少し寒くなってきた季節、その猫は突然やって来た。首に一枚のメモ用紙をネックレスのようにかけて。


『私の夕ご飯はどこですか? ヒント:この大学の学生が食事をする場所の真ん中』


 私、桜木(さくらぎ) 美花(みか)が所属するサークルは和楽器を演奏するサークル。しかし活動的だった三年生は就活が始まり、四年生はもうすぐ卒業。幽霊部員は多いけれどこの部室には基本的に私しかいないことが多い。
 大学の校内の端、長い渡り廊下の奥。小さな部室で私は今日も一人、(こと)の練習をしていた。
 窓の外に茶色の猫を見つけたのは、つい先ほど。黒い大きな首元の斑点が特徴的なスラッとした猫だった。メモ用紙は折り畳まれもせず、猫の向かい側から見ればそのまま読めてしまう。大人びた綺麗な字がボールペンで書かれていた。

「私の夕ご飯はどこですか?……って、何これ」

 猫が自分で字を書けるはずなどない。だからこのメモは人間の誰かが描いて、この猫の首にかけたのだ。この大学の人間が食事をする場所なんて、基本的に食堂しか指さないだろう。本当はこんな出来事は怖いから無視してしまいたい。でも、そうすれば……

「にゃぁ〜」

 何もこの事態に気づかずに顔を手で擦りながら、呑気に鳴き声をあげている猫。

「このメモを無視したら、貴方が夕ご飯を食べられなくなるんだよね……」

 今の状況ではこの猫は野良猫か飼い猫かすら分からない。気ままに大学に入って来ているし、野良猫っぽいけれど……。

「お腹空いているよね……」
「にゃ!」

 言葉の意味を分かっていないだろうに、こういう時だけ元気にちゃんと返事する猫。大学内に猫を連れていくわけにはいかないので、私はその猫に「ちょっと待っててね」と言って食堂に向かった。
 お昼の時間を大幅に過ぎた今、食堂には誰もいない上に電気もついていない。ついでに暖房もついていないので、普通に「さぶっ」と声が出てしまうくらいには冷えている。食堂の真ん中の机の下、猫の食事は置かれていた。わざわざお皿に一回分だけ乗せて。

「絶対に誰かが用意しているってことだよね……こわ」

 なんだこの不思議な状況、と心が悲鳴をあげそうになる。しかし、今この状況の怖さを共有出来る人間はいない。誰かに言いたくても言う人がいない。今この状況を共有出来るとすれば、早く部室に戻ってあの猫にでも愚痴ることだろう。会話は出来なくても、人間じゃなくても、今は何かの生き物にこの状況を言ってしまいたい。
 私は足早に部室に戻って、猫に先ほどの食事を与えながら話しかける。

「ねぇ、貴方どこから来たの?」
「……」
「この食事を見た時、すぐに寄って来たからいつも食べているものなのかな?」
「……」
「おーい」
「……」
「返事はないか。ていうか、それって美味しいの?」
「にゃあ」
「ここは返事するんかい」

 どうやら本当に美味しいようでがっつくように食べている。モリモリ食べているところを見るとお腹が空いていたのかなと思いつつ、痩せている訳でもないので食事を取れていない訳でもないのだろう。

「貴方にこのメモをつけた人って誰? 私のところに来るように言われたの?」
「……」
「また返事なしか……貴方って呼んで良いの? 他の名前あるよね?」
「……」

 もう段々この状況の怖さに慣れてきて、私はもう勝手にこの猫の名前を考えることにした。今の状況は窓を開けていて、窓枠の中に私、窓枠の外に猫がいる。大学の窓を開けていると冷たい風が入ってくるので、私は校舎の中にいるのにコートもマフラーもしている不思議な状況。

「貴方は寒くないの? 中に入って来ないから窓を閉められなくて暖房も逃げていくのだけれど」
「……」
「貴方って呼び名はやっぱり嫌?」
「……」
「茶色だから『ちゃい』」
「……」
「黒色もあるから『くろ』」
「……」
「ていうか、さぶっ」
「にゃ!」
「え? 今、『さぶっ』に反応した?」
「にゃあ」
「え、貴方の名前『さぶ』なの!?」
「にゃー!」

 衝撃的事実なのか、それとも適当に返事をしているだけなのか。意味が分からないが、一応猫の意思を尊重して「さぶ」と呼ぶのが正しいのだろうか。

「本当に『さぶ』で良いの……?」
「にゃ!」

 ご飯を食べていて顔をずっと顔を上げていなかったのに、「さぶ」という単語から顔を上げている。もう「さぶ」と呼んでほしいとでも言うように。

「じゃあ、『さぶ』って呼ぶね」
「……」
「最後は返事しないのかい!」

 あまりにツッコミどころの多い返事の仕方に私はつい「ふはっ」と吹き出すように笑ってしまう。怖いとか、寒いとか、色々考えていたのに、怖さも寒さももう感じなくなっていた。

「ねぇ、さぶは明日もここに来るの?」
「にゃ!」
「そっか。じゃあ、待ってるね。ていうか寒くなってきたし、一旦私の家にき……あ、行っちゃった」

 さぶはとことことどこかに歩いて行き、止めるより前にもう見えなくなってしまう。トコトコと言うより、トコ!トコ!と大分早いスピードで進んでいってしまった。


「もう明日は会えないのかな? さっきの返事もテキトーだろうし……」


 そんな予想に反して、さぶは明日も首に一枚のメモをかけて私の元にやって来る。