本を歩く

 視界が白く濁っている。無数の雨音は重なって、降りしきる雨に重みを与えている。

 雨脚は強まる一方だ。

「こんなに雨強かったっけ?」
「んー、どうだったかなあ。はっきりは覚えていないけど、いま実際にこうして……あ」

 思い当たる節でもあったのか、茜が眉根を寄せる。

「最初のページってさ、実は日にちが経ってから書いたページなんだよね、記憶を頼りに。ほら、なんでも最初って気合を入れて書くじゃない? だからもしかすると、ちょっと誇張して書いちゃっていたのかも」
「おい、ふざけるなって」

 雨と戦いながら茜を睨む。

「仕方ないでしょ。あの頃はまだ緊張もしてて、細かいことまで覚えてなかったんだもん」
「雨の強さは細かいことに入らないだろ」

 だから、と茜は口にしたけれど、この話はここで打ち切りとなる。「そんなことよりほら! 見えてきたよ」

 茜が前方を指さした。そんなことってなんだよ、と思いながら、俺も茜の視線を追った。視界が悪いので目を細めなければ見えない距離ではあったけれど、たしかに見えている。

 俺たちが目指す、帰りのバス停だ。

 目的地までの距離を脳が認識すると、雨でびしょびしょに濡れた靴下も気にならなくなる。

「この大雨のせいか、記憶よりだいぶ長い時間歩いてた気がする」
「雨のせいと言うか茜のせいだけど」と呟いた言葉は雨音がかき消して、茜まで届かなかったようだった。

 小屋のようなバス停は壁に沿って、「コ」の字型にベンチが配置されている。俺は傘についた雨を払うこともしないで、入口正面の席に腰を下ろした。床にはコンクリートが敷かれているけれど、地面と近いせいなのか、雨の匂いに土の香りが混じっていた。

 茜も傘を畳んでベンチに座る。小さく息をつくと、今までの出来事が走馬灯のように蘇った。

 それぞれのページで出会った過去の茜はすべて同じようで、まるで違う顔をしていた気がする。これは俺の主観でしかないけれど、きっと当時の想いや感情が、その顔には宿っていたのだと思う。

 隣に居ることが当たり前。そんな考えでいる限り決して気付けない茜が、本の中にはたしかに居たのだ。

 見ているつもりになっていたことは、見てきたものより遥かに多いと痛感する。


「本当、俺はなにも見えていなかったんだな」


 声に出したのか、胸の内で呟いたのかはわからない。気を抜くと笑ってしまいそうになるくらい、俺は自分を情けなく思えた。

「どうした? 顔が暗いよ?」

 そんな俺を覗き込むように茜は言う。傘の先には小さな水たまりができていて、俺は、自分の言葉が外に漏れていなかったことを知った。

「本の中に来てから色々あったなーって」
「そのほとんどが二回目の経験のはずなんだけど。それでもそう思ったんだ?」
「二回目だからこそだよ。二回目だから、俺はちゃんと茜を見られた気がする」

 今まで見てなかったてこと? とぼやきながらも、茜の口角は上がっていた。俺はまた、雨音に消えるため息をつく。

「ここが最後のページなわけだし、少し聞いてもいい?」

 どうぞ、と言うように茜が頷く。俺は本の中で初めて本物の茜に会ったときから気になっていたことを尋ねた。

「俺は茜を探して本の中に来た。茜も俺に見つけてほしいと思ってくれていた。それなのに、茜は自分から俺の前に現れたでしょ? それはどうして?」

 聞いてはみたものの、聞かない方が良かった気もしてきて、「俺が茜を見つけられる保証はなかったって言われたら、それまでの話なんだけどさ」と加えておく。

 茜は一度も俺から目を逸らすことなく口を開いた。

「見つけてくれるって思ってたよ。だけどね、私の気持ちも伝えておきたかったの」
「茜の気持ち? それは思念の神さまに預けたものとは違うもの?」
「それとは別。私が伝えたかったのはね、私はここで、この本の中で待ってるよっていうこと。だってそうでしょ? いきなり過去の私と会っても、ここが本の中だって匠が気付いたとしても、それこそ現実世界の私がここに居る保証だってどこにもないわけだから。もし匠がそんな気持ちを抱いたままだったらたぶん私とは会えなくて、ただ過去を繰り返すだけだったと思う。だから私は、匠が私を探すっていう確証が欲しかったんだと思う」


