目が覚めると港に居た。
島の港だった。上り坂を駆け上った時とは違い、服装は冬服に変わっている。
これが何を指しているのかは、目の前に立つ茜が教えてくれた。
今の今までそこに居た茜とは違い、茜の髪はぎりぎり肩に掛かる程度のショートヘアで、顔に幼さが追加されている。メイクのことは詳しくないけれど、どこか素材の上に化粧がどんと乗っかっている感じがして、見た目以上に背伸びをしている気がした。
「もう今日になっちゃったね。なんか早かったなー。匠、向こうでちゃんとやって行けそう？」
若返った茜は言った。茜であることには変わりがないはずなのに、違和感ばかりが胸を刺激する。
「いつでも帰って来て良いんだよ？」
眉毛と口角を同時に上げ、揶揄するように言う。やはり茜は茜だと思った。胸に抱いた気持ちも吹き飛んでいく。
こうやって、よくからかいあっていたっけ。
「人の気も知らないで……」
言葉を音にする。いや、自然と零れたと言う方が正しいのだと思う。それくらい、当たり前のように口にした。だからついでに、昔みたく小ばかにするような笑みも浮かべてやった。
こうやってまた話ができたら良いのにと、
「え、なんて？」
思っ……ていた？
茜は首を傾げている。俺は茜を、見つめている。そんな俺を怪訝そうな顔で見る茜が居る。
この状況を現す一文字を俺は知っている。
「は？」
ますます茜は困り顔を浮かべた。
「は？ じゃないわよ。今なにか言ったでしょ？」
とぼけた顔して、と唇を尖らせる。つい、俺はとぼけた顔をしているのかと考えてしまったので、余計にとぼけた顔をしたと思う。そのせいで、「なによ、気持ち悪い」と一転して茜の表情を引きつらせてしまった。
「俺の声、聞こえるの？」
「聞こえるのって……どうしたの？ 映画かなにかの台詞？ だったら私、知らないよ？」
茜はごく自然な反応をしている。茜と会話ができている。
茜がここに居る。
嬉しくて無意識のうちに伸びた手は、茜の腕の感触を感じていた。
「触れる……ということは茜、戻って来てくれたんだな？」
「さわれる？ ご、ごめん。さっきからよく意味がわからないんだけど。それにどちらかと言えば匠が戻って来る側なんじゃない？ 今から島を出て行くわけだから」
見てはいけないものでも見てしまったかのように、茜は顔を引きつらせたまま頭一つ分、上半身を後ろへ引いた。
腕を下ろすと、ポケットの膨らみに触れる。膨らみの正体は今使っている機種よりも一つ前のモデルのスマホだった。
ホーム画面に表示された日付は二年前を示している。
「まさか、あの日よりも過去に……？」
感情が落ち着かない。次から次へと変わっていく心に、終着点はないようだ。
「体調……というか頭が悪いなら島を出るのはまた今度にしたら？ 島の恥さらしになるからさ」
いたずらに笑う茜は、記憶の中で眠る茜を呼び起こす。減らず口は変わっていないけれど、却ってそれが、茜であることを証明している。
「結構本当に……大丈夫？」
上目遣いでこちらの顔を覗き込む茜の表情は神妙な面持ちになっていたけれど、それを可笑しいと思えるくらい、俺の心は穏やかになっていた。
「わかってる。わかってるから」込み上げる笑みを堪えようと首を振る。
「いやいや、全然会話になってないよ？ ごめん。いい加減取れるところにボールを投げてくれる？ ご存知でないのかもしれないから教えてあげるけど、会話ってね、キャッチボールなの」
茜は左手を顔の横へと運び、野球のグローブを現すようにパクパクと動かした。
「あ、わかった。私と離れ離れになるのが寂しいんでしょ？ だからわざと構ってもらえるように、そんなこと言ってるんだ？」
