コーヒー牛乳片手に、猫と夜の散歩

 人生上手くいくことなんて少ない。
 仕事は理不尽でできている。

 並べ立てられる言葉はどれも本当で、今の高梨柚葉にとっては無慈悲なほどの真実でもあった。

「あー、疲れた」

 どこぞのおっさんみたいな声で独り言のように言ってしまうのも、ここ数日、夜のホームで恒例になってしまっている。ホームのベンチから見上げる空には、月や星が瞬いていた。

 連日の残業に、増えていくタスク、そして、のしかかってくる責任。周りからも頼られることが近頃は多くて、断れない自分の性格を恨みたくなる。今日も帰りがけに後輩から声をかけられた時に、嫌な顔をしていなかったかだけが心配だ。

 入社したころは、仕事を覚えるのに精いっぱいだった。不器用ながらも、先輩に必死に食らいついていった。仕事に慣れてからはがむしゃらに仕事をし続けていると、気が付けば、周りから中堅ポジション目線で見られるような年齢になっていた。

 もう一度宙に向かってため息を大きく吐いてみた。自分の中の何かが吐き出されているが、代わりに何も入って来ない。このままぼんやり見上げていても、仕事が減ることもないし、疲れが癒されることは無い。
 
 重い腰を上げて、柚葉は改札口を抜けた。電車二本分、ホームでぼんやりしていたおかげで、ほんの少しだけ疲れは解消された。明かりが落とされている商店街の中を通り過ぎ、借りているアパートの階段を上る。
 夏も近づいてきているせいか、湿度は高く、蒸している。アパートまで徒歩十五分の距離でも、じっとりとした汗が全身にまとわりついている。洗面所で洗顔し、風呂を沸かし始める。
 冷蔵庫を覗いて、夜ご飯を考えているとお湯炊きが終わった音が聞こえてきた。そう言えば昨日の夜はやけに熱かった気がする。先に汗も流しておきたい。柚葉が風呂場の扉を開けると、珍しく湯気がない。暑すぎて、湯船の温度が変わらないからだろうか。

 風呂の蓋を開けて、手を湯船に入れると

「……冷たい……」

 思わず手をひっこめた。

 夏と言えども水風呂は勘弁願いたい。

「なんで、こんな時に……」

 仕事が辛い時でも、お風呂でゆっくり温まれば、それだけで癒されるというのに。大家さんに電話をすると、修理に一週間待たなければならないと言われてしまった。
 とりあえず、修理をお願いするとして、今日のお風呂はどうしよう。
 家に帰ってくる途中に、確か銭湯があったはず。スマホで時間を確認すると、二十時。個人経営っぽいし、この時間ならば、まだ開いているかもしれない。というか、さっさと行かないと閉まるかも。

 慌ててトートバッグにタオルや石鹸などマイ温泉セットを突っ込んで、柚葉は家を出た。アパートの階段から見ると、まだ銭湯の入り口に暖簾はかけられている。良かった。カンカンカンッと慌てた足取りで階段を駆け下り、銭湯に駆け込んだ。

 昔ながらの、男女別れた入り口から入り、番頭にお金を渡した。夜も深くなり始めているからか、人は少ない。この時間にこれだけ空いているならば、ゆっくりできそう。扉を開けると、もわっと湯気が入り込んできた。
 手早く汗を洗い流し、富士山の絵を背に柚葉は天井を見上げた。高い天井は、ちょっと声を出すだけで反響した。天井近くに隙間が空いているせいか、男風呂の方からも鼻歌が聞こえてきた。

「あー、癒される」

 人が少ないことを言いことに、蕩け落ちそうな声が出てしまった。鼻の下まで湯船につかってから、風呂を出た。
 扇風機がゆるく首を振っていて、涼みながら、柚葉はルームウェアの袖に手を通した。家は目と鼻の先。近くに会社の人が住んでいることもないのは、引っ越しする前に確認してある。仕事も終わったし、会社も出たんだから、これくらい気を緩ませたって誰にも文句話言われたくない。

