「え？ ここって……」
目の前に広がるのは神社だった。それも実家からも程近い見慣れた神社で、茜と二人で行ったことだってある。
状況がまるで掴めない。見れば見るほど見慣れた神社に、俺はただ混乱するばかりだった
頭の整理も追いつかぬまま、鳥居の下に座る人影が更に頭をかき乱す。
大きめの白いＴシャツに黒のスキニーパンツ。顔立ちは丸く、少し垂れた大きな目。バンスクリップで束ねられたほのかに茶色の髪。そして、記憶に新しいスニーカー。
心なしか痩せた気もするが間違いない。
あれは茜だ。
状況の整理などどうでも良かった。ここがどこでも関係無かった。想いが口から溢れ出す。
「おい、茜！ 茜！」
何度も名前を呼んだ。強く叫ぶように呼んだ。しかし、茜が呼びかけに気づくことはない。静かにじっと、手に抱えたなにかを見つめるように座っている。
夢なのかもしれないと思った。耳を澄ましても、茜を呼ぶ自分の声が響かない。
ただ、自分の意思に反して身体は少しずつ茜に近づいて行った。まるでドキュメンタリー番組でも観ているかのようだった。
茜の目の前まできて、ようやく歩みは止まった。
「茜……？」
意図せずも、その声は優しく囁くようなものになる。でもやはり、望んでいる反応は見られない。
自分はこの世界に存在していない。そんな気さえした。
手を伸ばし、触れようとする。その手は茜をすり抜けて、俺はその先にあるかもわからない空気を握りつぶした。
「一体、何がどうなってるんだよ……」
頭を抱え、茜の隣に腰を下ろす。座ることはできるんだ、と笑ってしまう。横目に映る茜は微かに震えていて、目には涙が浮かんでいる。
彼女をここまで追い込んだ罰なのか。その涙を拭うこともできないのに、どうして俺はここに居るのだろう。
「一緒にいるだけで、幸せだったんだよね」
茜の言葉が胸に刺さる。
とく、とくとく、とくん。
心臓が、俺の知らない速さで脈を打つ。これが痛みに直結しているのかはわからないが、独特な息苦しさは覚えていた。
「会いたいな……匠」
瞳に溜まった涙が揺れる。謝罪を求められてなどいないのに、気付けば「ごめん」と口にしていた。
「ああ、ダメダメ。匠も頑張ってるんだから、私がしっかりしなきゃ」
抱いた感情を振り払うように、茜は大きくかぶりを振る。ヒグラシの鳴き声が、静寂の神社に溶けていく。
何もできない状況は、俺に考える時間をくれた。
茜の部屋。伏せられた写真立て。机に置かれたノート。そして、転がり落ちた赤い〝ナニカ〟。
それを摘んだ途端、強い光に襲われた。ならばこれは、あの光が魅せる幻覚ではないだろうか。
これが俺の結論だった。
ただ、一体なぜこんな幻覚を見せられているのか、その問いに対する答えは見出せそうにもない。
ザッ、ザッ、ザッ――砂利を擦って歩く音がする。音は次第に近くなる。
幻覚であるはずなのに、手には汗を掻いていた。音のする方へ視線を運ぶ。
純白無紋の斎服に身を包んだ何者かが、そこに居た。
身体が熱くなる。手のひらだけでなく、体中から汗が噴き出てくるのがわかる。心臓が激しく暴れている。
この神社の関係者なのだろうか。背格好から、おそらく男性のようだったが、どれだけ瞬きを繰り返しても男の顔をはっきり捉えることができない。呼吸は乱れ、感情が追い付かない。
「それ以上……茜に近づくな」
脳を経由せずに出たかのような声は震えていた。得体のしれない怖さがこの男にはあって、これ以上茜に近づけては行けないと本能で察知していた。
茜はまだ男の存在に気が付いていない。
「おい！ 聞こえないのかよ」魂の叫びでさえ届かない。
茜の前で男は止まる。茜もようやく男の存在に気が付いて、顔を上げた。
この距離に来ても、俺からは男の顔がぼやけている。
「……なにか、ご用ですか？」
茜の声も震えている。