「全く。全然。ようやく静かな生活が送れると思うと嬉しくて、ついつい投球にも力が入っちゃっただけだから。これでやっと勉強にも身が入るわ」
「嘘ばっかり。授業はいっつも寝てたくせに」
この空気。会話の波長、温度感。感じられる全てが懐かしかった。この時ばかりは、今の状況を考えていなかったと思う。たとえこれが過去だとしても、それだって悪くないと思えた。
でも耳の奥で捉えた船の汽笛が、記憶と感情をあの時へと巻き戻す。
これも俺と茜が潰したナニカが見せる幻覚なのだろうか。あの男の差し金で、俺は過去に迷い込んだというのだろうか。
男は言っていた。
『その中身は幸せか』
『幸せの中で生きられる』
あの時茜はノート――ではなく本を持っていて、おそらく男の言う「中身」とはあの本を指している。だとするならば、俺が居るのは本当に茜の本の中なのかもしれない。そう考えれば、ある程度の辻褄が合ってくる。
自問自答を繰り返しながら、俺は一番自分の腑に落ちる回答を「正」としていった。吹けば消えそうな小さな仮説が、一つずつ繋がっていく気がした。
ここはおそらく、俺が島を出た日のページなんだ。
で、あるならば。目の前に居る茜ではなく今の、『本物の茜』も赤いナニカを潰しているのだから、彼女もこの中に居るということになるのではないか。
「本物の茜は、一体どこに……？」
思わず言葉にしていたらしい。『こっちの茜』は、「あのー、すみません。勝手に私を偽者扱いするのは止めてくれません？ やっぱり構ってほしいんでしょ？ 素直になりなって」と口にした。
無駄なことになる気はしたが確認する。
「茜。茜は今、十八歳だよな？ 二十歳じゃないよな？」
「もう！ いつまでそんなつまらないキャッチボール続けるのよ。ついこのまえ誕生日を祝ってくれたじゃない。それともなに？ あれは一回で三歳も歳を取る魔法でも掛かった誕生日だったって言いたいの？」
演技とは思えない表情で答える茜は、本物の茜ではないと思った。茜ならきっと堪えられずに途中で笑っていたはずだ。
それなら本物の茜はどこに？ そもそもどうして、茜は本の中なんかに。
そんな自問に自答する。
そうか。あの本が読めれば、何かがわかるかもしれない。
「茜、悪いけど、あの本を見せてくれないか？ 濃紺色の、見た目がノートのやつ」
「え？ なんて？」
茜の目の色が変わった。「そんなことより、もう出発の時間じゃない？ 私が一緒に居たのに匠が船に乗れなかったなんて、そんな恥ずかしいことできないんだからね？」
「お願いだ！ もう時間がないかもしれない！」
辺りが光に覆われた光景を思い出し、口調は荒くなる。急に焦りが募りだす。
「かもしれない、じゃなくてないの。そりゃそうでしょう？ ただでさえ匠が寝坊して、出発ぎりぎりの時間になってるんだから」茜は俺の背後に回り、ほら急いで、と背中を押した。
「ちょ、ちょっと待てって」と言ったけれど、声は身体の内側に響くような船の大きな汽笛にかき消された。抵抗の意思を見せようと、代わりに足の力を強めてみる。
「匠が自分で決めたことなのに、何をいまさら抵抗してるのよ。本当に間に合わなくなるよ？ さあ、行った、行った」
茜が背中を叩くように押して、俺は少しばかりよろけた。
お願いだ。少しだけでも良いんだ。
そう、口にしたつもりだったが、言葉は出て来てくれなかった。それなのに、自分の意思に反して身体が船に向かって進みだす。
どうなっているんだ――その想いも言葉にはならなかった。
「帰って来たら土産話をたくさん聞かせてやるからな」
俺の声がした。自分の意思ではない言葉が、自分の声となって口を衝く。
「はいはい、楽しみにしてますよー」
手を振る茜が擦れていく。視界が乱れていく。
恐れていた光が、とうとう俺に襲い掛かった。