 脱衣所でコーヒー牛乳を買い、暖簾をくぐった。店先に置かれているベンチに腰を下ろして、蓋を開けて一気飲みした。冷たいコーヒー牛乳が、温まった体にじんわりと広がる。程よい甘さのおかげで、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ気がした。

「くー、最高っ」

 周りに人がいないことも良いことに、柚葉は手足を思いっきり伸ばした。これぞ、銭湯の後の一杯。至福のひと時に違いない。

「なんだ、そのおっさんのようなのは。若い女子が」

 どこからともなく聞こえてきた言葉に、柚葉は慌てて姿勢を正した。辺りを見回しても、野太い声を出しそうな男の人はいない。聞き間違いだろうか。首を傾げていると、ぬるりと足元に何かがまとわりついた。

 足元を見て見ると、真っ暗な足元で、金色の目がパチパチと瞬いた。

「ひゃっ」

 柚葉の驚いた声に反応してなのか、金色の目が細くなった。

「なんぞ、驚くことがある。儂がいるのにも気づかずに、だらしなくしているから足元なんぞ取られるんだ」

 ゆるりと明かりの元に姿をさらしたのは、一匹の黒猫だった。毛艶がよく、良い餌でも食べているのだろうか。それとも、飼い猫だろうか。

 だが、それは一旦置いておくとして。

「ね、猫がしゃべった?」
「猫だってしゃべることがある。そんなこともわからんのか」

 いやいや、しゃべることは無いでしょ。

 しなやかに尻尾を振りながら、柚葉の隣に陣取った黒猫はじろりと見上げてきた。およそ猫らしくない。かわいいというより、独特の凄みはあるし、なんだか悟りを開いているようにも見える。
 周りを伺ったが、同じような声を出しそうな人はおろか柚葉と猫以外に人がいない。ということは、今話したのは間違いなく目の前にいる猫。

「ええと、猫さん、あの」
「大将と呼べ、大将と」

 大将は、名前じゃない気がするが。だが、拒否できるような雰囲気をちっとも醸し出してくれない。

「……それで、お嬢さんは、何をそんなに世を憂うことがある」
「憂う……」

 なぜ猫に話をしなければならない。

「くだらんことでも構わん。そんなに憂うことがあれば、話してしまうのが一番だ。ほれ、話してみろ」
「いや、でも」
「関係のない奴に話すのが一番気楽だ。さっさと話せ」

 妙な圧ばかりを感じてしまう。考えあぐねていると、話せと言わんばかり膝に前足が置かれた。じっと覗き込んでくる目からも話を聞かせろと言わんばかりだ。

 確かに、周りには誰もいない。

 静かな夜に、火照る体を覚ますには、コーヒー牛乳だけじゃ物足りない。体の中から、何かを吐き出さないと冷めることもなさそうだ。

「ほれ、話してみろ」

 どうせ猫に言ったところで、会社に出回るようなこともない。
 大将に促されるまま、柚葉はぽつりぽつりと話し始めた。

 ニコニコして、完璧に仕事をしていれば、誰からも信頼された。それが積み重なっていくと、仕事が増えていった。
 誰かに助けを求めようにも、周りは見て見ぬふり。そのくせ、自分が大変になると助けを求めてくる。これまでの外面の良さを評価されているせいか、断りづらい。上司からも助けてやれの一言で、手伝わざるを得なくなった。

「私ばっかりに言ってくるなーっての」

 ぐいっとコーヒー牛乳を煽るように飲む。
 話していたら、余計にモヤモヤしてきた。これは家に帰って、ビール缶を一つ開けたくなってきた。

「それだけ溜めていれば、体にも毒だろうに。さて、行くか」
「え?」
「これだけ天気の良い夜には、散歩が良かろう」

 のっそりと立ち上がった大将は柚葉の足元に近寄るとすりっと顔を擦り付けた。

「行くか?」

 見上げてきた顔は愛らしい。猫らしいと言えばその通りだが、それでも話し方はおよそ猫らしくない。

「見上げてみろ」

 大将に促されるまま、空を見上げると、真ん丸の月がポツリと空に浮かんでいた。月の明かりがはっきりとしているからか、星を見つけるのが難しいほどだった。スーパームーンとでも言っただろうか。
 雲がなく、すっきりとした夜空を見上げたのは、いつぶりだろうか。顔を上げるだけでも、深く息をすることができるんだ。

