午前八時五十分。東京・竹芝客船ターミナル発の高速ジェット船に乗り、故郷へと向かう。ざわめく胸の内とは対照的に空は青く澄み渡り、海鳥は示し合うように遠くまで響く甲高い声で鳴きながら、ぶつかることなく開放的な空の中を右へ左へと進路を変えている。
久しく見ていなかった光景への興奮ではない。過剰な血液循環なのではないかと感じるほど、心臓は鼓動を速め続けている。揺れの少ない高速船の中、心だけが狭い肉体から飛び出そうとしているようだ。
悪いイメージばかりが膨らんでいく。頭はすっかり冴えている。しかし、もしかすると脳内にはまだ悪魔の残党が居座っているのかもしれなくて、俺は、海風に乗って届く潮の香りに残りの悪魔が浄化されることを願った。
高速船が波を切り裂くその様は、まるでカッターナイフの切れ味だ。波は裂かれたことにも気付かぬように、迷わず前へと進んでいる。
ふと、波は海上に吹いた風が生み出したものということを思い出して、風向きを確認する。今はちょうど追い風で、海風は、島の方面から吹いているようだった。追い返すようにも感じる海風に、島が俺の到着を拒んでいるように感じた。
ポケットに入れたスマホが振動する。画面には、「本日の予定」と表示されていた。
予定を入れた記憶はない。俺は画面を睨みつけ、通知をタップし詳細を開いた。
『茜ちゃんを探す』
松田の仕業だとすぐにわかった。会ったこともない人の彼女を「ちゃん」付けで呼ぶのはあいつしかいない。昨日、どこかのタイミングで俺のスマホを取り、勝手に予定を入れたのだろう。
茜が居なくなってしまったことを松田に伝えたわけではない。だから松田は冗談で、茜に会えていないことを「探す」という言葉で表現したのだと思う。でもその言葉は最も適切な言葉であって、今の俺には強く刺さる言葉だった。
「居なくなったって、どういう意味ですか?」
船の出発を待っている間に、俺が送ったメッセージ。出発から二時間が過ぎた今も、返事は返ってきていない。
宛先は、茜の母親である亜紀だった。もしかすると今も躍起になって探し回っている最中かもしれなくて、重ねての連絡もできてはいない。
亜紀からの連絡が届いた時、俺は『お前のせいだ』と暗に言われた気がした。いや、はっきりと言われるよりも胸に来るものがあった。
考えていても気持ちが晴れるわけではなかったから、写真フォルダを開いてみる。こんな時くらいしか見返さないものなのだなと思った。
画面を縦に大きくスクロールする。当時の写真を見ていると、それを彩る記憶が次々と呼び出されていく。
フォルダ分けはしていなくて、日常の写真の中から茜は突然現れた。
その中の一枚、ちょうど今と同じ時期に撮影したであろう後ろ姿を捉えた写真をタップする。水色でノースリーブのロングワンピースに身を包み、肩よりも伸びた髪は束ねることなく風に吹かれている。
正面を向き、二人で写る写真もあったのに、どうしてこの写真を選んだのかはわからなかった。
茜と交際を始めて、今年で三年目を迎えた。周りに交際三年を越えるカップルは居なくて、唯一俺が都会人に誇れるものだと思ったから、「付き合って三年」の部分を強調することもあった。
上京してから会っていないから、胸を張って言えることなのかどうかは甚だ疑問ではある。しかし、島に居た頃は毎日のように会っていて、「二人きりで会った合計の日数」は世の三年目カップルと同等だからと、自分には言い聞かせていた。おかげで会っていない期間も、茜との繋がりを感じることができている気がした。
松田は一人、「それはお前の都合だ」と言っていた。
茜が居なければ、俺は今ここに居ない。それだけは自信を持って言えるし、そうであってほしいと思う。こんなことを言えば、松田にはまた「お前の都合だ」と言われるだろう。
そこまでわかっていながら、自分の中で思うことは自分勝手で当然なのだと、悪いことではないのだと、俺は自分に暗示をかけていた。自分の居場所がないとか、意味がないとか、進む道が違うとか、そんなことは考えたくもなかった。
『匠なら大丈夫』
そう口にした茜を信じていたいと言うのは傲慢だろうか。その言葉にしがみ付いて歩こうとするのは恥ずべきことなのだろうか。そうだと言うなら教えてほしい。
あなたが歩く理由はなんですか?