胸の前で、茜が何かを抱きしめる。よく見るとそれは、茜の部屋で見たノートだった。どうしてノートを持っているのかを考える余裕はなかった。ノートの端には細かな皺が寄っている。
男はたぶん、茜のことを見ている。見ているのに、黙っている。なにかを確かめるように、じっと見据えている。
「すみません、私、急ぐので――」
茜が立ち上がろうとした時、
「その中身は〝幸せ〟ですか？」
唐突に、男は言った。
「え……？」
「あなたの手の中にあるモノです。それは、幸せですか？」
諭すような声で、男は優しく語り掛ける。男が手のひらで茜の胸元を指し示すと、それに合わせて茜も抱きかかえていたノートを見た。
どことなく、男は笑っている気がした。
「えっと……、この〝本〟のことですか？」茜は言った。
「そうです」と男は答え、「それは、幸せですか？」と重ねた。
「まあ……、はい。これは私の幸せですけど」
眉根を寄せたまま茜が返事をすると、「それはそれは」と男は数回、首を縦に振る。たぶん、男は笑っている。
「あの……初めまして、ですよね？ あなたは一体、どなたですか？ これ以上はもう――」
「私はあなたのことを、ずっと見ておりました」
こいつ、茜のストーカーか？
男を睨みながら立ち上がる。茜が居なくなったのも、こいつに誘拐されたからかもしれない。
その気持ちが強くなるにつれ、男に対する恐怖心は薄れた。
茜は身体を硬直させていたが無理もない。ストーカーが目の前で自らを「ストーカーです」と自己紹介したようなものなのだ。
「私のことを……ずっと？」
座ったまま、茜が手足を使って後退る。男は茜が下がった分だけ前に出る。
俺は二人を引き離そうと「近づくんじゃねえ！」と威勢よく飛び掛かったが、今度は身体ごと男を擦り抜けてしまった。
「くそ！」
なんなんだよ、と思いながらすぐに振り返る。身体に触れられなくとも、茜と男の間に立とうと思った。
しかし、それより早く男が口を開く。
「正確には、あなただけではありません。この島の全ての人たちを、です」
――全ての、人、たち？ 俺は思わず胸の内で繰り返した。
「この島の……な、何を言っているんですか？」
茜はその場で瞬きを繰り返したあと、小さく口にする。
「その〝幸せ〟――私が預かっておきましょう」
男は質問に答えることなく、茜に向かって手を差し出した。
「私の幸せを？ あなたが？ さっきから何を言ってるんですか？ お願いだからもうこれ以上近づかないで。警察を呼びますよ？」
言いながら、茜が立ち上がる。冗談じゃないこと示すようにポケットからスマホを取り出してみせたが、男は意に介さず茜に顔を近づけた。
そして言った。
「あなたのその幸せは、このままではやがて不幸へと変わる時が来るでしょう。幸せを幸せのまま褪せることなく留めておきたいのなら、私に預けるといい」
直後、男は見た。たぶん俺を。男の突き刺さるような視線は釘のように尖り、俺の胸を刺している。
黙ってみていろ。そんな意味が、視線には込められている。
「現に今、その幸せに苦しんでおられるのでしょう？」
男は穏やかな口調で言う。胸に刺さる痛みは軽減したが言葉が出ない。
俺はどうして、この光景を見ているんだ？
必死に言葉を探すように、茜の視線が泳ぐ。でも、男が茜の言葉を待つことは無かった。
「私に預ければ、あなたは幸せの中で生きられる。その幸せが運命であるのならば、いつか、必ず――……」
男の言葉が突然聞こえにくくなる。水に潜った時のように音がぼやける。今もまだ、男の口は動き続けている。
茜の顔が引きつっていく。
「――この幸せを再び手にしたければ、〝これ〟を使いなさい」
不意に届き始めた男の声が鼓膜を刺激すると、男は懐から、赤く小さなナニカを取り出した。それは茜の机を転がった物によく似ていて、「指で潰すだけでいい」と男は加えた。