「素晴らしい夜だな」
「そうですね」
「こんな夜に、のんびり歩くのも悪くはない」

 ゆっくりと歩き出した大将の後に続き、柚葉も立ち上がった。銭湯でゆっくりお湯に疲れたおかげか、久しぶりにコーヒー牛乳を飲んだおかげか、銭湯に来る前よりも少しだけ疲れが取れている気がする。

 駅とは反対方向に向かって歩きだした。夜が深くなってきたせいもあり、人通りがない。ぺた、ぺた、ぺた。大将の足音がやけにはっきり聞こえる。いつもカツカツとヒールを鳴らしながら、笑顔を張り付けて歩いてばかりだったな。

「なぁ、仕事は面白いか?」

 前を歩く大将が訊いてきた。

「面白いと……思ってたよ」
「過去形か?」
「……少なくとも、今日は思った瞬間は無かったかな」
「毎日面白いと感じる瞬間があれば、幸せなのか?」
「それは」

 そうあるのが理想だと思う。
 自分に向いている仕事があって、その仕事に就けて、成果を出す。
 それがどれほどの幸せなんだろうか。

 大将にベンチで話したせいか、思考の容量に空きができてしまった。余裕ができてしまえば、後ろ向きな考えばかりが浮かんでしまう。
 自分がやりたい仕事が向いている仕事になるとは限らない。
 この数年、仕事をしてみてわかったことだった。がむしゃらに仕事を覚えて、工夫して、それなりにできるようになっても、ずっと自信を持てない。

「なぁにを、考えとる」

 たしっと尻尾を地面に叩きつけた大将が立ち止っていた。柚葉を見ることなく前を見たままの背中は不思議なことに頼もしく見えた。

「いや、その」

 たしっ、たしっと何度も尻尾で打ち鳴らす音が、空いた頭の中に入り込んできて、モヤモヤしたものが打ち消されて行く気がした。

「つまらんことばかり考えるな。散歩はもっと軽くだ」
「軽く?」
「下らんことを考えながら、話しながら、歩く。それが散歩だろ」
「そうだっけ」
「例えば、この先の喫茶店には巨大ぱふぇとやらがあると聞いたことがある」
「巨大パフェ?」
「よく先頭に来る女たちが言っている。季節のフルーツがたくさん使われていると。だがな」

 大将が不意に言葉を止めた。
 なんだろう、と大将の言葉を待っていると、猫は振り返り意地の悪い笑みを浮かべていた。

「数字を知るのが怖くなるそうだ」
「え?」
「美味しすぎて、まるっと食べられるそうだが、翌日体重計に乗りたくないらしいぞ」

 ぱちぱちと瞬きをはっきりして、柚葉は大将を見た。
 銭湯前のベンチでくつろぐことが多いのだろうが、この猫はそんな話まで聞いているのか。どこで誰が聞いているわからないとは、このことを言うのか。
 それにしても、そんなくだらない話をなんで。

「それと、商店街の手前にある本屋にはいるそうだ」

 大将は目を細めて柚葉を見てから、再び歩き出した。柚葉もつられて足を踏み出していた。視線の先にある商店街の街灯がポツリと浮かんでいた。ゆらっと灯りが揺れた気がした。

「そこには、本を求める客が多いそうだ」
「本屋だし、普通なんじゃ」
「違うのだ。本が人を呼ぶのだ」
「本が?」

 首を傾げた。

「その本は人を喰らうそうだ」

 やけに真剣な声で言う大将を見て、柚葉の喉がごくりと鳴った。立ち止った大将が口角を上げて、意地悪く笑った。

「なーんて、な」
「え?」
「あるわけなかろう、そんな本。そんな本があれば、噂の一つや二つがあるだろう」

 それもそっか。
 あの店は、この店は、聞いた話によると。大将が次々にいろんな話をしてくれた。大将の話口調もあるだろうが、頭の中に空いたところにすんなりと入ってきて、いつの間にか仕事のことを忘れて、大将との話に夢中になってしまった。
 こんなに仕事以外のことの話に夢中になるのはいつぶりだっただろうか。
 気が付くと商店街の前に辿り着いていた。夜もすっかり更けているせいか、歩行者に配慮するくらいの街灯以外の明かりは無い。休みの日に日用品や総菜を買いに来る時には、近所の人たちでにぎわっているのに、今目の前にある商店街は静かすぎて、異世界の入口のように見える。