問われた時、きっと誰もがもっともらしいことを言う。将来の夢、家族、社会との繋がり。それらは決して間違っていないし、格好良くて憧れる。でも、
歩いていたいから。
それだけの理由じゃ、だめですか?
あの日の帰り道。約束をした時計塔の下。二人で見た初日の出。目を閉じれば浮かんでくる茜はいつも笑っている。瞼の裏にいるなら出てきてほしい。もし愛想をつかしてしまったのなら一言だけ、ごめんと言わせてほしい。
その後の言葉は全て、受け止めるから。
たくさんの茜の笑顔は船の航跡のように記憶の中へと帰っていく。それは、窓から見える逆立つ波たちが広大な海の元へと帰っていく様とよく似ていた。
まもなく島に到着する。一つの塊に見えていた島の顔は変わっていて、大きな樹木や道路、受け入れ態勢に入った防波堤、それら一つひとつが己の姿を主張している。
船は緩やかに減速したが、止まる瞬間、座席は大きく後ろに揺れた。
まばらに席に着く乗船時とは異なり、下船時は乗客が一斉に降りるので多くの人でごった返す。大きなキャリーケースを引く観光客も多く、手荷物一つの身軽な人は見渡す限り自分一人だけだった。人混みを力任せにかき分けたい衝動を抑えながら、誘導に従い進んでいく。列が止まるたびに舌打ちを繰り返し、前に立つ老夫婦は怪訝な顔でこちらを見ていた。
アスファルトは太陽からの恩恵を遠慮なく受けている。日差しを遮る高い建物もないので日陰もなく、辺り一面、同じ色の絨毯を敷いていた。同じような画角の情景を写真に収める観光客が愚かに見えた。
影を置き去りにするように、俺は足を動かした。前へ前へと踏み出す足は次第に速くなっていく。運動不足でなまった身体の限界を考える余裕などなかった。
目指したのは茜の家だった。連絡がないのなら直接話を聞くしかないし、茜の居場所に関する手掛かりが残っているかもしれない。
紆余曲折している道を上る速度は、もはや早歩きと変わらないくらいまで落ちている。暑い。苦しい。でも一度足を止めたらもう動けないと思った。
乱れる呼吸に気付かない振りをして、脇腹に手を当てながら俺は進んだ。
今にも止まりそうな足とは対照的に、瞳はしっかりと前を捉えていてくれた。お陰で見慣れた家が視界に入るのも早かった。
理屈は知らないが、目的地を視覚で確認できた瞬間に疲れは和らぎ、まだ走れるという錯覚に陥る。外気と同じ温度に熱された酸素を肺の深いところまで取り入れると、その錯覚から覚めないうちに最後の力を足に集中させた。
『宮内』の表札が、呼吸とともに上下に動く。膝に手をつき、息を整えることも忘れたままインターフォンへと手を伸ばす。
モニターで確認する習慣がないのか、声が届くよりも先に玄関の扉は開いた。
「あなたは……」
「お久し……ぶりです」
出迎えてくれたのは茜の母、宮内亜紀だった。亜紀はしばらく目を細めてこちらを見ていたが、訪問者が娘の彼氏だとわかったのか、目の色を変えて小走りで近づいてきた。
「匠くん」
「茜……さんが、いなくなったって……」
擦れた声しか出なかった。それでも亜紀は、「とりあえず上がって」と自宅に招いてくれた。簡単な挨拶すらしないまま、数年振りの茜の自宅に足を踏み入れる。機械で冷やされた空気に乗った懐かしい香りが身体を包むと、今までの疲労は嘘のように消えた。
歩きやすいからと茜が好んで履いていた二足の同じ型番のスニーカーは、今も玄関に綺麗に並べられたままだった。
「どうぞ、座って」
玄関からすぐのリビングに案内され、革のソファに腰を下ろす。火照った身体に革の冷たさが沁みる。
記憶の隅にある茜の家が上書きされる。整理整頓の行き届いた印象だったリビングは、探し物をしていた最中かのように散らかっていた。
亜紀が赤茶色の上品なお盆に、お茶の入ったコップを乗せて運んでくる。そのコップをテーブルに置き、俺に向かい合う形で正座をするやいなや、