男の言った二粒のナニカは今、茜の手のひらに置かれている。茜はそれをじっと見つめていた。
その様子を見て、ある考えが頭を過る。
これを潰したから、俺はここに居る――？
「あれ？ どこに……」
茜の声につられて視線を上げると、男の姿は消えていた。今はもう、人の気配すら感じることはない。
『大丈夫。〝彼〟を信じられるのなら、きっとあなたを見つけ出してくれる』
直接脳内に語り掛けるような男の声。その声は茜にも聞こえたようで、茜はきょろきょろと辺りを見渡している。
「え、なに、夢……？ でも確かに〝あれ〟はここに……」
ザッ……ザザ――……
スノーノイズのような音が辺りを包むと、戸惑いの表情を浮かべる茜の姿が薄れていく。
強い雨音を連想させる音が次第に大きくなり、少しずつ視界が奪われていく。
「なんだこれ。あ、あかね？ 茜……！」
まるで電源が切れたかのように、プツン、という音とともに、俺の視界から光が消えた。
目を閉じたままフワフワと漂っている。そんな感覚だった。暑さを感じることもなくて、身体が少しだけだるい。
ここはどこなんだろう。
ぴくぴくと瞼が痙攣して目を開ける。俺はまた、茜の部屋に居た。でもたぶん、あの時の部屋ではない。
なぜならここには茜が居る。
机に向かって座る茜が、ここに居る。
「帰って……来たのか？ 俺も、茜も」
願望を詰め込んだ言葉を部屋の中に落とす。でも、茜が俺を見ることはない。
俺の声は届いていないのだとすぐにわかった。
諦めるように部屋を見渡すと、茜がこの部屋に居ること以外にも変わっているところが目に付いた。二人の写真はしっかり飾られているし、カレンダーにバツ印もない。綺麗な赤丸が数字を囲っているだけだ。
たぶん、幻覚はまだ続いている。幻覚が何かを見せようとしている。そう思った。
自分でも驚くほどに落ち着いた思考は、考える角度に違いを与える。
「部屋に戻ったわけじゃなくて、部屋に来た、ってことか？」
俺の声が聞こえていたかのようなタイミングで茜が話し出す。
「あれはなんだったんだろう……変な人だったなあ。匠にも聞いてほしいけど、もうしばらく連絡してないしなあ」
茜は器用にペンを指で回しながらため息をつく。
「あー、なんか段々また腹が立ってきた。なによ、あいつ。もう二日も既読つけてないってのに、心配とかはないわけ？ 記念日だったのに……、電話の一つ、よこしなさいよ！」
両手で机を叩いて立ち上がり、ペン立てから油性の黒ペンを手に取ると、カレンダーに大きくバツ印を書き込んだ。その帰り道、睨みを利かせて写真立ても伏せた。
カタ、と写真立ての中の二人がタンスと対面した時だった。電気が走るようにある思いが頭を過り、俺は慌ててポケットへと手を運ぶ。動揺のせいか二度、三度、手はポケットに当たらずズボンの生地を撫でた。
なんとか辿り着いたポケットからスマホを取り、画面を確認すると、そこには松田と飲み会をしたはずの日付が表示されている。
やっぱりそうか。
目の前に広がるこの光景は昨日の話で、俺は今、昨日の茜の部屋に来ているのだと気付いた。
「絶対にいつか後悔させてやるんだから。絶対に忘れてやらないんだから……ってことで、今日のことも本に書いておこ。ついでに日頃の恨みも追加してやる」
そう言って、茜は神社で抱きかかえていたノートに何やら書き始めた。これも幻覚の中にあるからかもしれない。普段は冴えない自分の頭が、今日はやけに冴えている。
もしかして俺が居るのは――このノートの中か？
一度芽生えた思いはすぐに膨らんでいく。
俺がノートに挟まっていた赤いナニカを潰したから、俺はここに連れて来られた？ あの男と茜は実際に会っていた？ 俺が見せられていたのは幻覚ではなく現実だった？