 茜も本の中で、幸せだと言った過去の中で苦しんでいたのだと思った。自分を探してくれるのか、諦めずにいてくれるのか、ここから出られるのか。茜の立場で考えれば、不安になって当然だと思えた。『信じる』という言葉は不安にも似た強い願望の上にあり、その願望はまた、互いを『信じる』ことによって満たされるものなのだと思った。


「ここは私の本の中であり、思念の神さまが見せる世界でもあるから。匠の気持ちが〝ここへ来た私〟に向いていないとわかれば、私たちを会わすことなんかしない。ずっと本の中を彷徨わせる。ちょっと怖いところもあるけど、幸せを司る神さまなわけだしね。だからね、匠の気持ちがちゃんと私に向いてるってわかったとき、ほんとうに嬉しかったよ」

 どうして零れ落ちないのだろう。茜の大きな目は、いっぱいの涙で埋め尽くされていた。本当は泣き顔なんて見たくないけれど、それでも俺はこの姿をしっかり見る必要がある気がした。この光景を記憶に刻む責任があると感じた。だから俺は気の利いた言葉を掛けることもせず、まっすぐ茜と向き合った。


 この気持ちを、忘れずにいるために。


「ごめん、急に真面目な話になっちゃったね。私が毎回、私の中に入れなかったのも」
「俺が本の中に来た意味がなくなるから……でしょ? 全部のページで会えてたら、元の世界で会うのとなにも変わらないもんね」

 しんみりとした空気を変えようと、俺は笑顔で言った。茜の瞳に映る俺が揺れている。

「そうだ。私からも質問して良い?」

 俺は頷く。

「私の本の中で色んなページを見てきたと思うんだけど、特に印象に残ってるページってあったりする? まあ二回目だから印象もなにもって感じなのかもだけど」
「印象に残ってるページ……そうだな、強いて言うなら、茜に島を出ることを伝えた日かな」
「え、どうしてあの日なの? 本の中に来て、初めて私と話をしたから?」

 眉間に皺を寄せながら、茜は首を傾げる。

「もちろんそれもあるんだけど、あのページだけは、どうしても幸せとは結び付かないというか、他のページとは雰囲気が違うというか……。うまくは言えないんだけどさ」
「なるほど……たしかにそうだったかもね」

 茜が薄っすらと笑みを浮かべる。どこか含みを持たせた表情に目を細めると、今度は「気になる?」と無邪気な笑みをぶつけてくる。

「理由があるなら、そりゃ気になるよ」

 ふふふ、と笑ってから茜は答えた。

「そんなに特別な理由じゃないの。ただね……、この日がきっかけだったから」
「きっかけ?」
「そう。島を出て行く匠のことを、ちゃんと応援するって決意した日。なんの相談もしないで! って、最初は本気で思ってたから、そこだけを切り取れば悪い一日ではあったんだけどさ。でも冷静になってもう一度考えたら、匠も匠なりに色々考えて出した答えなんだろうなって。私にできるのはそれを否定することじゃなくて、背中を押して、応援して、私も負けないくらい頑張ることなんじゃないかなって思ったの。だからあの日はね、悪いことから始まった、私の幸せに繋がる大切な日なんだよ」

 そう言った茜の瞳に、もう涙はない。

「悪いことも幸せに繋がる……か。そういうのを〝本当の意味を持った記憶〟って呼ぶんだろうね」

 過去を繰り返した今だから、この言葉が身に染みる。意味だけを取れば正反対の言葉でも、紙一枚にも満たない、そんな感覚の中で必ず触れ合っている。全てが繋がって今があるのだと、心からそう思えた。

「匠はさ……思念の神さまが存在する理由って、なんだと思う?」
「思念の神さまが存在する理由?」

 反射的に繰り返す。言い終わった今もその言葉の意味を探している気がしたけれど、脳が処理しきれなかった言葉をはじき出したようにも感じていた。