翌日、さぶはまた首に一枚のメモ用紙をネックレスのようにかけてやって来た。

『私の服はどこですか? ヒント:和楽器サークル顧問の研究室前』

 和楽器サークルということは私のサークル。顧問ということは、日本史の佐々木先生の研究室の前?
 佐々木先生は日本史担当の教授で和楽器サークル顧問。五十代の男性の先生だが、ノリが良い先生。私は日本史もとっているので、生徒からも人気があるのを知っている。私が「佐々木先生の研究室ってどこだったかな〜」と記憶を辿りながら、さぶの首元を撫でていると、さぶは嬉しそうに私の手に顔を(こす)り付けている。

「私は佐々木先生の研究室に行くけど、さぶはそこで待っている? 寒かったらこっそり部室の中に入っている?」
「にゃあ」
「あ、入るってこと?」

 良い返事が聞けて私はさぶが部室に入ると思ったら、くるっと体を丸めてその場で座り込んだ。

「入らんのかい!」

 相変わらず返事のタイミングが独特なさぶに笑ってしまう。

「じゃあ、一旦窓を閉めるよ」
「にゃ」

 小さく「にゃ」と鳴いたさぶは、窓を閉められないように窓枠に体を乗せ始める。

「え、外にはいるけど閉めるなってこと!?」
「……」
「返事はしないけど、そういうことでしょ!?」
「……」
「窓は閉めよ! 暖房ついてるよ!」
「……」
「返事せんかい!」

 しかし、さぶが窓枠から動いてくれないので私は仕方なく部室を飛び出して、佐々木先生の研究室まで足早に向かう。ここはもう窓を早く閉めるためにも、素早くさぶの服を回収してこよう。
 ていうか、本当に一体誰がこんなことをしているのだろう。自分でさぶにご飯もあげれば良いし、服も着せてあげれば良い。だって準備をしているのだから。
 そんな思考をまとめる暇もなく、佐々木先生の研究室に着いてしまう。ほぼ走って来たので、すぐに着くのは当たり前だけれど。佐々木先生の研究室の前には毛糸で出来た猫用の服と帽子が置かれている。白黒の服と帽子はセットになっていて、さぶに似合いそうである。研究室の中には人がいるから、誰かが外に出たらこの服に気づいて「なんだこれ?」ってなるはず。なっていないということは、つい先ほど置かれたものなのだろうか。

「ていうか、早く戻らないと! 窓が開いたままじゃん」

 私が部室に向かって(きびす)を返そうとした瞬間、研究室の扉が開いた。

「お、桜木(さくらぎ)じゃないか。研究室まで来て何かあったのか?」
「いや、何でもないです」
「え、ここまで来たのにか?」
「佐々木先生、いま部室の窓が開きっぱなしなんです! 暖房がついているのに! それにさぶも寒がってますよ!」
「桜木、お前……急に頭でもおかしくなったか?」
「状況は後で説明します! 5分後にまた来ます!」

 日本史のレポートの質問をよくしていたので佐々木先生とは仲が良いからこの会話でも大丈夫だが、普通だったら怒られているだろう。そんなことを考えながら、私は部室に走って戻っていく。
 私が部室に戻っても、さぶは窓枠の上でごろっと寝転がっているままだった。私はそんなさぶを抱き抱えて、先ほど手に入れた服と帽子を被せる。

「え、さぶ……! めっちゃ似合うじゃん!」
「……にゃ」

 少しだけの沈黙の後、さぶは満足そうな鳴き声を出した。まるで私の言葉を理解しているみたいな反応。
 実際理解しているのかなんて詳しくない私にはさっぱり分からないけれど、もうさぶが愛おしくなってきていた。

「じゃあ、私は一旦佐々木先生のところに戻って事情を説明してくるね」

 私がそう言った瞬間、今まで窓枠を超えなかったさぶが初めて窓枠を超えて私の膝の上に乗って丸まる。

「え、かわいっ」
「……」
「でも、私はそろそろ佐々木先生のところに行かないといけないんだけど……。また行くって言ってきたし」
「……にゃ〜」
「ここで鳴くのはずるいくらいに可愛いんだけどっ!」