「匠くん。茜から、何か聞いていない?」と流れるように口にした。
時を埋めるような会話をすることもない。ただ疑いの目を向けられている。その目は「正直に言ってね」と釘を刺されているようで怖かった。
コップのお茶を一気に半分ほど口にする。正面から見た亜紀の顔は酷くやつれていた。その顔を見ていると、潤いを取り戻した喉をもってしても、「いえ、僕も本当に何が何だかわからなくて」と返すのが精一杯だった。
亜紀は小さく嘆息を漏らす。
「そう……。最近悩んでいる様子だったとか、ちょっとした変化でも良いの。あの子、家の中じゃ自分のことを殆ど話さないから」
「本当、すみません……」どうしても視線を合わせられず、床に向かって言葉を吐く。
「いきなりごめんなさいね。どんな小さなことでも、思い出したら教えてちょうだいね」
亜紀は笑った。初めて大の大人の、偽りの笑顔を見た気がした。
そのまますっと立ち上がり、キッチンへと戻ろうとする亜紀の背中に問う。
「茜さんの部屋、入っても良いですか?」
亜紀は振り返ることもせず、「もちろん。あの子がいなくなって掃除をしていないから、少し散らかっているかもしれないけれど」と言った。
軽く洟を啜ったから、泣いているのかもしれないと思った。だけど掛ける言葉は出て来なくて、俺は亜紀に聞こえるかもわからない声で「すみません」とだけ呟いた。
二階にある茜の部屋へと向かう。
「確かに部屋に居たはずなのよ……」
リビングから微かに聞こえた亜紀の言葉が、しばらく耳から離れなかった。
茜の部屋のドアノブは、革のソファよりも、亜紀のくれたお茶よりも、ずっとずっと冷たかった。
扉を開けると、茜の部屋と繋がった。全体が薄い青色で統一され、化粧品や動物をモチーフにしたキャラクター物の人形が置いてあるこの部屋は、どこかに隠れているのではないかと思うほど茜の香りで満たされている。
リビングとは違い、部屋は以前と大きく変わっていない。そのせいか変わったのは自分の方だと思えてきて、リビング以上に苦しい気がした。
一方で、一目で変わったとわかる部分もあった。小さめのタンスの上に置かれていた二人で撮った写真を入れた見覚えのある写真立ては裏返しに、二人の記念日が記されたカレンダーには丸印の上から大きくバツが刻まれている。これだけで亜紀が疑いの目を向ける理由は十分だと思ったし、その判断は正しい気がした。
「茜が居なくなった」という事実の重みを、ようやく肌で感じることができた。
亜紀の言葉が真実だとするのなら、茜は居なくなる直前までこの部屋に居た。亜紀に気付かれることなく階段を降り、家を出た可能性もあるが、玄関には茜のスニーカーが置かれたままだった。
遠くに行くつもりだったのなら、あのスニーカーを履いていくはずだと思った。
「もしかして、部屋に誰かが侵入して」
そう口にして、視線を窓へ向けようとした時、俺は机の上に置かれた一冊のノートに目を奪われた。
「これって確か……」
自然と手は伸びていた。多少年季が入っているが間違いない。
俺は、このノートを知っている。
濃紺色のノートが記憶を呼び起こす前に、何かが机の上に転がり落ちた。小さな実、あるいは種だろうか。それはこの夏に見られるはずだったミニトマトのように丸く真っ赤な〝ナニカ〟だった。
おもむろに手で摘まんでみる。すると、小さなナニカは砂のようにさらさらと指の隙間から崩れ落ちた。同時に強い光が部屋中の色を奪う。
思わず強く目を瞑った、その時だった。
『――……見つけて』
聞こえた。遠くから、茜の声が。
「茜?」
声に出し、俺はゆっくりと目を開けた。でもそこに、茜の姿はない。
それどころか開けた視界に映る景色も、茜の部屋ではなくなっていた。
久しく見ていなかった光景への興奮ではない。過剰な血液循環なのではないかと感じるほど、心臓は鼓動を速め続けている。揺れの少ない高速船の中、心だけが狭い肉体から飛び出そうとしているようだ。
