本を歩く

 心の内側まで見られているのかもしれない。澄んだ瞳は俺を捉えて、瞬きすらもしていない。

 俺の言葉を聞いて、一体どう思ったのだろう。

 その答えを待つ俺は、思念の神さまから目を離せずにいた。


「愚かだとは思わないか?」


 質問の意図がわからない。投げられた言葉は想像以上に短かったけれど、俺は言葉を返せなかった。

 ただ視線を切ってはいけない気はしていて、瞳の渇きを覚えながらも必死に前を向いていた。

「満たされたい。幸せでありたい。幸せを預けた者も例外ではなく、誰もがそう願うだろう。だがね、幸せを預けた者ほど辿り着けずにいるものだ。なぜだと思う?」

 これは、俺に向けられた言葉なのだろうか。あるいは過去、思念の神さまに幸せを預けた人に向けた言葉なのか。

 ゆっくりと語り掛けるような口調が俺の胸の鼓動を速めたが、頭の回転までは速めてはくれない。この場に適当な言葉が見当たらない。

 思念の神さまが息を吐いた気がする。


「自分と向き合おうとしないから。今の自分を受け入れようとしないからだ。記憶はいずれ薄れていく。薄れた過去を見るということは、自分と向き合うことと同義になる。それなのに過去を美化し、他人を羨み、理想を抱く。だから気が付くこともない。幸せが、自分の胸の中にあることに」


 薄青色の瞳が俺を睨んでいる。有無を言わさぬ圧力が、針のように全身に突き刺さる。

 俺が後ずさることなく立っていられたのは、茜が俺の手を握ってくれていたからだった。

「そのとおりなのかもしれません。でも、」

 ようやく喉を通過した声はあまりにも小さくて、雨が降り続いていたら届きもしなかったと思う。でも、


「幸せって、ここにあるものだけではないと思うんです」


 胸を叩いて俺は言った。声を振り絞って、言葉を吐き出した。

「……というと?」

 思念の神さまが顔を上げ、俺を見下すような視線を向ける。俺を試そうとしている。


「大切なのは、記憶を想いと一緒に保管すること。この言葉のとおりです。記憶だけではなく、想いも忘れずに居続ける。それが〝幸せを胸に刻む〟ということなんですよね? たしかに過去の中には忘れてしまった幸せもあります。だけど今この瞬間から繋がっていく、未来の幸せだってあるはずです。胸に刻むだけじゃない。記憶も想いも、この先もずっと〝刻み続けていくこと〟が本当の幸せなのだと思います。あなたは幸せを預けた人たちに幸せの始まりを気付かせ、刻んでくれていた」


 茜が俺の手を強く握る。俺の背中を押すように、その温もりを分けてくれている。

 この優しさは、過去のものではない。


「だからこそ、ここで誓います」


 本の巻末から始まった物語。俺たちの始まりは、ここからだった。

 もう大丈夫。俺は逃げない。茜が過去を振り返り、目を向けていた〝あの頃の気持ち〟も、俺の想いも、今はたしかにここにある。

 このベンチに座って、俺は茜に告げた。


 ――これからも二人で歩いて行こう。


 俺が茜に、そう告げたんだ。

「俺は歩いていく。これからもずっと、茜と一緒に歩いていきます。それが俺たちの、初めて交わした約束だから」

 雨の匂いを拭い去るように、風が草を揺らして吹き抜ける。青々とした葉先から、雨の雫が零れていく。

 静寂が流れる。でもなにも怖くはない。繋いだ手の真実が、俺を支え続けてくれる。

「なるほど……。それが彼女の幸せの大元にある想いであると言いたいんだね?」

 また俺を睨む。今度は見返すだけじゃなく、胸を張って頷いた。

 思念の神さまの肩が大きく下がる。そして、「人生は山あり谷ありだ」と言ったその声は、随分と穏やかなものだった。

「止まらない時間を切り取って、瞬間に良し悪しを当てはめる。これができるのは感情を持った生物の特権だ。結果として、物事の分岐点になることだってある。でもね。幸せと感じた瞬間。その一瞬だけは、間違いなくその人にとっての〝理想の瞬間〟なんだ。この一瞬を感じることができたのなら、あとは刻むだけで良い。理想は高くある必要もないし、幸せは大きくなくとも構わない。ただその一瞬の記憶を、想いとともに深く刻んでほしい」