思っていただけなのか、言葉にしていたのかはわからなかったが、脳内で爆発した思考が一気に溢れ出す。
幸せを預かるってなんだ？ 幸せの中で生きられるってどういう意味だ？
部屋に響くペンの音が消えたことを知ったのは、茜が話し始めてからだった。
「……よし。とりあえず、こんなところかな」
ペンを置き、茜は両手を上げて伸びをする。椅子が茜の体重を散らすように後ろへ傾く。
「この本も、なんだかんだで結構溜まってきましたねえ。果たして匠くんはこの本のことを覚えているのでしょうか。まーたノートだの日記だのと言うのかねえ。ちゃんと覚えていれば〝本〟って言うはずなんだけど」
嬉しそうに茜は本と呼ぶノートを掴む。期待の眼差しを向けている。ごめんと口にすることはなかったけれど、謝らないといけないとは思った。
俺は、その話をまるで覚えていなかった。
「あーあ、今日も一人ぼっちか。そろそろ見てくれないかな……私のことも」
ばか、と電源ボタンも押さずに暗いままのスマホに視線を落とし、茜は机に顔を伏せた。その姿を見てようやく、茜も連絡を待っていたのだと知った。松田の言う通りだった。
「あなたを見つけ出してくれる……か。匠は見つけてくれるのかな？」
神社で男から受け取った赤いナニカを手に、茜は言った。
まさか、と思った。
「待て、茜！ よせ！」
俺は叫んだ。自分の声が届かないことも忘れて、必死に叫んだ。
ただ現実は非情で残酷で、どれだけ叫ぼうと、この声が茜に届くことはなかった。茜がナニカを摘み上げていく様を、俺はただただ指を咥えて見つめている。あまりの無力さに、笑えてしまいそうだった。
「……見つけて！」
茜と言葉と共にナニカは崩れて粉と成り、さらさらと部屋の中に落ちていく。
まばゆい光が視界を奪う。目を閉じているのか開けているのかもわからなくなる刹那のこと。
茜が俺を見た。
そんな気がした。
目の前に広がるのは神社だった。それも実家からも程近い見慣れた神社で、茜と二人で行ったことだってある。
状況がまるで掴めない。見れば見るほど見慣れた神社に、俺はただ混乱するばかりだった
頭の整理も追いつかぬまま、鳥居の下に座る人影が更に頭をかき乱す。
大きめの白いＴシャツに黒のスキニーパンツ。顔立ちは丸く、少し垂れた大きな目。バンスクリップで束ねられたほのかに茶色の髪。そして、記憶に新しいスニーカー。
心なしか痩せた気もするが間違いない。
あれは茜だ。
状況の整理などどうでも良かった。ここがどこでも関係無かった。想いが口から溢れ出す。
「おい、茜！ 茜！」
何度も名前を呼んだ。強く叫ぶように呼んだ。しかし、茜が呼びかけに気づくことはない。静かにじっと、手に抱えたなにかを見つめるように座っている。
夢なのかもしれないと思った。耳を澄ましても、茜を呼ぶ自分の声が響かない。
ただ、自分の意思に反して身体は少しずつ茜に近づいて行った。まるでドキュメンタリー番組でも観ているかのようだった。
茜の目の前まできて、ようやく歩みは止まった。
「茜……？」
意図せずも、その声は優しく囁くようなものになる。でもやはり、望んでいる反応は見られない。
自分はこの世界に存在していない。そんな気さえした。
手を伸ばし、触れようとする。その手は茜をすり抜けて、俺はその先にあるかもわからない空気を握りつぶした。
「一体、何がどうなってるんだよ……」
頭を抱え、茜の隣に腰を下ろす。座ることはできるんだ、と笑ってしまう。横目に映る茜は微かに震えていて、目には涙が浮かんでいる。
彼女をここまで追い込んだ罰なのか。その涙を拭うこともできないのに、どうして俺はここに居るのだろう。
「一緒にいるだけで、幸せだったんだよね」
茜の言葉が胸に刺さる。
とく、とくとく、とくん。