悪いイメージばかりが膨らんでいく。頭はすっかり冴えている。しかし、もしかすると脳内にはまだ悪魔の残党が居座っているのかもしれなくて、俺は、海風に乗って届く潮の香りに残りの悪魔が浄化されることを願った。
高速船が波を切り裂くその様は、まるでカッターナイフの切れ味だ。波は裂かれたことにも気付かぬように、迷わず前へと進んでいる。
ふと、波は海上に吹いた風が生み出したものということを思い出して、風向きを確認する。今はちょうど追い風で、海風は、島の方面から吹いているようだった。追い返すようにも感じる海風に、島が俺の到着を拒んでいるように感じた。
ポケットに入れたスマホが振動する。画面には、「本日の予定」と表示されていた。
予定を入れた記憶はない。俺は画面を睨みつけ、通知をタップし詳細を開いた。
『茜ちゃんを探す』
松田の仕業だとすぐにわかった。会ったこともない人の彼女を「ちゃん」付けで呼ぶのはあいつしかいない。昨日、どこかのタイミングで俺のスマホを取り、勝手に予定を入れたのだろう。
茜が居なくなってしまったことを松田に伝えたわけではない。だから松田は冗談で、茜に会えていないことを「探す」という言葉で表現したのだと思う。でもその言葉は最も適切な言葉であって、今の俺には強く刺さる言葉だった。
「居なくなったって、どういう意味ですか?」
船の出発を待っている間に、俺が送ったメッセージ。出発から二時間が過ぎた今も、返事は返ってきていない。
宛先は、茜の母親である亜紀だった。もしかすると今も躍起になって探し回っている最中かもしれなくて、重ねての連絡もできてはいない。
亜紀からの連絡が届いた時、俺は『お前のせいだ』と暗に言われた気がした。いや、はっきりと言われるよりも胸に来るものがあった。
考えていても気持ちが晴れるわけではなかったから、写真フォルダを開いてみる。こんな時くらいしか見返さないものなのだなと思った。
画面を縦に大きくスクロールする。当時の写真を見ていると、それを彩る記憶が次々と呼び出されていく。
フォルダ分けはしていなくて、日常の写真の中から茜は突然現れた。
その中の一枚、ちょうど今と同じ時期に撮影したであろう後ろ姿を捉えた写真をタップする。水色でノースリーブのロングワンピースに身を包み、肩よりも伸びた髪は束ねることなく風に吹かれている。
正面を向き、二人で写る写真もあったのに、どうしてこの写真を選んだのかはわからなかった。
茜と交際を始めて、今年で三年目を迎えた。周りに交際三年を越えるカップルは居なくて、唯一俺が都会人に誇れるものだと思ったから、「付き合って三年」の部分を強調することもあった。
上京してから会っていないから、胸を張って言えることなのかどうかは甚だ疑問ではある。しかし、島に居た頃は毎日のように会っていて、「二人きりで会った合計の日数」は世の三年目カップルと同等だからと、自分には言い聞かせていた。おかげで会っていない期間も、茜との繋がりを感じることができている気がした。
松田は一人、「それはお前の都合だ」と言っていた。
茜が居なければ、俺は今ここに居ない。それだけは自信を持って言えるし、そうであってほしいと思う。こんなことを言えば、松田にはまた「お前の都合だ」と言われるだろう。
そこまでわかっていながら、自分の中で思うことは自分勝手で当然なのだと、悪いことではないのだと、俺は自分に暗示をかけていた。自分の居場所がないとか、意味がないとか、進む道が違うとか、そんなことは考えたくもなかった。
『匠なら大丈夫』
そう口にした茜を信じていたいと言うのは傲慢だろうか。その言葉にしがみ付いて歩こうとするのは恥ずべきことなのだろうか。そうだと言うなら教えてほしい。
あなたが歩く理由はなんですか?
