農園の視察を終わらせ、工場で仕上がりを確認したエレインたちだったが、思いのほか時間を食ってしまい、予定していた教会を後回しにして先に王宮入りすることにした。
 しかし、王宮へ向かう途中に馬車が脱輪して足止めを食らってしまう。なんとか開始時間前には到着できたものの、着替えている時間がなくなってしまった。
 王太子を待たせるわけにはいかないので、エプロンだけ外し身だしなみを整えただけの格好でお茶会の開かれるガーデンへと向かうと、まだ開始時間前だったが、王太子はすでに着席していた。
 ――妹のシェリーと共に。
「やっだぁ、お姉さまったら! そんなみすぼらしい格好で殿下の御前に出るなんて信じられない!」
「で、殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅうございます。このような身なりでお目にかかる非礼をどうかお許しいただけますでしょうか」
 そう挨拶をしてカーテシーをとった。
「理由を申せ」
「ここへ来る途中馬車が脱輪してしまい、修理に手間取ったためにございます」
「……許す、座れ」
「ありがたき幸せにございます」
 一礼をして殿下の向かいに腰を下ろしたエレインは、目の前を向く。
 ヘルナミス国の王太子であるダミアン・ド・シャレッ ト殿下が、むすりと口を固く結び、明るい緑色の瞳でこちらを見下ろしていた。少し癖のあるブロンドヘアは、緩やかにウェーブを描き太陽の光に輝いていて美しく、王族らしい華のある出で立ちだ。
 半年ほど前、この国の年頃の貴族令嬢なら誰もが希う彼の婚約者の座にエレインが抜擢された。
 フォントネル産のハーブが王室から認められ、その功績を称えるべくフォントネル侯爵家の長女であるエレインに白羽の矢が立ったのだ。
 フォントネルのハーブは効能が非常に強く、医者からも重宝されており、貢献度が高いと評価されたらしい。
 そして、そろそろ王太子に婚約者を、と動いていたところにフォントネルの活躍があり「ちょうどいい」ととんとん拍子に話が進んでしまった。
 当初、父と義母はエレインではなくシェリーを推したらしいが、シェリーの母親が男爵家の出だという理由から却下され、義母たちは憤慨している。
 エレインの母が由緒ある侯爵家だったことも加味されているらしい。
 さらに、フォントネルのハーブの大量生産を狙うべく、王室との共同で事業拡大が進んでいる。その責任者としてダミアンが据え置かれているが、ただのお飾りに過ぎず、これまたすべての指示系統はエレインが担っていた。
 にも関わらず、事業の成果は表向き王太子の功績として広く知られている。
 ハーブ園の事業化から一年、王太子の婚約者になって半年。怒涛の展開だった。

 目の前のティーカップに侍女が紅茶を注いでくれるのを待って、エレインはカップを口に運んだ。
 このお茶会は、婚約者となった二人の交流を深めることを目的に、月に二度開催されている。
 お茶会の出席者は婚約者となった二人のはずなのに、開催二回目に「姉の忘れ物を届けにきた」とシェリーがお茶会の席に現れて以来、ダミアンが同席を許するようになったのだった。シェリーの愛らしさにでも惹かれたのだろう、ダミアンはシェリーをいつも自分の隣に座らせている。
 毎回ダミアンとシェリーの二人だけで会話は進み、エレインは傍らでひたすらお茶をすするだけ。なんの生産性もないこの時間が、エレインにとっては苦痛で仕方なかった。
「殿下は本当にお優しいのですね。脱輪したなどと見え透いた嘘を信じて差し上げるなんて」
「嘘は申しておりません」
「ふん、どうかしらね。どうせまた草に夢中になって殿下との約束を忘れてたに違いありませんわ。殿下、腹違いとは言え、妹の私からもお詫び申し上げます」
「よい。こうしてシェリーが相手をしてくれるからな」
「もちろんですわ。草のことにしか興味のないお姉さまでは、殿下の話し相手は務まりませんもの」
「シェリーは容姿も性格もとても愛らしいな。このピンクの髪も素晴らしく美しいし、一緒にいるだけで気分が明るくなる。エレインと二人きりのお茶会は息が詰まりそうだったが、こうしてシェリーと出会えただけでも儲けものだ」
「まぁ、嬉しい!」
 いちゃつく二人に辟易しつつも、シェリーのおかげで話がそれてほっと胸をなでおろす。
 正直に言えば、シェリーの言う通り、ハーブにしか興味のないエレインに、ダミアンを楽しませるだけの話術は持ち合わせていないので、こうしてシェリーがダミアンの相手をしてくれるのは、エレインにとってはありがたかった。
 最初の二回のお茶会も会話が弾まず気まずくて、ハーブの相手をしていればあっという間に過ぎる一時間も、まるで永遠に続くかと思われたほど。
 ダミアンもダミアンで、口を開けば自慢話しかしないものだから、エレインも「素晴らしいですね」「さすがですわ」の二種類の相槌しか打っていなかった。
(そもそも、私に殿下の婚約者なんて荷が重すぎるのよ)
 そのうち、家格のつり合いが取れた貴族に嫁ぐのだとばかり思っていたのに、いきなり王太子の婚約者だなんて。
 それになにより、今のエレインには時間が足りなさすぎた。
 ダミアンとお茶を飲む時間やダンスのレッスンをする時間があるなら、ハーブの栽培や研究・開発に時間を割きたいのが本音だった。
「最近、ご令嬢の間でピンクダイヤが流行っているんです。私もほしいなと父にお願いしてるんですけど、とても貴重な宝石らしくなかなか手に入らなくて……」
「そうか、ならそれは俺がシェリーにプレゼントしよう。きみの美しいこのピンクブロンドとよく似合うだろう」
「嬉しい!」
 エレインは王太子であるダミアンの発言に、気分が憂鬱になる。
(宝石を買うお金があるのなら、もっと国の予算に割くべきなのに)
 エレインは、王太子の婚約者となってから妃教育を受けている。その中で国政についても学ぶ機会があり、今現在、この国の経済状況はとても褒められたものではないことを知った。
 教会を見ていても、貧困者がとても多いことはエレインも知っていたが、これほどまでに深刻だとは知らなかったのだ。
(なのに、王室や貴族たちはとても裕福な暮らしをしているのよね……)
 国民が汗水たらして稼いだお金をこれでもかと吸いあげている証拠だろう。
「あぁ、この俺に入手できないものなどあるものか。……あぁそうだ、母上からエレインにもなにかプレゼントをと言われていたんだった」
 いかにも気乗りしない、といった雰囲気を醸し出すダミアン。
「そうだな、指輪はどうだ? いつもその地味な指輪しかつけていないだろう」
 カップを持ったエレインの、右手人差し指に嵌っている指輪に視線が寄せられる。金色の指輪は、シグネットリングのように大きな台座がある以外、宝石もなにもついていない質素なデザインで全体的に色が黒くくすんでいる。
 エレインは、それを隠すように左手で指を握って膝の上に置いた。
「それでしたら……教会のハーブ畑を広げたいのでそちらに予算を回し」
「――あぁもういい。そんなに草が好きなら草の相手をしていろ。退席を許す」
「失礼いたします」
 すぐさま退席し、二人の姿が見えないところまできたエレインは、ようやく呼吸ができた心地がした。