心臓が、俺の知らない速さで脈を打つ。これが痛みに直結しているのかはわからないが、独特な息苦しさは覚えていた。
「会いたいな……匠」
瞳に溜まった涙が揺れる。謝罪を求められてなどいないのに、気付けば「ごめん」と口にしていた。
「ああ、ダメダメ。匠も頑張ってるんだから、私がしっかりしなきゃ」
抱いた感情を振り払うように、茜は大きくかぶりを振る。ヒグラシの鳴き声が、静寂の神社に溶けていく。
何もできない状況は、俺に考える時間をくれた。
茜の部屋。伏せられた写真立て。机に置かれたノート。そして、転がり落ちた赤い〝ナニカ〟。
それを摘んだ途端、強い光に襲われた。ならばこれは、あの光が魅せる幻覚ではないだろうか。
これが俺の結論だった。
ただ、一体なぜこんな幻覚を見せられているのか、その問いに対する答えは見出せそうにもない。
ザッ、ザッ、ザッ――砂利を擦って歩く音がする。音は次第に近くなる。
幻覚であるはずなのに、手には汗を掻いていた。音のする方へ視線を運ぶ。
純白無紋の斎服に身を包んだ何者かが、そこに居た。
身体が熱くなる。手のひらだけでなく、体中から汗が噴き出てくるのがわかる。心臓が激しく暴れている。
この神社の関係者なのだろうか。背格好から、おそらく男性のようだったが、どれだけ瞬きを繰り返しても男の顔をはっきり捉えることができない。呼吸は乱れ、感情が追い付かない。
「それ以上……茜に近づくな」
脳を経由せずに出たかのような声は震えていた。得体のしれない怖さがこの男にはあって、これ以上茜に近づけては行けないと本能で察知していた。
茜はまだ男の存在に気が付いていない。
「おい！ 聞こえないのかよ」魂の叫びでさえ届かない。
茜の前で男は止まる。茜もようやく男の存在に気が付いて、顔を上げた。
この距離に来ても、俺からは男の顔がぼやけている。
「……なにか、ご用ですか？」
茜の声も震えている。
胸の前で、茜が何かを抱きしめる。よく見るとそれは、茜の部屋で見たノートだった。どうしてノートを持っているのかを考える余裕はなかった。ノートの端には細かな皺が寄っている。
男はたぶん、茜のことを見ている。見ているのに、黙っている。なにかを確かめるように、じっと見据えている。
「すみません、私、急ぐので――」
茜が立ち上がろうとした時、
「その中身は〝幸せ〟ですか？」
唐突に、男は言った。
「え……？」
「あなたの手の中にあるモノです。それは、幸せですか？」
諭すような声で、男は優しく語り掛ける。男が手のひらで茜の胸元を指し示すと、それに合わせて茜も抱きかかえていたノートを見た。
どことなく、男は笑っている気がした。
「えっと……、この〝本〟のことですか？」茜は言った。
「そうです」と男は答え、「それは、幸せですか？」と重ねた。
「まあ……、はい。これは私の幸せですけど」
眉根を寄せたまま茜が返事をすると、「それはそれは」と男は数回、首を縦に振る。たぶん、男は笑っている。
「あの……初めまして、ですよね？ あなたは一体、どなたですか？ これ以上はもう――」
「私はあなたのことを、ずっと見ておりました」
こいつ、茜のストーカーか？
男を睨みながら立ち上がる。茜が居なくなったのも、こいつに誘拐されたからかもしれない。
その気持ちが強くなるにつれ、男に対する恐怖心は薄れた。
茜は身体を硬直させていたが無理もない。ストーカーが目の前で自らを「ストーカーです」と自己紹介したようなものなのだ。
「私のことを……ずっと？」
座ったまま、茜が手足を使って後退る。男は茜が下がった分だけ前に出る。
俺は二人を引き離そうと「近づくんじゃねえ！」と威勢よく飛び掛かったが、今度は身体ごと男を擦り抜けてしまった。
「くそ！」
なんなんだよ、と思いながらすぐに振り返る。身体に触れられなくとも、茜と男の間に立とうと思った。