島の港だった。上り坂を駆け上った時とは違い、服装は冬服に変わっている。
これが何を指しているのかは、目の前に立つ茜が教えてくれた。
今の今までそこに居た茜とは違い、茜の髪はぎりぎり肩に掛かる程度のショートヘアで、顔に幼さが追加されている。メイクのことは詳しくないけれど、どこか素材の上に化粧がどんと乗っかっている感じがして、見た目以上に背伸びをしている気がした。
「もう今日になっちゃったね。なんか早かったなー。匠、向こうでちゃんとやって行けそう？」
若返った茜は言った。茜であることには変わりがないはずなのに、違和感ばかりが胸を刺激する。
「いつでも帰って来て良いんだよ？」
眉毛と口角を同時に上げ、揶揄するように言う。やはり茜は茜だと思った。胸に抱いた気持ちも吹き飛んでいく。
こうやって、よくからかいあっていたっけ。
「人の気も知らないで……」
言葉を音にする。いや、自然と零れたと言う方が正しいのだと思う。それくらい、当たり前のように口にした。だからついでに、昔みたく小ばかにするような笑みも浮かべてやった。
こうやってまた話ができたら良いのにと、
「え、なんて？」
思っ……ていた？
茜は首を傾げている。俺は茜を、見つめている。そんな俺を怪訝そうな顔で見る茜が居る。
この状況を現す一文字を俺は知っている。
「は？」
ますます茜は困り顔を浮かべた。
「は？ じゃないわよ。今なにか言ったでしょ？」
とぼけた顔して、と唇を尖らせる。つい、俺はとぼけた顔をしているのかと考えてしまったので、余計にとぼけた顔をしたと思う。そのせいで、「なによ、気持ち悪い」と一転して茜の表情を引きつらせてしまった。
「俺の声、聞こえるの？」
「聞こえるのって……どうしたの？ 映画かなにかの台詞？ だったら私、知らないよ？」
茜はごく自然な反応をしている。茜と会話ができている。
茜がここに居る。
嬉しくて無意識のうちに伸びた手は、茜の腕の感触を感じていた。
「触れる……ということは茜、戻って来てくれたんだな？」
「さわれる？ ご、ごめん。さっきからよく意味がわからないんだけど。それにどちらかと言えば匠が戻って来る側なんじゃない？ 今から島を出て行くわけだから」
見てはいけないものでも見てしまったかのように、茜は顔を引きつらせたまま頭一つ分、上半身を後ろへ引いた。
腕を下ろすと、ポケットの膨らみに触れる。膨らみの正体は今使っている機種よりも一つ前のモデルのスマホだった。
ホーム画面に表示された日付は二年前を示している。
「まさか、あの日よりも過去に……？」
感情が落ち着かない。次から次へと変わっていく心に、終着点はないようだ。
「体調……というか頭が悪いなら島を出るのはまた今度にしたら？ 島の恥さらしになるからさ」
いたずらに笑う茜は、記憶の中で眠る茜を呼び起こす。減らず口は変わっていないけれど、却ってそれが、茜であることを証明している。
「結構本当に……大丈夫？」
上目遣いでこちらの顔を覗き込む茜の表情は神妙な面持ちになっていたけれど、それを可笑しいと思えるくらい、俺の心は穏やかになっていた。
「わかってる。わかってるから」込み上げる笑みを堪えようと首を振る。
「いやいや、全然会話になってないよ？ ごめん。いい加減取れるところにボールを投げてくれる？ ご存知でないのかもしれないから教えてあげるけど、会話ってね、キャッチボールなの」
茜は左手を顔の横へと運び、野球のグローブを現すようにパクパクと動かした。
「あ、わかった。私と離れ離れになるのが寂しいんでしょ？ だからわざと構ってもらえるように、そんなこと言ってるんだ？」