「もうここまで来たか」

 ぼんやりとつぶやく大将の声が妙に妖しく聞こえた。
 何故だか、首の後ろに寒気を感じた。手でさすって、誤魔化しながら大将をちらりと見る。すると足元に丸めた背中を見せる大将のしっぽがゆらりと揺れた。それも一本じゃない。二本、三本と少し増えたように見える。
 そのしっぽたちを見て、柚葉は我に返った。
 大将との話が楽しくてここまで来たけど、今の状況に奇妙さを感じた。

 しゃべる猫。

 振り返ったその猫は、目を少しだけ見開いた。夜でもはっきり見えるほどの目の輝きは、星や月の明かりよりも眩しい。

「どうした?」

 誘うような大将の声に、柚葉の足が一歩踏み出そうとしたところで、とどまった。

「行かないのか?」

 理由はわからないけど、このまま行ってはいけない気がする。柚葉はぎゅっとコーヒー牛乳の瓶を握りしめた。

「楽しいだろ、夜の散歩というモノも」
「それは、そうだけど」

 それでも踏み出せない。

「ほれ、見ろ」

 ゆらりと揺れた尻尾が示した先には、金色の目が一つ、また一つと増えた。猫集会でもやっているのだろうか。

「あいつらは、お前の話を聞いてくれるぞ?」

 甘い甘いその言葉に、縋ってしまいそうだ。くだらない話をして、笑う。久しぶりだった。仕事では、オフィスカジュアルな服装を着こなし、いつもニコニコ完璧な柚葉さん。

 だけど。

 視線を下に向けて、柚葉は今の自分を見下ろした。少しよれたTシャツ、辛うじて外に着ていけるようなスウェットパンツに、スリッポン。とてもじゃないが会社で見せている姿とは間反対も良いところだ。

「お前は、お前だろう?」

 大将が座ってこちらを見上げていた。
 首を傾げた猫の表情は真顔だった。先ほどまでのいたずらっぽい顔は隠れ、真剣な目で何かを問うてきた。

「ほら、行くぞ」

 揺れた尻尾は柚葉を誘った。
 踏み出したくなったその時に、誰かから呼びかけられた気がした。振り向いたが、そこには誰もいなかった。だけど、視えたのは自分のこれまでの生活だった。
 いつの間にか忘れていた、自分の頑張りや成果が頭を一瞬だけよぎった。

「大丈夫か?」

 声につられて視線を元に戻すと、覗き込んでくるように、大将は柚葉の足元にそっと手を置いていた。

「辛いことなんぞ、忘れて良いんだ。行くぞ」

 だけど、その誘いには乗れなかった。

「ごめん、大将。そっちには行かない」
「何故だ?」

 さっきまでの穏やかで、楽し気な声から一転、ひどく冷淡な声に変わっていた。細長くなった目は鋭く柚葉を見てくる。その威圧的な視線に思わず一歩後ろに下がってしまった。

「どうせ人間たちといたって、お前はまた同じようになる。周りの目を気にして、お飾りのように笑ってそこにいるだけ。何も楽しくないぞ」
「そんなことは」

 ないと言い切ることができない。口をモゴモゴとさせながら、ギュッとTシャツの裾を握りしめた。

「日々楽しい方が良いに決まっている。なら、ついて来ない理由はないだろう?」

 たしん。
 尻尾がやけに大きな音を立てたように聞こえた。
 これ以上待たせるなと言わんばかりの大将の様子に、柚葉はビクッと肩を震わせた。

「なにも恐れることは無い。ただついて来れば良いのだ。気持ちが軽くなる方に」
「……行かない」
「なに?」

 拒否をされると思っていなかったのか、大将の目が真ん丸に見開いた。たしん、ともう一度尻尾が地面に叩きつけられた。ビクッと肩を震わせながらも、柚葉は大将から目を離さなかった。
 柚葉の答えを待っているのか、大将は黙ったまま目を細めて柚葉を見ている。
 喉が急に乾いていくが、唾を飲み込んだ。僅かに震える手を胸の前に持ち上げて、ギュッと握りしめた。

