本を歩く

 バス停の屋根を叩く雨音が和らぐにつれ、蒸し暑さが顔を出す。皮膚の上に薄い膜が張られた感覚に近い。そのせいでYシャツが肌に張り付いている気がするけれど、実際には付いてはいないのだと思う。でもきっと、いつかこの日を思い返した時、記憶の中では張り付いていたことになる気がする。


「どういう意味?」


 茜が答える前に、俺は質問を重ねていた。やはり俺の頭では理解するには難しかった。


「私が幸せを預けたとき。ほんの一瞬の出来事ではあったんだけど、ぶわあ、って思念の神さまの中が見えたというか、頭に広がったというか、繋がったような感覚になったのね。この本の世界から出るには私の幸せの大元にある想いを見つける必要がある。でもそれが私の願いかと聞かれると、そうとも言い切れなくて。そもそもそんな複雑な言い回しをするのもおかしいじゃない? だから想い云々っていうのは私というより、思念の神さまの願いだと思うの」


 もちろん匠と分かり合えたら嬉しいけどね、と茜が小さな笑みを零す。

 茜の言うことをすべて理解できたわけではなかった。けれど、一理あるのかもしれない。茜が幸せを預けたのなら、その幸せを探せばいい。わざわざ大元にある想いとしたのは、思念の神さまなりの考えがあったからではないだろうか。

「思念の神さまの願い……それが茜の思う、思念の神さまの存在する理由だと?」
「私はそう思ってる。思念の神さまは優しくて、寂しい思いを抱えた神様だから」

 真剣な眼差しで茜は言う。本当にそう感じているのだとわかる。

 本の中に来てから、茜は思念の神さまとほとんど会話をしなかったと言っていた。それにも関わらず茜がそう感じるということは、『思念の神さまと繋がった感覚』というのは実際に起こった出来事なのだろう。

 頭では理解けれど納得ができない。俺は思念の神さまと繋がった経験もないし、真っ先に浮かんでくるのが駄菓子屋での冷たい声だったからだ。だから訊いた。

「思念の神さまはさ、別の神さまが祀られている神社にも構うことなく勝手に侵入する問題のある神さまだって聞いたよ。そんな神さまが優しいなんて本当に思える? それともそういうところも寂しいからで片付けるつもり?」

 感情が言葉に宿ったせいで、乱暴な口調になったと感じる。まるで茜を言いくるめようとしているみたいだった。でも、

「考えたことはない? 私みたいに幸せを預けた人が、他にも居るんじゃないかってこと」

 茜は動じることも、笑みを消すこともしないで言った。冷静に話す茜の言葉に、体の熱が奪われていくようだ。

 その考えは、俺の中にも存在していた。


『島の中でも限られた地域だけの言い伝えだから』


 思念の神さまのことを知った時、甘酒を作っていたおばさんが言っていた言葉。あれはつまり、限られた地域では言い伝えられるほど、同じ経験や体験をした人が居るということになる。茜よりも前に、思念の神さまに会った人が居るということに。

「私は思念の神さまと繋がったからわかる。今までもこうして、幸せを預けた人は居た。それも一人、二人って数じゃなくて、数え切れないくらいたくさんの人。言ってしまえば、それだけ思念の神さまを頼る人が居たことになるでしょう? いつ消えてしまうかもわからない幸せを、色褪せることなく残したかった人たちが」

 俺の体にあったはずの熱が、茜の言葉に乗っている。途切れた会話に割り込む雨音が、茜の声をバス停の中に閉じ込めようとしているようだ。

 茜は続ける。

「思念の神さまはね、良かれと思って幸せを預かり始めた。多くの人の幸せを、より深く胸に刻みたかったから。だから思念の神さまはあえて決められた神社に身を置くことはしなかった。色々なところに出向いては、人の幸せを預かった。人々の幸せを願って動いてくれた」

 だからといって他の神社に勝手に侵入するのは、もちろん良くないけどね、と口にする茜はまるで、思念の神さまが乗り移ったみたいだった。瞳の中にその言葉を裏付けるような力強さと、同じくらいの寂しさを滲ませていたからだった。そして「だけどね」と零した瞬間の表情は、たしかに悲しみに暮れていた。

「幸せを預けた人の中には、未だに過去の幸せや思い出の中を彷徨っている人、その幸せを取りに行くことができなかった人が居るの。目的を達成できずに亡くなってしまった人だって居る。私たちのように今も幸せの中に居る人はまだ、救われる可能性があるかもしれない。でもね、怖くて幸せを取りに行けなかった人、望んだけど叶わなかった人たちに残された感情は幸せなんかじゃない。悲しみや無念、苦しみなの。その感情は……一体どこに行くと思う?」