問われた時、きっと誰もがもっともらしいことを言う。将来の夢、家族、社会との繋がり。それらは決して間違っていないし、格好良くて憧れる。でも、
歩いていたいから。
それだけの理由じゃ、だめですか?
あの日の帰り道。約束をした時計塔の下。二人で見た初日の出。目を閉じれば浮かんでくる茜はいつも笑っている。瞼の裏にいるなら出てきてほしい。もし愛想をつかしてしまったのなら一言だけ、ごめんと言わせてほしい。
その後の言葉は全て、受け止めるから。
たくさんの茜の笑顔は船の航跡のように記憶の中へと帰っていく。それは、窓から見える逆立つ波たちが広大な海の元へと帰っていく様とよく似ていた。
まもなく島に到着する。一つの塊に見えていた島の顔は変わっていて、大きな樹木や道路、受け入れ態勢に入った防波堤、それら一つひとつが己の姿を主張している。
船は緩やかに減速したが、止まる瞬間、座席は大きく後ろに揺れた。
まばらに席に着く乗船時とは異なり、下船時は乗客が一斉に降りるので多くの人でごった返す。大きなキャリーケースを引く観光客も多く、手荷物一つの身軽な人は見渡す限り自分一人だけだった。人混みを力任せにかき分けたい衝動を抑えながら、誘導に従い進んでいく。列が止まるたびに舌打ちを繰り返し、前に立つ老夫婦は怪訝な顔でこちらを見ていた。
アスファルトは太陽からの恩恵を遠慮なく受けている。日差しを遮る高い建物もないので日陰もなく、辺り一面、同じ色の絨毯を敷いていた。同じような画角の情景を写真に収める観光客が愚かに見えた。
影を置き去りにするように、俺は足を動かした。前へ前へと踏み出す足は次第に速くなっていく。運動不足でなまった身体の限界を考える余裕などなかった。
目指したのは茜の家だった。連絡がないのなら直接話を聞くしかないし、茜の居場所に関する手掛かりが残っているかもしれない。
紆余曲折している道を上る速度は、もはや早歩きと変わらないくらいまで落ちている。暑い。苦しい。でも一度足を止めたらもう動けないと思った。
乱れる呼吸に気付かない振りをして、脇腹に手を当てながら俺は進んだ。
今にも止まりそうな足とは対照的に、瞳はしっかりと前を捉えていてくれた。お陰で見慣れた家が視界に入るのも早かった。
理屈は知らないが、目的地を視覚で確認できた瞬間に疲れは和らぎ、まだ走れるという錯覚に陥る。外気と同じ温度に熱された酸素を肺の深いところまで取り入れると、その錯覚から覚めないうちに最後の力を足に集中させた。
『宮内』の表札が、呼吸とともに上下に動く。膝に手をつき、息を整えることも忘れたままインターフォンへと手を伸ばす。
モニターで確認する習慣がないのか、声が届くよりも先に玄関の扉は開いた。
「あなたは……」
「お久し……ぶりです」
出迎えてくれたのは茜の母、宮内亜紀だった。亜紀はしばらく目を細めてこちらを見ていたが、訪問者が娘の彼氏だとわかったのか、目の色を変えて小走りで近づいてきた。
「匠くん」
「茜……さんが、いなくなったって……」
擦れた声しか出なかった。それでも亜紀は、「とりあえず上がって」と自宅に招いてくれた。簡単な挨拶すらしないまま、数年振りの茜の自宅に足を踏み入れる。機械で冷やされた空気に乗った懐かしい香りが身体を包むと、今までの疲労は嘘のように消えた。
歩きやすいからと茜が好んで履いていた二足の同じ型番のスニーカーは、今も玄関に綺麗に並べられたままだった。
「どうぞ、座って」
玄関からすぐのリビングに案内され、革のソファに腰を下ろす。火照った身体に革の冷たさが沁みる。
記憶の隅にある茜の家が上書きされる。整理整頓の行き届いた印象だったリビングは、探し物をしていた最中かのように散らかっていた。
亜紀が赤茶色の上品なお盆に、お茶の入ったコップを乗せて運んでくる。そのコップをテーブルに置き、俺に向かい合う形で正座をするやいなや、
