『本のページが変わった』と理解するべきなのだろう。視界に映るのは、船の船尾だった。
早くもこの感覚に慣れつつある自分に驚きこそ覚えたが、今はその気持ちを上回る別の感情を抱いている。
茜に本の話をしようとしたあの時。身体は勝手に船に向かって歩き出し、俺は自分の意思と異なる言葉を発していた。急に誰かが自分の身体に乗り移ったかのようだった。
思えばあの感覚は、初めてこの本に来た時と似ていた気がする。神社で茜を見つけて、勝手に身体は茜に近づいて行った。俺のコントロール下から外れていた。
そしてその感覚は、まさに今の状況とそっくりだ。
「あーあ。行っちゃったか」
俺と同じように船を見送る茜の声。切なそうで、儚げな茜の顔。俺の知らない顔。
茜の風貌は変わっていないから、本のページが変わったとはいえ同じ日だろうと推測された。
島を出た日のことは覚えている。数人の友人と茜が見送りに来て、最後は気を遣って二人きりにしてくれて、つい先ほど交わした会話をして船に乗り込んだ。
本来なら目の前で遠のくあの船に乗り、俺はこの島を出たはずなのだ。
神社の時と同じ、俺の記憶に存在しない映像。ただあの時と違うのは、自分で自分の身体を動かせているという点だ。俺は俺の意思で手を、足を、動かすことができている。
遠ざかる汽笛を耳にしながら、とりあえず茜を呼んでみようと思った。もしかすると、今度は届くかもしれないと思ったからだ。
でもすぐに、呼ばなければ良かったと後悔する。茜は見向きもしなかったし、俺はまた、茜からは見えていないのだと感じた。一度話せた経験があったからこそ心は痛み、再び振り出しに戻された気がして苦しかった。
茜のついたため息が、やたらと大きく聞こえる。
立ちすくんだままの茜を見ながら、俺は自問自答を繰り返して新しい「正」を探した。
俺が本当に茜の書いた本の中に居て、そのページに書かれた通りに進んでいるとするのなら、書かれていない内容は作り出せないということなのだろうか。あくまで俺が居るのは本の中であり、記載のない内容は〝本の定める事実〟からから逸脱したことになる。俺がここに来たからといって、ペンを持って本を開き、追記していくわけではないのだ。
ただ、そうだとしても疑問はある。俺は本の中身を知らない。それなら一言一句、茜の書いた通りに話せるわけがない。ましてや、茜がそこまで詳細を記載しているのかすら疑わしい。
それならどうして会話が成立した？ なにかギミックが存在している？
そうこう考えているうちに茜は振り返り、船に背を向けて歩き出す。うつむき加減に歩くその姿は、どこか哀愁を帯びているようにも見えた。
「あー、さむ」と口にしては手で肩を擦り、坂道を上っていく。
俺は急いでそのあとを追った。
「遠距離かー……。なんにも考えていないような顔してたけど、匠くんはどんな気持ちなのかねえ」
歩きながら茜が呟く。盗み聞きをしているようで、どこか悪いことをしている気持ちになる。
これを茜に知られたら、本気で怒られるんだろうなと思った。
「次はいつ帰ってくるんだろう。……って、今行ったばっかりか。ははは、うける」
地面に向かって言葉を吐く。口にした言葉と反する顔をして、茜は顔に落ちた髪を耳に掛けた。
「最初は新生活がどうのこうのとか言って、私も仕方ないよーとか返して。でもその内マンネリ化して、全然連絡くれなくなったり……しないといいけど」
人の独り言に興味を持ったことはあったが、この先、そんな感情は抱かないと思う。心の内側は見えないのではなく、見てはいけないのだと感じた。
人が宿す感情の先端は尖っていて、意図せず胸の奥、深いところに刺さってしまうと思ったからだった。
「匠に限って浮気とかはしないだろうけど……、え、しないよね？」
茜が不意に顔を上げる。内容が内容だっただけに、俺に問いかけているような気がして背筋が伸びる。
茜は眉根を寄せながら言う。「浮気なんかした日には〝あれ〟をちょん切って、お弁当のおかずに入れてやるんだから」
伸びた背筋は瞬時に凍り付き、浮気はしないと心に誓った。
「あーあ。こうやって冗談を言っても一人だと虚しく感じちゃうのが悲しいなあ。向こうでも頑張ってほしいのになんだろうな、このモヤモヤする感じ」茜は小さく嘆息する。
「匠って単純だし、最初はきっと向こうの色？ に染まろうとするんだろうな。田舎者だと思われたくないとか言って無理してオシャレして、周りに合わせてバカみたいにお酒飲んで。いや、思いたくないから田舎者とは言わないかもな。まあ、せいぜい楽しめばいいさ。浮かれ始めたら私がビシッと言ってやる」
すべて見透かされていると思った。でもその強気な言葉とは裏腹に、寂しそうな表情を浮かべる茜のことが気になった。