しかし、それより早く男が口を開く。
「正確には、あなただけではありません。この島の全ての人たちを、です」
――全ての、人、たち？ 俺は思わず胸の内で繰り返した。
「この島の……な、何を言っているんですか？」
茜はその場で瞬きを繰り返したあと、小さく口にする。
「その〝幸せ〟――私が預かっておきましょう」
男は質問に答えることなく、茜に向かって手を差し出した。
「私の幸せを？ あなたが？ さっきから何を言ってるんですか？ お願いだからもうこれ以上近づかないで。警察を呼びますよ？」
言いながら、茜が立ち上がる。冗談じゃないこと示すようにポケットからスマホを取り出してみせたが、男は意に介さず茜に顔を近づけた。
そして言った。
「あなたのその幸せは、このままではやがて不幸へと変わる時が来るでしょう。幸せを幸せのまま褪せることなく留めておきたいのなら、私に預けるといい」
直後、男は見た。たぶん俺を。男の突き刺さるような視線は釘のように尖り、俺の胸を刺している。
黙ってみていろ。そんな意味が、視線には込められている。
「現に今、その幸せに苦しんでおられるのでしょう？」
男は穏やかな口調で言う。胸に刺さる痛みは軽減したが言葉が出ない。
俺はどうして、この光景を見ているんだ？
必死に言葉を探すように、茜の視線が泳ぐ。でも、男が茜の言葉を待つことは無かった。
「私に預ければ、あなたは幸せの中で生きられる。その幸せが運命であるのならば、いつか、必ず――……」
男の言葉が突然聞こえにくくなる。水に潜った時のように音がぼやける。今もまだ、男の口は動き続けている。
茜の顔が引きつっていく。
「――この幸せを再び手にしたければ、〝これ〟を使いなさい」
不意に届き始めた男の声が鼓膜を刺激すると、男は懐から、赤く小さなナニカを取り出した。それは茜の机を転がった物によく似ていて、「指で潰すだけでいい」と男は加えた。
男の言った二粒のナニカは今、茜の手のひらに置かれている。茜はそれをじっと見つめていた。
その様子を見て、ある考えが頭を過る。
これを潰したから、俺はここに居る――？
「あれ？ どこに……」
茜の声につられて視線を上げると、男の姿は消えていた。今はもう、人の気配すら感じることはない。
『大丈夫。〝彼〟を信じられるのなら、きっとあなたを見つけ出してくれる』
直接脳内に語り掛けるような男の声。その声は茜にも聞こえたようで、茜はきょろきょろと辺りを見渡している。
「え、なに、夢……？ でも確かに〝あれ〟はここに……」
ザッ……ザザ――……
スノーノイズのような音が辺りを包むと、戸惑いの表情を浮かべる茜の姿が薄れていく。
強い雨音を連想させる音が次第に大きくなり、少しずつ視界が奪われていく。
「なんだこれ。あ、あかね？ 茜……！」
まるで電源が切れたかのように、プツン、という音とともに、俺の視界から光が消えた。
目を閉じたままフワフワと漂っている。そんな感覚だった。暑さを感じることもなくて、身体が少しだけだるい。
ここはどこなんだろう。
ぴくぴくと瞼が痙攣して目を開ける。俺はまた、茜の部屋に居た。でもたぶん、あの時の部屋ではない。
なぜならここには茜が居る。
机に向かって座る茜が、ここに居る。
「帰って……来たのか？ 俺も、茜も」
願望を詰め込んだ言葉を部屋の中に落とす。でも、茜が俺を見ることはない。
俺の声は届いていないのだとすぐにわかった。
諦めるように部屋を見渡すと、茜がこの部屋に居ること以外にも変わっているところが目に付いた。二人の写真はしっかり飾られているし、カレンダーにバツ印もない。綺麗な赤丸が数字を囲っているだけだ。
たぶん、幻覚はまだ続いている。幻覚が何かを見せようとしている。そう思った。