 答えはすぐに頭に浮かんだ。俺の中にまで思念の神さまが乗り移ったのかと思うくらいすぐに浮かんできた。

 茜にも俺の気持ちが伝わったのか、茜は頷いた。


「すべて〝思念の神さまの中で永遠に残る〟みたいなの。全部を見てきている神さまからしたら、見つけてほしいのに見つけられずに終わってしまうなんて、すごく寂しいことだよね。別に私は思念の神さまを擁護するつもりなんてないよ? でも匠が駄菓子屋で話したときと、私が神社で話したときの口調が違ったのはさ、『幸せを見つける側にも幸せになってほしい』からなんじゃないのかな? 幸せになる〝覚悟と責任〟を持っていてほしいからじゃないのかな」


 良かれと思って始めたのにね、と最後に茜は小さく呟いた。


『幸せを見つける側にも幸せになってほしい』


 その言葉がしばらく耳に残って離れなかった。

「じゃあどうして思念の神さまは今もこんなことを続けているの? 幸せを預かることを止めちゃえば辛い思いをすることも、」
「できなかったんだよ。私たちが話している今だって、『幸せを預けたい』『この気持ちを忘れず胸に刻んでおきたい』と願う人が居る。そんな人たちから思念の神さまは必要とされているの。誰かから必要とされている限り、思念の神さまはこれからも幸せを預かるわ。そしてその数だけ、思念の神さまの願いも生まれていく」

 茜の視線が静かに宙を泳ぐ。俺には救いを求めているようにも見えて、胸が痛かった。

 バス停に唯一付いた小さな小窓から微かに光が差し込んでいる。その光はまだ弱い。晴れてきたと表現するには些か早く、あくまで雨が止んだだけだと思う。いや、この屋根を滴る水滴も雨だとするのなら、雨はまだ、完全には止んでいないのかもしれない。

 記憶と映像が重なる。視界が晴れるのは、もう少し先になりそうだ。

「雨が降り止むタイミングはあのときと同じだね」
「ちゃんと書いてたみたいね、過去の私は」

 晴れ間を探すように、茜も窓の外を見つめている。過去の空を眺めている。

 不意にまた、このまま茜が過去に取り込まれてしまうのではないかと不安になる。

 そんな思いを断ち切りたくて、俺は過去には無い話をしようと決めた。


「もう逃げないから」
「え?」


 茜が驚いた顔で俺を見る。

「茜はいつも、俺に居心地のいい場所を与えてくれた。俺は茜に支えてもらっているだけだったのに、自分で自分の場所を見つけたつもりでいた。茜はずっと俺の隣に居てくれると思い込んでた」

 俺が鼻を鳴らしても、茜は口を結んだまま何も言わない。

「でも、あるときふと思った。与えられるばかりじゃ茜に愛想をつかされる。茜が居なくなったら、俺はどこにいけば良いんだろうって。ちょうど進路を決めなきゃいけないときだった。急に怖くなって、だけど当時の俺はそれを認めたくなくて。だから俺は島を出て、自分の居場所を自分で探すことを決めた。自分で居場所を見つけたって言えば、茜に認めてもらえると思った。茜に否定されるから相談をしなかったわけじゃなくて、情けない自分を隠したくて、弱い自分を見せることが恥ずかしくて、俺は茜と向き合うことから逃げたんだ。ぶつからないとわかりあえないことだってあるはずなのに」

 後悔は過去にしか存在しない。戻ってやり直すことができないから、後悔を背負っていくしかない。

 茜と向き合っていたのなら。

 その思いをこれからも、俺は背負って前を向く。


「本の中で、茜の想いを探して気付いたんだ。茜は俺の想いに気付いて、残して、今までずっと繋いでくれていたんだって。茜はちゃんと向き合ってくれていたんだって。俺は茜に、本の中へ来る選択をさせてしまった。茜に認めてもらいたいと思っていながら、この島を出てからも俺が弱い自分に負け続けて、あの頃の自分と何も変わらないままだった。もうぜんぶ認める。認めた上で進んでいく。後悔したのも自分なら、それを背負っていくのも俺だから」


 受け入れたはずの後悔は、今も俺の心を刺している。これが言葉にすることの、後悔を背負っていくことの重みと責任なのだと噛み締める。

 ようやく茜が口を開いた。


「私はね、匠に変わってほしくて本の中に来たわけじゃないよ?」


 口調ははっきりとしていた。茜が居住まいを正すと手持ちの傘の先が地面から浮いて、ぽたぽたと雫が流れ落ちた。

「私だって匠と同じ。私も怖い。匠に本当の気持ちを見せるのが、匠を失うのが本当に怖い」

 本当の気持ち? と訊き返すよりも先に、「だからって別に、隠し事はしてないよ」と茜は笑った。

「一緒に居ると落ち着くし、変に気を遣うことだってないし」
「それならどうしてここに来たの?」
「だからだよ。だからこそ、私はいつも過去を振り返っていたの。戻れない過去に目を向けていたの。離れてる時間が長くなればなるほど、自分の気持ちが先行し始めちゃう。自分の想いばかりをぶつけてしまいそうになっちゃう。そんなことをしたら、きっとうまくなんていかないよ。だから私にはあの頃の気持ちが必要だった。お互いの気持ちを尊重して、素直になれた〝この日〟の気持ちが」