 その言葉は、俺の心の中にきれいに収まった気がした。まるで血液に混じって全身を巡るような、そんな感覚すらも覚えた。


「心から彼を信じた結果だよ」


 茜に向けたその顔は、優しさと温もりに溢れた笑顔だった。


「預かっていたこの幸せは、きちんと彼女の元へ返そう」


 過去が終わる。いや、今と繋がる。これですべてが終わったのだと俺は思った。

「ひとつ、聞いてもいいですか」

 だから茜がそう口にしたことは、驚き以外のなにものでもなかった。

 思念の神さまは不思議そうな顔を浮かべたが、茜の言葉を促すように眉を上げた。

「今まで幸せを預けた人たちは、自分から思念の神さまを訪ねてきたんですよね? それならどうしてあのとき、私の前に現れたんですか? 私はあなたに頼ろうとしたわけじゃない。存在すら知らなかったんですよ?」

 思念の神さまが決められた神社に身を置かなかった理由。茜曰く、それはより多くの幸せを預かるため。そしてその幸せを預かった人たちというのは思念の神さまを認知し、幸せを胸に刻みたいと願った人だ。

 茜はその内のひとりには該当しない。ただあの場に居合わせただけ。

 思念の神さまと繋がり、その想いに近づいた茜が疑念を抱くのは当然のことなのかもしれなかった。

 ああ、と笑みを零し、思念の神さまは言う。


「見たくなったんだ。きみたちが理想や幸せを刻む瞬間を」

「幸せを刻む瞬間……ですか?」

「私は本当に多くの幸せを預かってきた。だがこの数十年もの間、残念ながら私が人々の胸に新たな幸せを刻むことはなかった。人々の生活が豊かになるにつれ、幸せに対する基準が高くなってきたのかもしれない。求める基準が高くなれば小さな幸せに気付く機会が減るだけでなく、自然と理想も高くなるからね。こればかりは致し方のないことで、時代の流れとも言えるだろう。いよいよ私にできることもなくなった。そう思っていたときだ。きみが私の前に現れたのは」


 美しい瞳は当時を思い返すかのように、どこか遠くを見ている。

「匠くん。きみの言った通り、彼女は『未来へと繋がる幸せ』を見ていたんだ。決して大きなものではなかったのかもしれないが、彼女はきみを信じた上で、自分自身と向き合おうとしていた。本人はその気持さえ揺らいでしまっていると思っていたみたいだけどね。そんな人間を、私はもう久しく見ていなかった気がする。だから彼女にとっての〝この幸せ〟は特別なものであると直感が働いてね。気が付いたら話し掛けていた。彼女が幸せを刻む瞬間を見届けたいと思ったし、その想いを刻みたいと思ったんだ」

「そんな。あのときはただ……」

 茜は首を振って否定したが、思念の神さまは微笑みで返して続ける。

「人間は感情を重んじる生き物だ。それゆえ時に弱くなる。ただその弱さは悪いことではない。だからこそ理想は一層輝き、人々の生きる糧となって追い求めていくのだからね。大切なのは、辛いときこそ自分と向き合い、どうして行きたいかを考え、自分に正直になって動いていけるかだ。その意思の強さが、幸せをより深く胸に刻むことに繋がるのだと私は考えている」

 雲の隙間から光が差す。光は思念の神さまを包んでいく。


 まさにその姿は〝神〟そのものだった。


 ようやく俺は思念の神さまの優しさと寂しさを知った気がした。

「いや……本当に良いものを見させてもらった。素晴らしい想いを、刻ませてもらったよ」

 自分の胸をぎゅっと掴む仕草を見せて、思念の神さまは言った。

「そうだ。最後に私からもひとつ、聞かせてくれないか?」

 俺は茜と目を合わせ、二人を代表するように頷いた。


「神だって――幸せを求め続けても良いとは思わないかい?」


 思念の神。人の幸せを司るとされる神さま。

 目の前に、人と幸せを繋ぐ神が笑っている。

 答えはもう、決まっていた。


「「はい」」


 二人の声が重なると、辺りは瞬く間に白が広がった。俺は茜の手を握ったまま、そっと目を閉じた――。