――昼休み。
私はザワザワとした空気に包まれている廊下に出ると、背が小さめの女子生徒が私の方に向かってきた。
彼女は腕をくみ、眉をひそめている。
顔はどこかで見たことがあるけど、喋ったことがなかったので素通りした。
「水城里宇さん、だよね」
背中に声が当たり、振り返った。
「私はD組の八幡繭花。里宇さんは、どういう魂胆で敦生くんに近づいたの?」
また敦生先輩のファンの一人かと思い、深いため息をついた。
「近づいたというか、なんか縁があってね。まぁ、そんな感じ」
敦生先輩とケンカして胸の中がざわついていたから、さらりと答え、前に進んだ。
これ以上厄介ごとには巻き込まれたくない。
准平が彼氏ならまだしも、余計なことに首を突っ込みたくない。
ところが、彼女は後ろから腕を引いた。
「ごまかさないで」
「えっ」
「ちゃんと理由が知りたいの。……私、敦生くんの幼なじみだから」
目がなにかを訴えかけてきたので、私たちは人が少ない音楽室前に移動した。
音楽室の時計の秒針音が、廊下へ伝わってくる。
上目遣いを向けると、彼女はじっと見つめてきた。
その瞳には、鋭さと切なさが混ざっている。
特に口止めされたわけでもないので、敦生先輩との一部始終を話した。
「なにそれ……。敦生くんは、私のお姉ちゃん……綾梨のことが好きなのに」
初めて聞く”綾梨”という名に、気が止まった。
「えっ! 敦生先輩って、好きな人がいるの?」
「もう、何年も想い続けてる。お姉ちゃんのことだけを……」
繭花さんは、遠い目をしたまま呟いた。
少し声が寂しそうにも聞こえ、心配が届く。
喧騒が遠く聞こえ、胸をざわつかせる。
「だから、偽彼女なんて本気じゃないの。里宇さんから断ってくれないかな」
なによ、あいつ。
好きな人がいるのに、人に偽彼女を頼むなんて信じられない。
拳をぎゅっと握りしめ、息を吸い込んだ。
だけど、『偽物でも、1ヶ月間は本気で向き合うよ』と言った言葉も引っかかっている。
「でも、約束しちゃったし、私から破るのはちょっと……」
二人の間で交わした約束。
彼の事情が重なっていくたびに、破るのが難しくなっているような気がする。
スカートをくしゃりと握りしめた。
「それを破ってってお願いしてるの!」
繭花さんの声が、廊下を貫いた。
きっと、期待していた返事が届かなかったから。
けれど、これは私一人で解決できる問題じゃない。
「ごめん、できない」
まぶたを軽く伏せて、呟くように返事をした。
「どうして?」
「イヤホンは弁償で済む話じゃなさそうだし、約束……したから」
ここでイエスと言ってしまったら、敦生先輩の気持ちを踏みにじってしまいそうな気がした。
人を信じたい――彼の想いが、胸の奥に留まっている。
「そんなの、放っておけばいいじゃない」
彼女の声が揺れていた。
目を向けると、眉間にシワを寄せ、唇を噛み締めている。
「でも、放っておくことなんてできないし」
「好きな人がいる人に近づくのは間違ってるよね。偽恋人なんて、もうやめて。お姉ちゃんの気持ちを踏みにじってほしくないから」
彼女は強い口調で言うと、廊下の奥へ消えていった。
まるで悲しみを背負っているかのように。
敦生先輩の考えてることがわからない。
好きな人がいるならその人と付き合えばいいのに。
どうして、私に偽彼女なんて頼んだのよ。
一人ぽつんと取り残された廊下で、心の整理を含めて、今日までの出来事を思い返していた。
最近、敦生先輩のペースに流されている。
これでいいのか、正直わからない。
ブレザーからスマホを出して、震えている手で敦生先輩にLINEを送った。
『やっぱり、デートには行けない』
画面を見つめ、口をキュッと結んだ。
――多分、これが正解。
1ヶ月間の約束は責任を持ちたいけど、好きな人の件も重なって、深入りは避けたい。
『どうして?』
画面越しに響く言葉に、深く息を吸って吐いた。
スマホに触れようとしている手が、無意識に震えた。
『敦生先輩には、好きな人がいるんでしょ?』
卑怯なやり方をする自分が嫌いだ。
言いたいなら、直接言えばいいのに。
『誰に聞いたの?』
『D組の八幡繭花さん』
眉間にシワを寄せ、唇を強くかみしめた。
すぐに既読になったが、返事までの空白の時間がやけに重く感じた。
『俺はおまえと約束してる』
『でも、私たちそれぞれ別に好きな人がいる。だから、無理……』
落とした言葉が、床に溶け込んでいくように思えた。
私は准平をまだ忘れられない。
それに、敦生先輩は綾梨さんを想ってる。
こんな気持ちで偽恋人を続けるのは、やっぱり無理。
スマホの電源を落として、壁に沿って滑るように床へ座った。
見上げたら、天井の蛍光灯は白くまっすぐに並んでいた――明日も同じ日常が待っている。
でも私は、自分の気持ちに責任を持ちたい。