ここまで俺のことを考えてくれる彼女に、俺は何をしてあげられたのだろう。
「ぜんぶぜんぶ、島を出る勇気もない私の醜い嫉妬なんだろうな。結局、匠は色んなことを背負って、勇気を持って島を出たんだもんね」
勇気なんてそんなもの、少しも持っていなかったよ。
「一人で先に行くなっての。置いていかれる側のことなんて気にもしてないだろうけど……私のことも、ちょっとは考えてくれていたのかなあ」やっぱり寂しくなるなあ、と茜は洟を啜った。と思ったら今度は「ダメだ、ダメだ」と邪念を払うようにかぶりを振って頬を叩く。
「匠があっと驚くぐらい、私だって成長してやるんだから！ よーし……」
そう言って茜は、うおー、と声を上げながら走り出した。その顔は、俺の記憶に残る茜の表情そのものだった。
同時に、妙だとも思う。
こんなにも細かく、本に書き残すものだろうか。これも赤いナニカの、あの男の力なのだろうか。
『幸せをもらう』ではなく『預かる』と言ったことに意味があるのなら、茜の記憶や感情も、本の内容に合わせて復元されていると考える方が自然なのかもしれない。
走る茜の背中が遠くなる。小走りで追いながら、俺は目的を整理した。
まず第一に、茜を見つけること。同じナニカを潰した俺がここに居る以上、この本の中に本物の茜が居る可能性は高い。
次に、元の世界に戻ること。本物の茜を見つけたところで、本の中で生きていくわけにはいかない。外に居る亜紀は茜のことを心配している。松田だって、連絡が途絶えた俺を探そうとするかもしれない。
俺はこの二つを、本の中での最優先事項に定めることにした。目的が整理されると今見ている光景すらも、目的を果たすために必要なことのように思えた。
速度を上げ、茜を追いかける。俺はもう、茜を見失いたくない。
見慣れた坂の先に、茜の家が見え始める。体力が持たなかったのか、肩で息をする茜はすっかり歩いている。逆に姿の見えない俺は体力という概念がないらしく、疲労を感じることもなかった。
帰宅した過去の茜は、いつ今日の出来事を本に書くだろう。そのタイミングで運よく別のページを見られるかもしれない。
でも、そううまくはいかないのが現実だ。茜が玄関を開けると内側から光が飛び出して、世界は白色一色に染まっていく。
どこかずっと遠くで、ページの捲れる音が聞こえた。
早くもこの感覚に慣れつつある自分に驚きこそ覚えたが、今はその気持ちを上回る別の感情を抱いている。
茜に本の話をしようとしたあの時。身体は勝手に船に向かって歩き出し、俺は自分の意思と異なる言葉を発していた。急に誰かが自分の身体に乗り移ったかのようだった。
思えばあの感覚は、初めてこの本に来た時と似ていた気がする。神社で茜を見つけて、勝手に身体は茜に近づいて行った。俺のコントロール下から外れていた。
そしてその感覚は、まさに今の状況とそっくりだ。
「あーあ。行っちゃったか」
俺と同じように船を見送る茜の声。切なそうで、儚げな茜の顔。俺の知らない顔。
茜の風貌は変わっていないから、本のページが変わったとはいえ同じ日だろうと推測された。
島を出た日のことは覚えている。数人の友人と茜が見送りに来て、最後は気を遣って二人きりにしてくれて、つい先ほど交わした会話をして船に乗り込んだ。
本来なら目の前で遠のくあの船に乗り、俺はこの島を出たはずなのだ。
神社の時と同じ、俺の記憶に存在しない映像。ただあの時と違うのは、自分で自分の身体を動かせているという点だ。俺は俺の意思で手を、足を、動かすことができている。
遠ざかる汽笛を耳にしながら、とりあえず茜を呼んでみようと思った。もしかすると、今度は届くかもしれないと思ったからだ。
でもすぐに、呼ばなければ良かったと後悔する。茜は見向きもしなかったし、俺はまた、茜からは見えていないのだと感じた。一度話せた経験があったからこそ心は痛み、再び振り出しに戻された気がして苦しかった。
茜のついたため息が、やたらと大きく聞こえる。
立ちすくんだままの茜を見ながら、俺は自問自答を繰り返して新しい「正」を探した。
俺が本当に茜の書いた本の中に居て、そのページに書かれた通りに進んでいるとするのなら、書かれていない内容は作り出せないということなのだろうか。あくまで俺が居るのは本の中であり、記載のない内容は〝本の定める事実〟からから逸脱したことになる。俺がここに来たからといって、ペンを持って本を開き、追記していくわけではないのだ。
ただ、そうだとしても疑問はある。俺は本の中身を知らない。それなら一言一句、茜の書いた通りに話せるわけがない。ましてや、茜がそこまで詳細を記載しているのかすら疑わしい。