「匠くん。茜から、何か聞いていない?」と流れるように口にした。
時を埋めるような会話をすることもない。ただ疑いの目を向けられている。その目は「正直に言ってね」と釘を刺されているようで怖かった。
コップのお茶を一気に半分ほど口にする。正面から見た亜紀の顔は酷くやつれていた。その顔を見ていると、潤いを取り戻した喉をもってしても、「いえ、僕も本当に何が何だかわからなくて」と返すのが精一杯だった。
亜紀は小さく嘆息を漏らす。
「そう……。最近悩んでいる様子だったとか、ちょっとした変化でも良いの。あの子、家の中じゃ自分のことを殆ど話さないから」
「本当、すみません……」どうしても視線を合わせられず、床に向かって言葉を吐く。
「いきなりごめんなさいね。どんな小さなことでも、思い出したら教えてちょうだいね」
亜紀は笑った。初めて大の大人の、偽りの笑顔を見た気がした。
そのまますっと立ち上がり、キッチンへと戻ろうとする亜紀の背中に問う。
「茜さんの部屋、入っても良いですか?」
亜紀は振り返ることもせず、「もちろん。あの子がいなくなって掃除をしていないから、少し散らかっているかもしれないけれど」と言った。
軽く洟を啜ったから、泣いているのかもしれないと思った。だけど掛ける言葉は出て来なくて、俺は亜紀に聞こえるかもわからない声で「すみません」とだけ呟いた。
二階にある茜の部屋へと向かう。
「確かに部屋に居たはずなのよ……」
リビングから微かに聞こえた亜紀の言葉が、しばらく耳から離れなかった。
茜の部屋のドアノブは、革のソファよりも、亜紀のくれたお茶よりも、ずっとずっと冷たかった。
扉を開けると、茜の部屋と繋がった。全体が薄い青色で統一され、化粧品や動物をモチーフにしたキャラクター物の人形が置いてあるこの部屋は、どこかに隠れているのではないかと思うほど茜の香りで満たされている。
リビングとは違い、部屋は以前と大きく変わっていない。そのせいか変わったのは自分の方だと思えてきて、リビング以上に苦しい気がした。
一方で、一目で変わったとわかる部分もあった。小さめのタンスの上に置かれていた二人で撮った写真を入れた見覚えのある写真立ては裏返しに、二人の記念日が記されたカレンダーには丸印の上から大きくバツが刻まれている。これだけで亜紀が疑いの目を向ける理由は十分だと思ったし、その判断は正しい気がした。
「茜が居なくなった」という事実の重みを、ようやく肌で感じることができた。
亜紀の言葉が真実だとするのなら、茜は居なくなる直前までこの部屋に居た。亜紀に気付かれることなく階段を降り、家を出た可能性もあるが、玄関には茜のスニーカーが置かれたままだった。
遠くに行くつもりだったのなら、あのスニーカーを履いていくはずだと思った。
「もしかして、部屋に誰かが侵入して」
そう口にして、視線を窓へ向けようとした時、俺は机の上に置かれた一冊のノートに目を奪われた。
「これって確か……」
自然と手は伸びていた。多少年季が入っているが間違いない。
俺は、このノートを知っている。
濃紺色のノートが記憶を呼び起こす前に、何かが机の上に転がり落ちた。小さな実、あるいは種だろうか。それはこの夏に見られるはずだったミニトマトのように丸く真っ赤な〝ナニカ〟だった。
おもむろに手で摘まんでみる。すると、小さなナニカは砂のようにさらさらと指の隙間から崩れ落ちた。同時に強い光が部屋中の色を奪う。
思わず強く目を瞑った、その時だった。
『――……見つけて』
聞こえた。遠くから、茜の声が。
「茜?」
声に出し、俺はゆっくりと目を開けた。でもそこに、茜の姿はない。
それどころか開けた視界に映る景色も、茜の部屋ではなくなっていた。