 「ごめんなさい、佐々木先生! 少しばかり遅れます!」と佐々木先生にあまりに失礼なことを言い放ちそうになるが、グッと堪える。

「ごめんね、さぶ。また戻って来るから」

 そう言って私がさぶを膝の上から下ろすと、さぶは気にもせずにスタスタと外に出てまたどこかに行ってしまった。
 私は今度こそ窓を閉めてから部室を出て、佐々木先生の研究室にもう一度向かう。冷たい空気が(ただよ)っている廊下を歩きながら、私はもう一度思考を巡らせる。
 一体誰がさぶの首にメモ用紙をかけてこんな出来事を起こしているのかはサッパリ分からないままだけど……

「さぶと出会えたことは感謝しないとね」

 私の膝の上で丸まっていたさぶの姿を思い浮かべれば、自然に笑みが溢れてしまう。
 そんな温かい気持ちのまま、また冷たい風が吹いている廊下を歩いて行き、佐々木先生の研究室に向かう。ドアをノックすれば、すぐに佐々木先生が扉を開けた。

「お、桜木。戻ってきたか」
「佐々木先生、さっきは急いでいてすみませんでした……!」
「それは別に良いが、結局何があったんだ?」

 私は部室に猫が訪れたこと、その猫を「さぶ」と呼んでいること、猫がメモ用紙をつけていたこと、そのメモ用紙の指示が佐々木先生の研究室前だったことを伝えた。

「寒いに反応したから、さぶ……くっ」

 佐々木先生が声を殺しながら笑っている。

「別に堂々と笑っても大丈夫ですよ」
「いや、桜木が真面目につけた名前を笑ったりはしないよ」
「絶対に今の方が私に失礼ですよ!」

 私はツッコミを入れても佐々木先生は笑っていたが、しばらくして顔を上げた。

「まぁでも、その猫がうちの部室に来てくれた良かったな」
「……?? なんでですか?」
「だって琴の音だけでも良いが、たまに部室に猫の鳴き声が響くのも悪くないだろ? 桜木も子供じゃないし変な対応をするとは思っていないが、何かあったらまた相談しなさい。先生も協力するよ」
「佐々木先生……! 最近大学で『佐々木先生の授業面白いよね』って地味に噂されている佐々木先生! なんて良い先生なんですか!」
「ちょっと待て。嬉しい話だが、地味にってなんだ」
「いやー、私と友達が二人で話していただけなので……」

 「おい!」とツッコミを入れようとしている佐々木先生を見ながら、私は「じゃあ、私は部室に戻りますね」と言って歩き出す。そんな私を佐々木先生が「ちょっと待て」と呼び止めた。
 きっと軽口ようなツッコミのような言葉が飛んでくると思っていた。しかし、実際は全然違っていた。

「言い忘れたが、琴の音だけが響く部室も(おもむき)があると思うぞ」
「え?」
「また3、4年もすぐに顔を出しに来るよ」
「はい……!」

 反射的にそう反応していた。きっとバレていたのだと思う。
 今まで尺八(しゃくはち)や三味線の音も溢れている部室だった。確かにたまに先輩たちが顔を出してくれるけれど、寂しくないと言えば嘘になる。
 ここは大学、高校とは違う。顧問なんて私のサークルでは、関わることもほぼない。私が偶然佐々木先生の授業も取っていて、よく話すからこんな風に話せるだけ。有名じゃないサークルなんてそんなもの。幽霊部員もいれば、一度も来たことがないような人もいる。まだ一応活動しているだけマシな方だと思う。
 佐々木先生から離れて、部室までの廊下を歩き続ける。気温は行きと同じはずなのに、少しだけ喉の奥が息苦しいような、温かいような不思議な感覚だった。部室の扉を開けても、さぶは戻ってきていなくて。

「明日も来てね、さぶ」

 つい神妙な声でそんな言葉を呟いてしまった。