*アランサイド

 エレインを自室に送り届けたあと、アランは自室に戻りながら、長いこと曇っていた胸の内が晴れていくのを感じていた。
 医者に見せても心因性の不眠症だと言われるだけで、出された薬も手ごたえがなく、テオのシッターはつぎつぎに根を上げて辞めていき……。
 症状が悪化する一方のテオをただ見ていることしかできず、苦しい日々が続いていた。
 それが、一瞬にして解決の糸口が見つかったのだ。
 エレインの「大丈夫」という言葉一つで、沈んでいた気持ちが一気に浮上する。
(エレインに任せれば、きっとすべてが上手くいく)
 アランにそう確信させるほど、アランはエレインを信頼していた。
 教会で初めて会ったとき、彼女の言動にいい意味で驚かせられたのが記憶に新しい。
 薬の対価に「一番高価なものを」差し出せと、顔色一つ変えずに言い放ったとき、アランは度肝を抜かれた。
(持たざるものからは少なく、持つものからは多くを、か)
 自分の身分を知らないとはいえ、初対面で見るからに貴族とわかる相手にあれほど堂々と相対できる女性に、アランは興味が湧いた。
 だけど、あのときエレインは王太子の婚約者だった。
 だから、もらった薬が効いたら継続して薬を売ってもらうにはどうしたらいいだろう、としか考えていなかった。
(それが今は……)
 婚約破棄され、彼女を縛るものがなくなったのをいいことに、勢いに任せて彼女を自国に連れ帰ることに成功した今、アランは自身の内側に生まれた感情に戸惑う。
(もう一度会いたい、相手のことを知りたい、と思う女性に出会ったのは初めてだな……)
 この十日間の旅路でも、四六時中一緒に居たというのに、嫌なところが一つもないのだ。
 それどころか、周囲を気遣い、思いやりに溢れるエレインの隣は、心地よかった。
 聡明かと思えば、世間知らずな一面もあり、目が離せない。
(だけど……)
 あの乾ききったヘルナミス国の土壌と気候で、効能の高いハーブを育てる彼女がどんな荒業を成しているのか、アランには全く見当がつかなかった。
 エレインも言わないところを見ると、知られたくないのだろうと考えてアランから問いただすようなことはしていないが、気にならないわけがない。
(時々、宙を見つめるような仕草もなんだろうか。それに……)
 ふと、さっき見たエレインの瞳の輝きを思い出し、アランは考えを巡らせる。
 ある一つの仮説が浮かび上がったが、あまりにも非現実的な思考に「まさかな」と早々に消し去った。
(彼女は一体、何者なんだ?)

