本を歩く

 静まり返った店内とは対象的に、呼吸の音、胸の鼓動が頭の中で騒いでいる。おじさんの瞳は、まっすぐ俺を捉えたままだ。

「茜が茜以外の人の中に入れるのなら、当然あなたにも同じことができるはず。この本の中に俺と茜を導いたのはあなたなんですから。……そうだろ? 茜?」

 俺が顔を向けると、茜は身動きもしないまま視線を伏せた。生まれた沈黙が答えだった。

 目を合わせない茜に質問を重ねる。

「茜が交わした〝思念の神さまとの約束〟。それは茜の近くには必ず思念の神さまが居て、そのことを俺に気付かれてはいけないってことなんでしょ? だからあのとき、なにも言えなかったんだよね?」

 茜の瞳が揺れている。言葉の要らない正解が零れ落ちている気がして、俺はさらに続けた。

「茜が俺の前に現れるときはいつも、思念の神さまも一緒だったんでしょ?」

 いよいよ観念したような顔をして、茜は大きく息を吐き出した。視線が床から離れていく。

 でも、先に口を開いたのは茜ではなかった。


「想像よりも頭が切れるみたいだね」


 口調は変わっていないけれど、冷たい声だと思った。思ったけれど、自然と俺の視線は向かっていく。

 俺は初めて、思念の神さまと顔を合わせた。

 思念の神さまは俺と視線がぶつかったあとも何食わぬ顔をして続けた。

「きみの想像通りだ。私は彼女と行動を共にしていた。彼女が彼女以外の人の中に居るときもね。物語の飛ばし読みはできないといった制限を設けたとはいえ、彼女は私とともに動くことで、この本の中を自由に動くことが出来たからね。彼女がこれを〝約束〟と表現したときは、なかなか起点の利く子だと思ったよ」

 本来居たおじさんの口調のままに話しているのだろうか。神社で見た時の話し方とは違って堅さが取れている気がして、距離感に戸惑う。


「それはそうと」思念の神さまが不気味な笑みを浮かべる。「きみがそのことに気がついたところで、この本の中から出られるわけじゃないことはわかっているね? 目的は私に会うことでも、この世界における私たちの立ち位置を明かすことでもない。悪いがこの先も最後まで彼女の本の通りに、彼女の幸せの通りに進んでもらうよ。元の世界に戻るためにはどうすればいいか……それはもう、十分承知しているだろうけどね」


 この状況をゲーム感覚で楽しんでいるのだと思った。だから俺も負けじと言葉を返す。

「俺とも約束をしませんか」
「約束?」

「俺が茜の預けた幸せの大元にある想いを見つけることができたら茜の記憶を返して、二人揃って元の世界に返してください」

 睨みを利かせ、強い口調で言った。強い感情をぶつけた。

 思念の神さまは鼻で笑った。

「面白い。もちろんだよ。だが逆に、その胸に刻んでおくといい。もしも彼女の想いを見つけることが出来なければこの先、私が飛ばすページの中を繰り返し生きていくことになると」

 唾を飲んでいた。これが脅しではないことに気付いていたからだ。あの瞳の奥には「この中では自分が絶対である」という確かな自信が存在している。

 無意識に臆してしまったのかもしれない。茜に袖を引かれ、思念の神さまから視線が切れると、俺は久しぶりにまともな呼吸が出来た気がした。

「匠、えっと、その……」
「大丈夫。絶対に、二人で帰ろう」

 瞬きの度に視線が動く茜の言葉を遮るように俺は言った。ようやく茜が俺を見てくれる。瞳が涙で輝いて、今にも零れてしまいそうだった。

 視線を思念の神さまへ戻す。思念の神さまはしばらく俺を見据えていたけれど、言葉を発することはせず、そのまま店の奥へと姿を消した。

「ごめん、本当にごめんね……こんなに大ごとになるなんて、私、思ってもいなくって」

 袖口を掴んだ手の震えが強くなる。茜は涙を堪らえようとしているのか、唇を強く噛んでいた。

「そんなことよりさ、また会えて良かったよ」
「こんなことに巻き込んだのに、怒らないんだ……?」
「怒る? それを言うならこっちの台詞だよ。元はと言えば、俺がちゃんとしていれば、こうして茜が過去に行こうとも思わなかったわけだから。だから謝るのは俺の方。茜、ほんとうにごめん」

 茜はまた俯いて、何度も何度もかぶりを振る。洟を啜る音だけが、静寂の中に落ちていた。

「そういえばさ、ここでは普通に話せるんだね。本の内容と関係のない会話はできないものだと思ってたけど」

 そうだよ、と茜が顔を上げる。

「でもそれはね、」
「ここが〝最後のページ〟だから話せるわけか」

 茜の言葉を奪って言うと、茜は笑みを浮かべて頷いた。

「本の通りに進んでもらう、なんて言ってたくせに、意外といい加減なんだな」
「おかげで会話ができるわけだから、感謝すべきかもだけど」
「いい加減に感謝って」

 そこには居ないとわかりつつ、店の奥を見据える。当然、気配を感じることもない。俺はその場に長いため息を残して、茜と揃って出口へと向かった。

 雨は今も直線的に美しく、地面を叩いている。


「茜はいつ、茜の中に入ったんだ?」


 傘のネームハンドを外しながら問いかける。地面にぶつかった雨が足首の高さまで跳ね上がる。

「俺がこのページに来たときはまだ、過去の茜の中には居なかったでしょ?」
「あ、そういうのわかるんだ?」
「そりゃなんとなくわかるよ」

 ふーん、と言う茜は嬉しそうだ。

「このお店に着いて、匠が傘についた雨を払ってるときにね。それまではずっと、店内に二人で居た」
「思念の神さまとはどんな話を?」

 少しだけ、返答までに間が空いた。

「実はね、神社で話したときと約束を交わしたとき以外、特に会話はしてないんだ」
「え、そうなの?」
「だってまだ出会ったばっかりだよ? 急に『幸せを預かる』とかって言われたかと思えば、こんなことになっちゃって。変に話すのも怖いもん」
「そりゃあまあ」
「だからさっき匠が話してるのを聞いて、あ、こんな感じで話すんだって思ったくらい」

 苦笑して、茜が雨の元へと手を伸ばす。手首が軒先の下を出て、手ひらの上で雨が踊る。


「『幸せの中で生きられる』ってところだけ都合よく解釈して、元に戻る条件も知らないまま、私は赤いナニカを潰しちゃった」


 茜が手を閉じる。あのとき潰した赤いナニカのように、雨はゆっくりと茜の肘の方へと流れ出る。

 茜の頭の中で、赤いナニカを潰した映像が映し出されている気がした。

「ごめん。俺が茜を追い込んでいたから」
「ううん、そんなことない! 私だって、自分のことばかり考えていたから」

 風に揺られた柔らかな雨が顔に触れる。寂しさを紛らわすように集まった雨粒はやがて一つになり、音もなく頬を流れた。

 ただね、と言って、茜が俺を見る。

「あの人に幸せを預けたのは事実なんだと思う。匠ならきっと、見つけてくれると信じていたから」

 人って言うのはちょっと違うか、と茜は笑う。ぎこちない笑顔ではあったけれど、俺の胸のつかえが下りるくらいには、その表情は明るかった。

 もうじきこの本は終わりを迎える。正確に言えば始まりに辿り着く。

 茜が本に書き記した、過去の始まりに。


「答え合わせをしに行こう」


 俺は雨に向かって一歩を踏み出した。大きく開いた傘が、雑念を払うように雨を弾いた。