「多分、辛いことって多いし、嫌になることだって毎日あるかもしれない」

 震えて出てきた言葉は、止められなかった。

「私だって毎日楽しい方が良いに決まってる」
「ならば」
「でも、それって、ダメだと思う」
「何故だ?」
「……何も考えないのは、生きているって言えないから」

 ちらりと大将を見れば、首を傾げていた。 
 正しい答えかわからない。でも、今は。
 くるりと踵を返して、柚葉は大将に背を向けた。

「何を愚かなことを」

 耳を塞いで、もと来た道を小走りに駆け出す。後ろからにゃーっと猫たちの声が後ろから聞こえてきた。
 決して振り向かないように。
 それだけ決めて、足を止めないようにひたすら動かした。息が弾み、冷え込んだ空気が喉の奥を斬りつけるように痛い。
 無我夢中で走っていると、ゆらりと灯りが見えた。助かった。明かりが見える建物に入ると、ちょうど銭湯の暖簾を片付ける女主人と鉢合わせた。

「お客さん、どうしたんだい?」

 目を丸くした彼女は、柚葉を怯えた様子で見た。

「え、っと、その」
「なんだい、その汗は。ちょうど閉めようとしたところだったから、とりあえず汗を流しておいで」

 ぼたぼたと汗が溢れ出る柚葉を訝しげに見た女主人は、少しだけ面倒くさそうにしながら苦笑した。

「は、はい」

 肩で息をしながら、言われるがまま柚葉は服を脱いで、浴場に入った。他にお客はいない。いつもは広いと感じない銭湯が、がらんとしているように見えた。汗を流し、ゆっくりと誰もいない湯船に浸かった。

 富士山の絵が描かれた壁を背に、ぼんやりと天井を見上げた。
 あれは何だったんだろうか。
 夢を見ているかのような、不思議な心地だった。

 ふうっと息を吐いて、鼻の下まで浸かってから、柚葉は浴場から出た。芯まで冷え切っていた体が、内側からぽかぽかと温かくなった。番頭の席に座り、スマホを見ていた女主人は柚葉が着替えて出てきたところで、イタズラっぽく笑った。

「随分すっきりした顔だね」
「……そうですか?」
「お化けか何かに追われているような顔してたのに、もう忘れたようにすっきりしているからね」
「お化け……」

 尻尾が幾重にも別れた猫の大将。およそ人間と聞き間違うような話し方と態度をしていたあの猫は、もしかして。

「ほら、もう閉める時間だよ」

 追い出されるように女主人から言われ、柚葉は小さく頭を下げて、下足箱に入れた靴に手を伸ばした。

「また、おいで」

 ふと大将の声に似ているように聞こえた。振り返ったが、そこにいたのは変わらず女主人で、彼女は柚葉に柔らかく微笑んで手を振っていた。
 銭湯を出ると、柚葉はベンチをちらりと見た。そこには誰もいなかった。ほっと胸を撫でおろしながら、アパートに向かって足を踏み出そうとした。

「また、おいで」

 幻聴にも似たそれに柚葉が振り返ると、いつの間にか、ふてぶてしそうにベンチの上に丸まっている猫がいた。ぽっちゃりとしたその姿は、大将とは似ても似つかない。

 気のせいか。

 ふっと軽く息を吐くと、思っていたよりも気持ちが軽くなっていることに気が付いた。
 見上げた拍子に見えた空には、星も月も瞬いていた。随分久しぶりに夜空を見上げた気がした。
 一人ぼっちだと思っていたのに、なぜだか、そうだとは思わなかった。

 少しばかりの自分の変化に驚きながら、柚葉は視線の先にあるコンビニに足を向けた。
 今日はちょっとだけ自分にご褒美を上げても良いのかもしれない。