それならどうして会話が成立した？ なにかギミックが存在している？
そうこう考えているうちに茜は振り返り、船に背を向けて歩き出す。うつむき加減に歩くその姿は、どこか哀愁を帯びているようにも見えた。
「あー、さむ」と口にしては手で肩を擦り、坂道を上っていく。
俺は急いでそのあとを追った。
「遠距離かー……。なんにも考えていないような顔してたけど、匠くんはどんな気持ちなのかねえ」
歩きながら茜が呟く。盗み聞きをしているようで、どこか悪いことをしている気持ちになる。
これを茜に知られたら、本気で怒られるんだろうなと思った。
「次はいつ帰ってくるんだろう。……って、今行ったばっかりか。ははは、うける」
地面に向かって言葉を吐く。口にした言葉と反する顔をして、茜は顔に落ちた髪を耳に掛けた。
「最初は新生活がどうのこうのとか言って、私も仕方ないよーとか返して。でもその内マンネリ化して、全然連絡くれなくなったり……しないといいけど」
人の独り言に興味を持ったことはあったが、この先、そんな感情は抱かないと思う。心の内側は見えないのではなく、見てはいけないのだと感じた。
人が宿す感情の先端は尖っていて、意図せず胸の奥、深いところに刺さってしまうと思ったからだった。
「匠に限って浮気とかはしないだろうけど……、え、しないよね？」
茜が不意に顔を上げる。内容が内容だっただけに、俺に問いかけているような気がして背筋が伸びる。
茜は眉根を寄せながら言う。「浮気なんかした日には〝あれ〟をちょん切って、お弁当のおかずに入れてやるんだから」
伸びた背筋は瞬時に凍り付き、浮気はしないと心に誓った。
「あーあ。こうやって冗談を言っても一人だと虚しく感じちゃうのが悲しいなあ。向こうでも頑張ってほしいのになんだろうな、このモヤモヤする感じ」茜は小さく嘆息する。
「匠って単純だし、最初はきっと向こうの色？ に染まろうとするんだろうな。田舎者だと思われたくないとか言って無理してオシャレして、周りに合わせてバカみたいにお酒飲んで。いや、思いたくないから田舎者とは言わないかもな。まあ、せいぜい楽しめばいいさ。浮かれ始めたら私がビシッと言ってやる」
すべて見透かされていると思った。でもその強気な言葉とは裏腹に、寂しそうな表情を浮かべる茜のことが気になった。
ここまで俺のことを考えてくれる彼女に、俺は何をしてあげられたのだろう。
「ぜんぶぜんぶ、島を出る勇気もない私の醜い嫉妬なんだろうな。結局、匠は色んなことを背負って、勇気を持って島を出たんだもんね」
勇気なんてそんなもの、少しも持っていなかったよ。
「一人で先に行くなっての。置いていかれる側のことなんて気にもしてないだろうけど……私のことも、ちょっとは考えてくれていたのかなあ」やっぱり寂しくなるなあ、と茜は洟を啜った。と思ったら今度は「ダメだ、ダメだ」と邪念を払うようにかぶりを振って頬を叩く。
「匠があっと驚くぐらい、私だって成長してやるんだから！ よーし……」
そう言って茜は、うおー、と声を上げながら走り出した。その顔は、俺の記憶に残る茜の表情そのものだった。
同時に、妙だとも思う。
こんなにも細かく、本に書き残すものだろうか。これも赤いナニカの、あの男の力なのだろうか。
『幸せをもらう』ではなく『預かる』と言ったことに意味があるのなら、茜の記憶や感情も、本の内容に合わせて復元されていると考える方が自然なのかもしれない。
走る茜の背中が遠くなる。小走りで追いながら、俺は目的を整理した。
まず第一に、茜を見つけること。同じナニカを潰した俺がここに居る以上、この本の中に本物の茜が居る可能性は高い。
次に、元の世界に戻ること。本物の茜を見つけたところで、本の中で生きていくわけにはいかない。外に居る亜紀は茜のことを心配している。松田だって、連絡が途絶えた俺を探そうとするかもしれない。
俺はこの二つを、本の中での最優先事項に定めることにした。目的が整理されると今見ている光景すらも、目的を果たすために必要なことのように思えた。
速度を上げ、茜を追いかける。俺はもう、茜を見失いたくない。
見慣れた坂の先に、茜の家が見え始める。体力が持たなかったのか、肩で息をする茜はすっかり歩いている。逆に姿の見えない俺は体力という概念がないらしく、疲労を感じることもなかった。
帰宅した過去の茜は、いつ今日の出来事を本に書くだろう。そのタイミングで運よく別のページを見られるかもしれない。
でも、そううまくはいかないのが現実だ。茜が玄関を開けると内側から光が飛び出して、世界は白色一色に染まっていく。
どこかずっと遠くで、ページの捲れる音が聞こえた。
