――ランチタイム。授業が終わり、緊張から解放された俺は、薄日が差し込んでいる廊下を歩いて、カフェテリアへ向かっていた。
 足音が不揃いに響き、人の波に乗った。
 吸い込まれるように階段付近にさしかかると、幼馴染の繭花(まゆか)が後ろから腕を引いた。

「敦生くん!」
「あっ、繭花じゃん。二年生も授業が終わったんだ」

 彼女は、2年前に交際していた綾梨(あやり)の妹。
 小学生の頃、スイミングで出会ったのが最初だった。
 それがきっかけで、綾梨とも知り合った。
 綾梨との交際中、唯一見守り続けてくれた存在だ。

「あ、うん……。さっき、廊下で知らない子と交際宣言してたけど、冗談……だよね」

 掴む手が、かすかに震えていた。

「したよ? それがなにか」
「お姉ちゃんのこと、忘れたわけじゃないよね」

 俺はまぶたを軽く伏せて、小さくため息をつく。

「……もちろん、忘れてない」

 だから、いまでも苦しい。
 無理に微笑んだら、喉が熱くなった。

「じゃあ、どうしてそんなことをするの? お姉ちゃんが悲しむじゃない」

 彼女の震えた言葉が、胸の奥に落ちていく。
 過去のことも、心配してくれている繭花のことも、全部心を揺さぶってくる。
 繭花は、俺の本心を知らないから。

「心配してくれるのは嬉しいけど、いまはそっとしておいてほしい」

 彼女の手をゆっくりと解く。
 優しく呟いたはずなのに、繭花の瞳は涙で滲みそうだった。
 
「敦生くん。もし、悩みごとがあるとしたら、私が代わりに……」
「ありがとう。でも、自分で乗り越えていきたいんだ」

 俺は穏やかな眼差しを、彼女に向けた。
 揺れている瞳に、胸がぎゅっと締めつけられる。
 いつしか廊下は、人がまばらに立つ程度に。
 淀んだ空気が、俺たちの間を通り抜けた。

「繭花には見守っててもらいたい――これから、ずっと」

 そう呟いて、彼女の元から離れた。

「敦生くん!」

 悲鳴のような声が背中に届いた。
 でも、振り返らなかった。

 たしかに俺は、綾梨が忘れられない――いまでも好きだ。
 そして、これから先もずっと、想い続けるだろう。
 だけど、同じ場所で足踏みしているだけじゃ、ダメだ。
 前を向くために、里宇に偽彼女を頼んだのだから。