――翌日。
 俺は親友の三島と屋上へ移動した。
 乾いた冷たい風が髪と服を靡かせ、同時に心も冷やしていった。

 柵に手をかけ、壊れていない方のイヤホンを耳に差し込む。
 スマホをポケットから取り出し、ミュージックアプリを開いた……でも、指先が先に進まない。
 小さくため息を吐き、指先を曲げた。

「……やっぱり、まだ綾梨さんのことが忘れられない?」

 俺は俯いたまま答えられずにいた。
 隣に座り、深いため息を零す。

「簡単に忘れられたら、苦労しないよ。ただ、壊れた方のイヤホンが綾梨を見てるようで」

 もう一つのイヤホンを指先で転がしながら、綾梨を思う。
 声も、歌も、記憶の中には残っている――。

「中途半端なままでいいの? また誰かを傷つけるかもよ」

 三島の忠告が、俺の心を揺るがす。
 ”また誰か”の中に、里宇の姿が思い浮かんだから。

「わかってる」
「いまのままだと、またおまえ……」

 三島が言いかけてる最中に、俺は首を振った。

「……もう一度、人を信じてみたいだけ」

 好きだけど、忘れなきゃいけない――苦しみが、こんなに長く続くと思わなかった。
 それが、”軽い人”と言われる根本的な原因になってることに、気づいていても。

「里宇ちゃんなら、信じられそう?」

 三島は立ち上がって柵に手をかけた。
 俺は遠い目で空を見つめると、薄日が空っぽの俺を静かに包んだ。
 答えを彷徨っているかのように。

 すると、三島は校庭に指をさした。

「あれ? 里宇ちゃんだ」

 俺は立ち上がって、三島と肩を並べた。
 校庭を見ると、五人の女子集団は腕を組み、里宇に詰め寄っている。
 なにが起きてるのか、一瞬理解できなかった。

「あんた、このまえ泥水をぶっかけたこと、忘れてない?」

 女子集団の一人が肩で風をきって里宇の目の前に行くが、里宇は長い髪を手で払い、一歩前へ。
 
「仕返ししただけじゃない。それのどこが悪いの?」
「なっ!」

 強気な態度だったせいか、目の前の女子が里宇の赤いネクタイを掴んだ。

「敦生くんの彼女になったからって、調子に乗らないでくれない?」

 集団の輪が小さくなり、とっくみあいのケンカに。
 三島は、すかさず俺の肩を揺さぶった。

「お、おい……。ヤバくない? トラブってんじゃん」

 一瞬息が詰まったけど、勇敢に立ち向かう姿が微笑ましい――自分とは対称的で。

「ちょっと行ってくる。……なんか、新しい風が吹いたような気がする」

 俺は、三島にそう言い残して、里宇の元へ向かった。


 校舎の階段を駆け下り、現場で足を止めた。
 だが、彼女たちは俺が来たことに気づいてないのか、取っ組み合いになっている。
 俺はそっと割って入り、里宇たちを見守った。

「あの、さ。ケンカは良くないって思わない?」

 集団は俺の声に反応し、里宇から距離をとった。
 気まずそうな顔が並ぶ。

「だってあたし、このまえこの人に酷いことされたんだよ?」
「そのくせ、反省すらしてないし!」

 集団は不服そうに文句を言った。

「迷惑かけてごめんね」

 俺は集団ににこりと微笑むと、彼女たちの目線が気まずそうに転がる。
 里宇は唇を結んだまま俯く。

 俺は里宇の前に行って手を添えると、その指先が小さく動いた。

「こいつさ、すげぇ生意気だけど仲良くしてくれないかな。人一倍不器用だからさ」

 そう言い残し、里宇を連れて集団から離れた。
 彼女の手は、冬の息より冷たかった。
 でも、俺の手を離そうとしない。
 ただただ、足を動かしてるだけ。

 冬の風がそよぐ校舎の裏にたどり着いた。
 乾燥した枯葉の香りが、身にまとわりつく。
 俺は俯いたままの彼女に呟いた。

「ケンカ? かっこいいじゃん」

 ふっと笑うと、里宇は突然爆発したように手をはねのけた。

「……なに言ってるの。水をかけられたことも、呼び出しも、全部あんたのせいでしょ!」

 校舎に反射した声が、俺の胸に届いた。
 きっと、心の中に詰まりっぱなしだったんだろう。
 ここまで素直に気持ちを伝えてきた人は、いままでいない。
 だから、余計響いたのかもしれない。

「静かに過ごしたいのに」
「じゃあ、放っておけばいいだろ」
「しつこいの無理だから、それはできない」

 揺れる肩を見て、里宇の気持ちを悟った。
 こんなに小さな動作が、あの頃の俺には気づけなかったのかもしれない。

「あのさ、少し前から思ってたんだけど」
「……なに?」
「実は、結構無理してない?」

 そう伝えると、彼女はハッと目を見開き、視線を落とした。
 その指先は震えている。

「どうして、そう思ったの?」
「きっぱりと言いきったあとに、いつも体が震えてるから。怖かったんじゃないかなって」

 多分、里宇は強くない――強い自分を取り繕っている。
 偽恋人の関係になってから、少しずつ彼女が理解できるようになっていた。

「そんなの、あんたには関係ない!」

 彼女は背中を向けて走り出したので、後を追い、彼女の手を引き寄せた。

「あるよ。おまえの彼氏だから」

 彼女の瞳の奥が揺れていた――あの日の自分を思い出させるように。

「偽物でしょ! 変に干渉しないで」
「なら?」
「え」

 彼女の視線が貼りつく。

「偽物でも、1ヶ月間は本気で向き合うよ」

 過去から抜け出すには、彼女の力が必要だ。
 じゃなきゃ、偽彼女に選んだ意味がなくなる。

 変わらなきゃいけない――彼女を見ていたら、よりそう思うように。

「……おまえなら、俺を変えられそうな気がする」

 自然と声が震え、胸の鼓動が早くなった。
 彼女の姿が、自分と重なって止まない。

「いい加減にして。バカじゃないの!」

 彼女は悲鳴混じりの声で叫び、俺の手を払った。
 怯えた子猫のようにキッと睨むと、校舎へ走っていった。
 背中に、好きな人の影を抱えながら。

 ふと視線を感じて顔を上げると、二階の窓の奥にいる繭花と目が合った。
 繭花は小さく息を呑むと、迷うように目を逸らし、廊下の奥へ消えた。
 多分、俺が里宇と話していることが気に食わないのだろう。