夕食時には、アランも同席してくれることになり、三人でテーブルを囲む。
「さ、テオドールさま、お好きなものをお好きなだけ食べてください」
 テーブルには、フルーツや甘いパン、焼き菓子、魚のソテーなどを一口サイズにしたものがずらりと並ぶ。
「エレインもお腹がペコペコなので、ご一緒させていただきますね」
 エレインは魚のソテーを手でつまんで口に放り込んだ。
 アランがそれを見て、目を見開く。
 テオドールの後ろに控えていた給仕もあんぐりと口を開け、信じられないといった顔でエレインを見ている。
 テオドールもまた、大人が手で食べている様子を見て目を瞠って驚いていた。
「んー! 美味しいです! 殿下も頂きましょう?」
 さぁ、と素知らぬ顔で促すエレイン。
 エレインの指示で、テーブルにはフォークすら置かれていない。
 アランは観念したのか、ふっと笑みをこぼすと「そうだね、頂こうか」と食事に手を伸ばした。
 王族として生まれ、育てられてきた彼にとって、手で食事を食べるなど抵抗があっただろう。しかし、彼はエレインの言う通り、なにも言わずにそれをやってのけた。
「うん、美味しい。テオも食べてごらん」
「さ、テオドールさまもどうぞ」
 促されたテオは、恐る恐るフルーツの盛り合わせからカットされた林檎を一切れ掴んで口へ運んだ。
 一口食べて、テオはエレインとアランをちらっと見る。
 二人が笑顔なのを確認すると、また一口頬張った。
 小さな口に林檎が少しずつ消えていく。
 しゃりしゃりと音を立て、もぐもぐと動く頬っぺたを見て、エレインは叫びたくなる衝動をぐっと堪える。
(リスみたいで可愛い……。もう可愛いしか言葉が出てこないわ)
「美味しいですね」
「あむ」
 テオがどんなに顔や服を汚しても、林檎ばかり食べていても、ずっと微笑んで一緒に食べて食事を終えた。
 笑顔こそまだ見れていないが、その瞳は今日一番輝いて見えた。

「驚いた。テオがあんなに穏やかに食事をするなんて、ずいぶん久しぶりな気がする。給仕も驚いていたよ」
「それならよかったのですが」
 食事を終え、船をこぎ始めたテオをベッドに寝かせたあと、エレインはアランの私室でお茶を共にしていた。
 アランの部屋は作りや調度品こそ豪奢だが、華美な装飾はなく落ち着いた空間だった。
「――それにしても、まさか俺まで手で食べさせられるとは思いもよらなかったな」
 肩をすくめるアランに、エレインは恐縮して「それは、その、本当に申し訳ございません」と謝罪する。
「咎めているわけじゃないよ。なにより、テオが美味しそうに食べる姿が見れてよかった」
「お付き合いくださりありがとうございました」
「お礼を言うのは俺の方だよ。それで、きみの見立てを聞いても?」
「はい。テオドールさまのあの症状は、おそらく精神的な問題からきていると思われます」
 話し出したエレインを、アランはじっと見つめて言葉を待つ。
「教会で暮らす孤児たちの中にテオドールさまと同じ症状になる子たちがいました。彼らは、両親を突然亡くしたり、引き離されたり、虐待を受けていたり……心に傷を抱えた子たちでした」
 本当なら言葉が喋れる年齢のはずなのに、赤ちゃん言葉を使ったり、喃語しか発しなかったり、歩けるのにハイハイしかしなくなったりと、まるで乳児のように振舞う姿から「赤子返り」と呼ばれていた。
「赤子返りか……、まさにテオの症状と一致しているな。だけど、これまで雇った世話係の誰もそのようなことは知らなかったのはどうしてだろう」
「これは私の憶測でしかありませんが」と前置きをしてから、エレインは続ける。
「王室の世話係に選ばれる方々はきっと身分の高い方が多いでしょうから、そういった事例を目にすること自体が少ないのかと……」