 茜は知っていたのだろう。後悔ではなく原点が、この過去の中にあることを。

「それとね、あの日神社で言われたことも、すごい胸に響いたんだ」

 言われて思い出す。

 そういえばあの時、音がぼやけて聞こえなかった言葉があった。

「なんて言われたの?」
「私の幸せが不幸に変わる。そう言ったあとに、思念の神さまは言ったの。『私に預ければ、あなたは幸せの中で生きられる。その幸せが運命であるならば、いつか必ず動き出す。必ずあなたを導いてくれる』って」

 聞こえなかった思念の神さまの言葉。茜の表情がこわばって見えたのは、それを望む自分と、抗う自分が居たからなのかもしれないと思った。

「そのときに思ったの。今のままでいるより、匠を信じてみたいって。匠ならきっと私を見つけてくれる。またふたりで分かち合える。あの日の……、いや、今日の想いを感じられるんじゃないかって」

 茜は朗らかに笑った。また涙が滲んでいたから、強がっているのだと思う。色んな感情が、想いが、茜の瞳には宿っている。

 だけど茜は零さなかった。涙も感情も想いも、一滴も零すことはしなかった。

 俺を信じたいと思ってくれた茜の気持ちに応えるのは、今しかないと思った。


 そのときだった。


 バス停に、一台のバスが到着した。乗客は誰ひとり乗っていない。扉が開く風圧に、水たまりが波を打つ。

 抑揚のない声だった。


「一生ここで暮らしていくつもりかい?」


 バスの中から聞こえる声は、迷わず俺の耳まで届いた。

 知っている。この声も、感覚も、俺は嫌というほど覚えている。

 運転席に座った男が、微笑みながらこちらを覗いている。

「やっぱりそうか……」
「この世界でのルールだからね」

 駄菓子屋で会った時と風貌がまるで違っている。しかし、俺の視界に入り込む運転手姿のこの男性は、思念の神さまで間違いなかった。

 深く被った制帽のツバを掴んで立ち上がる。胸の鼓動よりもゆっくりと歩みを進め、思念の神さまはバスを降りた。

「随分と怖い顔をしてるじゃないか。残念ながら彼女の想いを見つけることができなかった……ということなのかな?」

 口元で笑みを作ると、思念の神さまは両手をポケットに入れて止まった。今もまだゲーム感覚でいるのか、表情は楽しんでいるようにも見える。

 足が震えていたけれど、俺は太ももを強くつねって腰を上げた。茜も隣に並んでくれる。

「その判断はおふたりに任せます」

 言ったあと、俺は茜を見た。茜はしっかり頷いてくれた。

「なるほど。少しは自信もあると。ただ過去を繰り返してきたわけではないようだね」
「あなたによって創られた過去もありましたから」

 思念の神さまは目を細めると、ほう、とだけ短く口にする。

「『忘れることはあっても過去が変わることはない。大切なのは〝記憶を想いと一緒に保管すること〟だ』。クリスマスの日。想いを魅せるために創った過去の中で、そう僕に教えてくれたのも思念の神さま、あなただったんですよね?」

 問いかけに応えることはない。表情を変えることもなく、思念の神さまはこちらをじっと見据えている。瞳が言葉の続きを促している。

「思念の神さま。あなたも苦しんでいたんですね」

 その一言で、上がっていた口角が元の位置へと戻る。途端に真剣な眼差しが襲う。

「ちょっと、匠? それってどういう……」

「あの言葉を聞いたとき、俺も最初は素敵な考えをする人だなって思うだけだった。でもさっきの茜の話を聞いて思ったんだ。預かった幸せを返せなかった人たちの抱える悲しみや無念、苦しみを預かっているとするのなら。もし本当に、思念の神さまが幸せを司る神さまなら。きっとその感情を無駄にしないで、〝意味のある記憶〟として伝えてくれるんじゃないかって。思念の神さまと繋がって茜が色々感じたのだってさ、幸せの中で彷徨い続けてる人たちのことを、今でも想い続けてくれているからでしょ? だから想いは消えずに残っていた。誰かが覚えてさえいれば、記憶や想いは風化することなんてない。必ずどこかで繋がっていく」


 笑みが消え、思念の神さまは真剣な眼差しを向けている。少しだけ強さを増した日差しを反射する瞳は、薄青色に光っている。