夜の帳が下り、就寝の挨拶をして各々解散となった後、エレインは一人宿の一角にある馬車置き場を訪れた。
 見張りの者に断りを入れてから、ひと際目を引く荷馬車の前まで近寄る。
 荷馬車の上には、エレインが実家から持ってきたフランキンセンスの木が置かれていた。
 この木は、エレインが生まれる前から母が大切にしていた特別な木。
 いつ見ても多くの精霊が辺りを漂い、ひと際輝いて見える。
 その輝きを目にするだけで、心が温かくなり、ふわっと軽くなるのだ。
 エレインはそれに寄り添うように、荷台に腰かける。
 母が亡くなってから、エレインは無意識にこの木に母を重ねていた。
 辛いときや、母が恋しくて寂しいときなど、この木に会いに温室を訪ねる。
 この木を見ると母との日々がくっきりと思い出される。
 たった十年、けれどもとても温かくて幸せな十年だった。
 母からもらった愛情がなければ、エレインはここに居なかっただろう。
 もしかしたら、生きてすらいなかったかもしれない。
 そう思うと、人の縁とは不思議なもので、色んな人に出会い、助け助けられ、ときに傷つきながら自分はここにいるのだと、そんなことを考える。
 ――ざ……
 砂の擦れる音がして、エレインは体をビクつかせた。
(だ、誰?)
 こんな夜ふけに一体誰がこんなとこに、と身構えていると聞き慣れた声がエレインの名を呼ぶ。
「――エレイン」
「殿下?」
 思わず立ち上がってアランを迎えるも、暗くてアランの表情までは見えなかった。
 それはアランも同じだったようで、彼は手にしたランプを顔の高さまで持ち上げて、エレインの顔を確認すると「あぁ、よかった……」と安堵のため息をもらした。
「こんな時間にどうされたのですか?」
(なにか急ぎの用でもあったのかしら)
「……エレイン、それはこっちのセリフだよ。見張りの者が教えてくれたんだ。いくら護衛がいるからってこんな夜に一人で出歩くのはいけないよ」
 夜着にガウンを羽織っただけの格好のアランを見るに、知らせを受けて慌てて出てきてくれたのだろう。
 眉尻を下げて困ったような表情でこちらを見つめる彼を目にして、エレインは申し訳ない気持ちになった。
「も、申し訳ございません……」
 彼に促され、二人一緒に荷台に腰を下ろす。
 てっきり宿に連れ戻されると思っていたエレインは拍子抜けしてしまう。
 ふーっと息を吐いて、アランは木を見上げた。
 エレインは、精霊たちがアランの周りに集まっていくのを、なんとなしに眺める。
(ふわふわさんたち、嬉しそう)
 この旅路で、精霊たちが取り立ててアランの周りを好んで飛んでいるのをエレインは不思議に思っていた。
「もしかして……着いてきたこと、後悔してる?」
「え……」
(私の気持ちを、気にかけてくださっていたの?)
 王子という立場の彼から、まさかそんなことを聞かれるとは露とも思っていなくて、エレインはぽかんとしてしまう。
 婚約者だった王太子はもちろん、義母も妹も実の父でさえもエレインの気持ちなどないものとして扱っていたから。
 こんな風に、どう思っているかを聞かれる機会事体がなく、
「いえ、そんなことは決して。私もどうしようか迷っていたので、渡りに船とでも言いましょうか……、後悔はしておりません」
 このたった数日の旅路でさえ、好待遇で快適この上なかったくらいだ。
「なら良かった……。考える隙も与えずに来てしまったから、もしかして心残りがあるのかと心配した」
「そうですね、心残りがないと言えば嘘になりますが……」
 実家の温室も最後まで世話をできなかったのはとても残念だった。
 エレインが居なくなった今、あの温室はきっと放置されて酷い有様になっていることだろう。
 それに、教会での調合や子どもたちへの教育もこのような形で放棄することになったのはエレインにとっては不本意だった。
(でも、教会関係は王太子妃候補としての公務の一環みたいなものだったから……シェリーが代わりにやることになるだろうし)
 エレインが勝手にしゃしゃり出るわけにもいかないのだ。
「ですが、おそらく当分は王都付近でなにかをするのは無理な気もしていたので……。お世話になった人たちには、違う形で返していければなと思っています」
 ようやく自由になれたのだ。その機会はきっとこの先いくらでもある。
 エレインはそう考えていた。
「そうか……。では、どうしてここに?」
「この木の側にいると安心できるというか……とても落ち着くんです」
(ふわふわさんたちがたくさんいるから、賑やかで好き)
「私にとって、実家の温室が母との思い出の場所なんですが、その中でもこの木は特別なんです。母がひと際大切に育てていた木でもあるので、思い入れもあって……。今日はなんとなく、母を近くに感じたくてここに……」
「エレインの母君は、どんな人だった?」
 訊かれて、笑った母の顔が浮かび上がる。
「温室のように、穏やかで温かい人でした」
 こんな風に誰かに母のことを訊かれたのも、話すのも初めてのことで、エレインはゆっくりと言葉を紡いでいく。
「唯一、私に愛をくれた人です」
(父から邪険にされて辛いはずなのに、いつも明るく笑顔で私に接してくれていた……)
 母の強さは、年を重ねるごとに色濃くなっていく。
 できることならば思い出にはしたくなかった。
 エレインにとってかけがえのない母との時間を一つひとつ手繰り寄せるように形をなぞれば、温かさと共にひんやりとした寂しさが込み上げてきて、鼻の奥がツンとする。
「とても素敵な人だね」
「はい……ありがとうございます」
 意図してのことではないのかもしれないけれども、アランが母のことを過去形にしなかったことが、その思いやりが温かく胸に染みる。
(夜でよかった……)
 涙で濡れた瞳に気づかれずに済んで。
 涙がこぼれないように空を仰いで、まばたきをして涙を散らす。
 エレインの涙に気づいたのか、精霊たちはよく晴れた夜空を彩るように宙を舞った。