 教会にくる子どもたちは、みんな特殊な境遇の子どもばかりだから、確率的に言えば雲泥の差だろう。
「なるほど。それで、治すにはどうすれば?」
「とにかく、どんな行動も受け入れて、うんと甘やかしてあげてください。そうすることで安心して元気になっていく子どもを私も実際に見てました。時間はかかるかもしれませんが、テオドールさまもきっと大丈夫です。テオドールさまには殿下もついていらっしゃいますから」
 ね、と笑みを浮かべるエレインに、アランは「ありがとう。本当にありがとう」と声を振り絞る。
 祈りにも似た、切なる思いを含んだ安堵の言葉に、エレインまで喉の奥が詰まる。
(苦しんでいる家族を、そばで見ている方も辛いですからね……)
 いつになったら治るのか、本当に治るのか、先の見えない状態がどんなに辛くて怖いかを知っているエレインには、アランの心情が透けて見えるようだった。
「少しでもお力になれるよう、精いっぱい努めさせていただきます」
「きみが来てくれて本当によかった」
 ふんわりと頬を緩めて、アランはエレインを見つめた。
 灯りは燭台だけの少し暗い室内でも、彼の碧眼は柔らかな輝きを放っている。
 透き通るような青に見つめられると、どうしていいかわからなくなって、視線を泳がせた。
 彼の周りには、相変わらず精霊たちが吸い寄せられるように集まっていき、エレインになにかを訴えるように光っている。
(ふわふわさんたちは、みんな殿下のことが好きね)
 穏やかな空気を纏う彼のそばが心地いいと思うのは、エレインも同じだった。
 一緒にいると、自分も穏やかな気持ちになれるから。
「――エレイン」
 エレインを見つめていたアランがおもむろに立ち上がり、テーブルを回り込んでくる。
「はい」
 ソファに座るエレインの隣に座ると、アランはなにを思ったのか、エレインの両頬を手で包むように挟んで上を向かせた。
 そして、覗き込むようにして顔を近づけてきた。
(え? えっ? なに!?)
 アランの美しい顔が迫る。
 突然の行動にパニックになるエレイン。
 心臓が悲鳴を上げた。
「で、殿下!?」
(無理! 美しすぎて、見れない!)
 鼻先が触れそうなくらいの至近距離に、エレインは堪らず目をぎゅっと閉じてしまう。
「あぁ、目を閉じないでエレイン。もう少しよく見せて」
「へ?」
(目?)
 恐る恐る目を開けると、こちらを覗き込むアランと目が合い、にっこりと微笑まれてしまう。
(だから、顔が良すぎるんですって……!)
 エレインは必死に無の境地になり、至近距離のアランに耐える。
 アランはしばらく角度を変えてエレインの瞳を見たのちに、「やっぱりそうか」と一人で納得するとようやく手を離した。
 解放されたエレインは、ばくばくと暴れる心臓を必死に落ち着かせようと深く呼吸を繰り返す。
「きみは、アンバーの瞳の持ち主なんだね。気づかなかった」
「アンバーの瞳、ですか?」
「あぁ、これもそうか、この国の……。アンバーの瞳っていうのは、光の加減によって色が変わる瞳のことを言うんだ。不躾に触れてすまない、実物を見るのは初めてでつい……」
(初めてって、こんな変哲もない瞳が? この国で茶色の目は少ないのかしら)
「いえ、びっくりしましたが大丈夫です。……殿下? お加減でも悪いのですか?」
 顎に手を当てて俯いてしまったアランに、エレインが心配になって声をかけるが、彼は「少し考え事をしていただけだよ」とすぐに笑顔になった。
「さぁ、今日は疲れただろう、遅くまでありがとう」
「殿下も、ゆっくりお休みください」
 就寝の挨拶をして、長い長い一日がようやく終わった。