*1か月経過、7月の中旬

 王宮に着いてから、早くも一月が過ぎた。
 この一月の内に、さっそく収穫したハーブを使ってテオに合わせたシロップやブレンド、アロマオイルなどを製作し、それと並行して少量ではあるが市場への供給も進めている。
 もともとハーブの生産が盛んな国のため、ハーブ自体の供給は足りているようなので、エレインは国民からの需要が高い風邪予防や症状別のブレンドでのシロップやオイルの生産を進めていた。
 必要な機器などはすべてアランが手配してくれて、お願いした次の日にはエレインのもとに届いたためすぐに製作に入れたのが功を奏した。
(機械も最新のものばかりで、使いやすくて文句なし)
 母国では、エレインが必要だと言っても王太子のダミアンがなかなか聞き入れてくれず、エレインが自身の伝手を使って中古品を安く仕入れた物を使っていたため、不具合が出たり効率的ではなかったのだ。
 さらに、ほぼ一日テオの相手をしていて忙しいエレインのために、アランが助手を付けてくれた。
 王室の薬師見習いの一人であるエクトルという、短髪黒髪が男らしい青年だ。
「――では、本日はこちらのハーブをメインに収穫を進め、蒸留してまいります」
「抽出したオイルは、このレシピでブレンドして瓶詰しておいてください。蒸留水も捨てずに、冷めたら保管をお願いします」
「かしこまりました」
 レシピの紙を受け取ったエクトルは、一礼すると早々に持ち場に戻っていった。
 薬師見習いですら、こうも礼儀正しいとは。
(王室の格の違いね)
 国の大小はあれど、こうも待遇に差がでるのか、とエレインはこの国の偉大さをひしひしと感じていた。
 エレインのハーブによってテオの睡眠も再び安定し、日中にも室内で香りを焚いているおかげか、比較的情緒の落ち着いた時間が増えてきている。
 とは言え、癇癪がすぐになくなるはずもなく、一進一退を繰り返しつつテオの愛らしさに癒される日々を送っている。
 おもちゃを投げつけられて青あざができたこともあれば、顔に当たってかすり傷ができたこともある。
 エレインは全く気にしていないのに、それを見たアランが青ざめた顔で陳謝して「もし傷が残ったら、その時は俺が責任を取るから」などと真剣に言うものだからエレインの方が困り果ててしまった。
(あ、あんなことを軽々しく言ってしまえるなんて、信じられない)
 仮にも一国の王子ともあろう人が。
 とエレインは、そのときのことを思い出して顔が熱くなった。
 社交辞令だとわかっていても、男性慣れしていないエレインは胸が高鳴るのを止められなかった。
(きっと、女性の扱いには慣れてるから、誰にでも言っているんだわ)
「エレインさま? 顔が赤いですけど、熱でもあるんじゃないですよね?」
 一緒にテオを見ていたニコルが目ざとく見つけて、訝しむ。
「大丈夫よニコル。ちょっと部屋の中が暑いだけ」
「本当ですか? こっちに来てから朝から晩までちょっと働き過ぎなんですよ。また痩せましたよね? せっかくここまで来る道中で健康的になってきて安心してたのに……」
 ニコルの指摘にぎくりとする。
 母国からこの国に来る馬車の旅の間、エレインができることは食べることと寝ることしかなく、この国に来る頃にはやつれていた頬もふっくらとし、くっきりと濃かった隈も綺麗さっぱりなくなった。
 しかし、テオの相手をする片手間ではハーブに掛けられる時間が足りずに、最近は寝る間も惜しんで書物を読み漁ったり、ブレンドしたりと多忙を極めていたせいで、体重が落ちてきたのは事実だった。
(少し太っていたから、今がちょうどいいんだけど)
「そんなことないわよ。向こうにいたときより、よっぽど休ませてもらっているわ」
 確かに忙しいが、母国にいたときと比べれば雲泥の差だ。
 食事もちゃんとしたものを三食食べれているし、ここには義母たちのようにエレインを害する人たちもいないどころか、やりたいことを前面的に応援して助けてくれる人ばかり。
 不満の一つもなく、快適過ぎるくらいだった。
「あ、そうだ、ちょうどエルダーフラワーのコーディアルシロップを作ったところだから、飲んでみましょうか」
「だぁっ、だぁっ」
 エレインが立ち上がると、それまで馬のおもちゃで遊んでいたテオが足元にしがみついてきた。
 両手でぎゅうっとエプロンを掴んで、つぶらな瞳でエレインを見上げるその必死な姿に胸がきゅんと音を立てる。
「テオドールさまも手伝ってくれるんですか?」
「だぁ!」と両手を広げるのは、抱っこの催促だ。
 ここ一日二日の間で、テオは抱っこをせがむようになった。
 それもエレインだけに。
 アランやニコルが代わろうとしても、全力で嫌がって決してエレインから離れようとしない。
(私にだけとか……可愛すぎる~!)
 テオの体重は十五キロほど。
 なかなかの重労働だが、ずっと抱きしめたいと思っていたエレインからすれば、喜ばしいことこの上なかった。
「じゃぁ、一緒にキッチンに行きましょうか」
 かがんで両手を差し出せば、すがるようにして首元に抱きついてくる小さなからだを、エレインは大切に持ち上げた。
 ニコルに目配せをして、ドアを開けてもらいキッチンを目指す。アランを抱っこしたエレインの後ろをニコルが付いてくる。
「冷たいお水で作りましょうね。エルダーフラワーは、ブドウのような味がしてとっても美味しいんですよ」
「ぶー?」
「そう、ブドウです。テオドールさまもお好きですよね」
「あう、あう」
 テオとの会話を楽しみながらキッチンに向かっていると、「――ほう、噂は本当だったのか」と低い声が届いた。
 声のほうを振り返った二人は、声の主を見て絶句する。
(こ、国王陛下!?)
 艶やかでこしのある黒髪を後ろになでつけ、凛々しい眉と力強い目をした壮年の男は、紺地に金刺繍が施された軍服に身を包んでいる。
 その姿は、見るからに威厳と尊厳に満ちあふれており、立っているだけでその存在に気圧されそうになるほどだ。
 ニコルはさっとエレインの後ろへ下がり、腰を落として頭を下げる。
 テオを抱いていたエレインも、慌てて頭を下げた。
 ここへ来てすぐの頃、アランに城を案内してもらったときに、国王陛下夫妻の姿絵を目にしていたためにすぐに気づけたのが幸いだ。
「こ、国王陛下にご挨拶申し上げます」
「よいよい、楽にしてくれ。――きみがエレインだね」
「はい。隣国・ヘルナミスから参りましたエレインと申します。ご挨拶が遅れ申し訳ございません。陛下とアラン殿下には格別のご配慮を頂戴し、感謝申し上げます」
「あうう?」
 エレインの様子がいつもと違うことに気づいたテオが、顔を覗きこんでくる。そして、陛下の方を向くと小さな指を指して、「め!」と頬を膨らませた。
「はははは! テオに怒られてしまったなぁ。すまないすまない」
 そう笑ったときの面差しに、アランの面影が少し垣間見えた気がした。