自分でも驚くほどに落ち着いた思考は、考える角度に違いを与える。
「部屋に戻ったわけじゃなくて、部屋に来た、ってことか？」
俺の声が聞こえていたかのようなタイミングで茜が話し出す。
「あれはなんだったんだろう……変な人だったなあ。匠にも聞いてほしいけど、もうしばらく連絡してないしなあ」
茜は器用にペンを指で回しながらため息をつく。
「あー、なんか段々また腹が立ってきた。なによ、あいつ。もう二日も既読つけてないってのに、心配とかはないわけ？ 記念日だったのに……、電話の一つ、よこしなさいよ！」
両手で机を叩いて立ち上がり、ペン立てから油性の黒ペンを手に取ると、カレンダーに大きくバツ印を書き込んだ。その帰り道、睨みを利かせて写真立ても伏せた。
カタ、と写真立ての中の二人がタンスと対面した時だった。電気が走るようにある思いが頭を過り、俺は慌ててポケットへと手を運ぶ。動揺のせいか二度、三度、手はポケットに当たらずズボンの生地を撫でた。
なんとか辿り着いたポケットからスマホを取り、画面を確認すると、そこには松田と飲み会をしたはずの日付が表示されている。
やっぱりそうか。
目の前に広がるこの光景は昨日の話で、俺は今、昨日の茜の部屋に来ているのだと気付いた。
「絶対にいつか後悔させてやるんだから。絶対に忘れてやらないんだから……ってことで、今日のことも本に書いておこ。ついでに日頃の恨みも追加してやる」
そう言って、茜は神社で抱きかかえていたノートに何やら書き始めた。これも幻覚の中にあるからかもしれない。普段は冴えない自分の頭が、今日はやけに冴えている。
もしかして俺が居るのは――このノートの中か？
一度芽生えた思いはすぐに膨らんでいく。
俺がノートに挟まっていた赤いナニカを潰したから、俺はここに連れて来られた？ あの男と茜は実際に会っていた？ 俺が見せられていたのは幻覚ではなく現実だった？
思っていただけなのか、言葉にしていたのかはわからなかったが、脳内で爆発した思考が一気に溢れ出す。
幸せを預かるってなんだ？ 幸せの中で生きられるってどういう意味だ？
部屋に響くペンの音が消えたことを知ったのは、茜が話し始めてからだった。
「……よし。とりあえず、こんなところかな」
ペンを置き、茜は両手を上げて伸びをする。椅子が茜の体重を散らすように後ろへ傾く。
「この本も、なんだかんだで結構溜まってきましたねえ。果たして匠くんはこの本のことを覚えているのでしょうか。まーたノートだの日記だのと言うのかねえ。ちゃんと覚えていれば〝本〟って言うはずなんだけど」
嬉しそうに茜は本と呼ぶノートを掴む。期待の眼差しを向けている。ごめんと口にすることはなかったけれど、謝らないといけないとは思った。
俺は、その話をまるで覚えていなかった。
「あーあ、今日も一人ぼっちか。そろそろ見てくれないかな……私のことも」
ばか、と電源ボタンも押さずに暗いままのスマホに視線を落とし、茜は机に顔を伏せた。その姿を見てようやく、茜も連絡を待っていたのだと知った。松田の言う通りだった。
「あなたを見つけ出してくれる……か。匠は見つけてくれるのかな？」
神社で男から受け取った赤いナニカを手に、茜は言った。
まさか、と思った。
「待て、茜！ よせ！」
俺は叫んだ。自分の声が届かないことも忘れて、必死に叫んだ。
ただ現実は非情で残酷で、どれだけ叫ぼうと、この声が茜に届くことはなかった。茜がナニカを摘み上げていく様を、俺はただただ指を咥えて見つめている。あまりの無力さに、笑えてしまいそうだった。
「……見つけて！」
茜と言葉と共にナニカは崩れて粉と成り、さらさらと部屋の中に落ちていく。
まばゆい光が視界を奪う。目を閉じているのか開けているのかもわからなくなる刹那のこと。
茜が俺を見た。
そんな気がした。