「全く。全然。ようやく静かな生活が送れると思うと嬉しくて、ついつい投球にも力が入っちゃっただけだから。これでやっと勉強にも身が入るわ」
「嘘ばっかり。授業はいっつも寝てたくせに」
この空気。会話の波長、温度感。感じられる全てが懐かしかった。この時ばかりは、今の状況を考えていなかったと思う。たとえこれが過去だとしても、それだって悪くないと思えた。
でも耳の奥で捉えた船の汽笛が、記憶と感情をあの時へと巻き戻す。
これも俺と茜が潰したナニカが見せる幻覚なのだろうか。あの男の差し金で、俺は過去に迷い込んだというのだろうか。
男は言っていた。
『その中身は幸せか』
『幸せの中で生きられる』
あの時茜はノート――ではなく本を持っていて、おそらく男の言う「中身」とはあの本を指している。だとするならば、俺が居るのは本当に茜の本の中なのかもしれない。そう考えれば、ある程度の辻褄が合ってくる。
自問自答を繰り返しながら、俺は一番自分の腑に落ちる回答を「正」としていった。吹けば消えそうな小さな仮説が、一つずつ繋がっていく気がした。
ここはおそらく、俺が島を出た日のページなんだ。
で、あるならば。目の前に居る茜ではなく今の、『本物の茜』も赤いナニカを潰しているのだから、彼女もこの中に居るということになるのではないか。
「本物の茜は、一体どこに……？」
思わず言葉にしていたらしい。『こっちの茜』は、「あのー、すみません。勝手に私を偽者扱いするのは止めてくれません？ やっぱり構ってほしいんでしょ？ 素直になりなって」と口にした。
無駄なことになる気はしたが確認する。
「茜。茜は今、十八歳だよな？ 二十歳じゃないよな？」
「もう！ いつまでそんなつまらないキャッチボール続けるのよ。ついこのまえ誕生日を祝ってくれたじゃない。それともなに？ あれは一回で三歳も歳を取る魔法でも掛かった誕生日だったって言いたいの？」
演技とは思えない表情で答える茜は、本物の茜ではないと思った。茜ならきっと堪えられずに途中で笑っていたはずだ。
それなら本物の茜はどこに？ そもそもどうして、茜は本の中なんかに。
そんな自問に自答する。
そうか。あの本が読めれば、何かがわかるかもしれない。
「茜、悪いけど、あの本を見せてくれないか？ 濃紺色の、見た目がノートのやつ」
「え？ なんて？」
茜の目の色が変わった。「そんなことより、もう出発の時間じゃない？ 私が一緒に居たのに匠が船に乗れなかったなんて、そんな恥ずかしいことできないんだからね？」
「お願いだ！ もう時間がないかもしれない！」
辺りが光に覆われた光景を思い出し、口調は荒くなる。急に焦りが募りだす。
「かもしれない、じゃなくてないの。そりゃそうでしょう？ ただでさえ匠が寝坊して、出発ぎりぎりの時間になってるんだから」茜は俺の背後に回り、ほら急いで、と背中を押した。
「ちょ、ちょっと待てって」と言ったけれど、声は身体の内側に響くような船の大きな汽笛にかき消された。抵抗の意思を見せようと、代わりに足の力を強めてみる。
「匠が自分で決めたことなのに、何をいまさら抵抗してるのよ。本当に間に合わなくなるよ？ さあ、行った、行った」
茜が背中を叩くように押して、俺は少しばかりよろけた。
お願いだ。少しだけでも良いんだ。
そう、口にしたつもりだったが、言葉は出て来てくれなかった。それなのに、自分の意思に反して身体が船に向かって進みだす。
どうなっているんだ――その想いも言葉にはならなかった。
「帰って来たら土産話をたくさん聞かせてやるからな」
俺の声がした。自分の意思ではない言葉が、自分の声となって口を衝く。
「はいはい、楽しみにしてますよー」
手を振る茜が擦れていく。視界が乱れていく。
恐れていた光が、とうとう俺に襲い掛かった。
