸まで乱れている。放課後の生徒があまり通らないこの場所では葉乃の笑い声が響き渡っていた。

「そんなに笑う!?」
「だって面白すぎて……!」
「だからって笑いすぎっ!」

 満足するまで笑い続けた葉乃は、笑いすぎて目に溜まった涙を拭いながら顔をあげる。笑いすぎで顔も赤く染まっている。

「とりあえず、その『さぶ』におやつをあげて来たら?」
「あげてくるけど……葉乃も来る?」
「私はこの後、家族とお出かけだから。さっきもその連絡を返していたの」
「え、ごめん。長話しちゃった」
「全然、今から行けば余裕で間に合うし。ていうか、今度また『さぶ』の話を聞かせてね」

 そう言いながら、葉乃は横に置いてあったバッグを肩にかけて席を立つ。

「美花、最近部室で一人で寂しそうだったから楽しそうで安心したわ。また琴も聴かせて」
「うん、ありがと!」

 葉乃を見送った後に、私はそのままおやつを手に部室に戻る。さぶはさっきと同じ軒下で丸まったままだった。

「中に入らなくても寒くないの?」
「にゃ!」
「名前を呼んだんじゃないよ!?」
「……にゃぁぁぁ」
「ちょっと寂しそうにしないで!?」

 窓を開けて先ほどのおやつのパッケージを見せた瞬間、ピクッとさぶがすごい勢いで立ち上がった。

「にゃ! にゃああ!」
「これってそんなに美味しいの!?」
「にゃああああ!」
「ごめんって。すぐにあげるから! でもちょっとだけだよ?」
「にゃああああ!」
「もう聞いてないでしょ!?」

 そんなことを言いながら、おやつを少しだけさぶにあげると凄い勢いでかぶりついた。

「ちょっと! ゆっくり食べて!」
「……」
「食べるのに集中しすぎて無視!?」
「……」
「おーい」
「……」
「にしても、さすが最高級だな」
「にゃ!」
「ここは返事するんかい!」

 おやつを食べ終えたさぶは次はコロっと寝転がって、思いっきりくつろいでいる。少し軒下から出れば、雨が降っているのに気にもしていないようだった。

「この猫、おっさんみたいだな……」
「にゃ!!!!!」
「ごめん! 意味わかったの!?」
「……にゃ?」
「分かってないんかい!」

 寝転がっているさぶのお腹を撫でれば、さぶは嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。その光景が可愛くて、ついまた話しかけてしまう。

「ねぇ、明日も来る?」
「……」
「来てよ。この部室、一人だと寂しいの。琴も一人で弾いていると、先輩たちがいた頃を思い出しちゃうし」
「……」
「琴大好きなのになぁ」
「にゃ」
「ん? 何?」

 急にさぶが立ち上がり、私の右横に置いてある琴を窓越しにペシペシと前足で指している。

「え、弾けって?」
「にゃ」
「聴きたいの?」
「にゃあ」
「ていうか、猫って大きな琴の音大丈夫なの? 小さめに弾くことは出来るけれど……」
「にゃ」
「いや、テキトーに鳴いているでしょ」
「にゃあ!」
「本当にテキトーなんかい!」

 しかし、どこかさぶに聞いて欲しい気持ちも芽生え始めていた。まずいつもより小さめに琴を弾いてみる。一回弾いて、さぶが嫌そうじゃないか確認すると全然苦痛そうには見えなかった。
 そのまま今の課題曲を演奏していく。さぶはまた丸まって、心地良さそうに目を(つぶ)っている。いつもより小さく弾いているのに、誰か聞いてくれる人がいることがあまりに嬉しくて……また喉の奥がキュッと苦しくなったのが分かった。
 ああ、きっとこれは嬉しく泣きそうなんだ。寂しくないと言えば嘘になるじゃない。素直に言えば、普通に寂しい。

「さぶ、ありがとうね」

 私がお礼を言うと、さぶがまた「にゃ」と鳴いた。琴を弾いていても、さぶの鳴き声はちゃんと聞こえて。

「窓枠を超えなくても、伝わるものは伝わるんだね」

 その事実が嬉しくて堪らなかった。