*アランサイド

 アランの執務室は、いつも良い香りで満たされている。
 エレインがいくつかブレンドしてくれた香りの中から、その日の気分で選んだものを焚いていた。
 ハーブ以外、余分な香りが入っていないため、しつこくなく、それでいて飽きのこない上質な香りがアランは気に入っている。
 今日はローズマリーとレモンの超集中ブレンドにしたおかげで、朝から休憩も取らずひたすらに執務に打ち込めていた。
(なんとしても、ティータイムに間に合わせる……)
 ここ数日忙しくて、エレインの休憩時間に顔を出せていなかったおかげで、エレインと接する時間が極端に減っているのが耐えがたかった。
 しかも今日はテオはピアノの稽古で不在。
 エレインとゆっくり話せるまたとない機会なのもあって、アランはいつにも増して張り切っていた。
 やっと仕事に区切りが見えてきて、今日こそ一緒にお茶が飲めると意気揚々としていたアランだったが、
「今日もティータイムは諦めてくださいね」
 とセルジュが追加の仕事をデスクに乗せてきたのだ。
 真顔でそう言うセルジュが、今日ほど悪魔に見えたことは言うまでもない。
(セルジュめ……)
 ここで諦めてなるものか、とアランは鬼の形相で仕事を片づけ、セルジュに文句ひとつ言わせることなく、ティータイムの許可を奪い取った。
「時間厳守でお戻りくださいよ」
 セルジュの声を聞き流し、執務室を後にしたアランの足取りは軽い。
 外は天気が良く、程よく風が吹いていて過ごしやすい陽気だった。深呼吸して、肺の中の空気を入れ替えれば、気分まで洗われた気になる。
(違うな……エレインに会えるのが嬉しいからだな……)
 最初は、可愛い甥っ子のテオを助けたい一心で、彼女のハーブを手に入れるために婚約破棄されたエレインに声を掛けただけだった。
 彼女がなぜヘルナミス国で効能の高いハーブを作れるのかは全くの謎だったが、そんなことはどうでもよかった。
 テオの夜泣きが少しでも和らげば、それで十分だった。
(それが今では……)
 気付けば、エレインのことばかり考えている自分がいる。
 育った環境のせいで、自分に自信がない彼女は、人の役に立つことで生きる意味を見出していた。そしてそれを、浅ましいことだと自分を責めるエレインを見たとき、アランは胸が押しつぶされる思いがした。
(自分なら、こんな思いをさせないのに)
 彼女を幸せにしたい。
 笑った顔が見たい。
 生きる意味など探さなくていいのだと、生きているだけで素晴らしいのだと、心の底からそう思えるようになって欲しい。
(そのためなら、なんだってできる)
 だから、今はエレインがやりたいことを全力で支援している。
 本当は、力を使いすぎやしないか、心配で仕方がないけれど。
 彼女の思いは尊重してあげたい。それが今の自分にできる最善だった。
 中庭に近づくにつれて、気が急いて歩く速度が増していく。ガゼボに彼女の姿を見つけたときには、半ば駆けていた。
 しかし、彼女に会えるという喜びが一瞬で消し飛ぶ。
 彼女の体が傾いたと思ったら、視界から姿が消えたのだ。
 心臓が縮み上がって、喉がひゅっと音を立てた。
「エレインさま!」
 ニコルの焦った声がこっちにまで届く。
 その声音から、良くないことが起きたことだけは理解できて、アランは走っていた。
「下がれ! 誰も彼女に触れるな! 今すぐ医者を呼べ!」
 早口に指示を出し、エレインの側にいた侍女とニコルをどかす。
「大丈夫か、エレイン、……エレイン……!」
 彼女は胸を押さえ、苦しそうに悶えていた。
 声も出せないようだ。
 パッと体を見回すが、破損している箇所や血は見あたらない。
(なんだ? 毒か?)
 だとしたら、一刻を争う事態だ。
 どんな窮地に立たされたとしても、あらゆる可能性を頭の中で巡らせ、その中から最善の一つを選ぶ。王子としてその術を身につけていたアランは、エレインを抱えて城の中へ急いだ。
 ニコルに水と布巾を用意するよう命じ、一番近いエレインの部屋に向かうとベッドにその体をそっと横たえる。
「エレイン……、すぐ医者が来るから」
(お願いだ……どうか、持ちこたえてくれ……)
 乱れて顔にかかる髪を手でそっと避けると、「殿下」とエレインが声を発した。
「エレイン!」
 目を開けた彼女に、さっきまでの苦しそうな表情は見あたらず、アランは驚く。
 どうしたのか、と口を開こうとしたのを、エレインが制した。
「殿下、お静かに」
 彼女はそう言って、なんでもなかったかのように体を起こす。
「だ、大丈夫なのか」
「私は大丈夫です、なんともありません。今、内密に動かせる手の者はいますか? 時間がないので詳細は省きますが、お茶に毒が混入している可能性があり、倒れた振りを致しました。すると侍女のアンが、謝りながら指輪を抜き取って持ち去りました。おそらく、何者かに脅されている可能性が高いかと。昨日まで家族の体調が芳しくないと帰省していたのです、家族が人質に取られているかもしれません」
「――わかった。後を追わせよう。状況が把握できるまでは、エレインはこのままか……毒の種類によっては死んだことにした方がいいかもしれないな」
「ありがとうございます。……あの、どうかアンには寛大な措置を……」
 エレインは、今にも泣きそうに顔をゆがめる。
 彼女の気持ちを考えると、頷いて安心させたいところだが、アランは心を鬼にして首を横に振る。
「それは、すべてが明らかになってから決めることだから今は約束できない」
 悲しむエレインをそれ以上直視できず、アランは部下に指示を出すべく部屋の外へと出た。