本を歩く

「やっぱりか……」


 学校の下駄箱。俺は長傘を片手に立っている。校内の柱に付けられた時計は十六時三十五分を指していた。外には雨が降っていて、部活動の掛け声も聞こえない。

 ここには俺一人しか居ない。そう思えるくらいの静寂を保っている。

 雨の匂いが身体に沁みた。

 昇降口を出て傘をさす。透明なビニルに雨が当たると、持ち手がその振動を全身に伝えた。強くはないが弱くもない。次第に振動にも慣れていき、校門を出る頃には雨の重みは感じなくなっていた。

 雨を踏む音が、傘の内側にだけ響いている。

 一人の時間は容易に時を超え、記憶の引き出しを開けた。俺はここで、茜に声を掛けられる。
 降りしきるこの雨のように、慣れてしまえば気にすることもしない。でも茜の声だけはいつまで経っても耳に残る。

 その感覚だけは、今もしっかりと覚えている。

 たぶん、そのせいだと思う。見慣れたはずの景色を見ながら自宅を目指すこの足は、ずっと浮ついたままだった。一歩ずつ学校を離れながら、一歩ずつ近づく足音を聞く。その足音は雨の中に溶けるように、俺の真後ろで止まって消えた。

 俺はこれから聞こえる未来の声に、そっと耳を澄ませた。

「匠……くん?」

 脳に直接語り掛けているような声。少しだけ雨の音を聞く。思った通り、緊張が伝わるほどにか細い声は、いつまでも俺の耳の中に居続けた。

 振り返ると、今までで一番幼さの残る茜が立っていた。

「やっぱり匠くんだ! 今、帰り?」

 練習していたのだと思う。明るい声のトーンとは裏腹に、表情は不器用なものだった。まだ付き合って間もない頃。茜は俺を「くん」付けで呼んで、二人の間には絶妙な距離感があった。

「なんだ、あか……宮内か。まだ帰ってなかったんだ?」

 距離感を合わせる呼び方にして、会話を続けていく。

「そ、そう。あの、今日提出の課題? 実はすっかり忘れちゃってて、さっきまで残ってやってたの」

 茜はまた不器用に笑う。課題を忘れるようなやつじゃないだろ、と思いながらも、本の内容に沿わせる言葉を探す。

「そうだったんだ。でも意外だな。宮内って、そういうのはしっかりやるタイプだと思ってた」

 我ながら、大根役者だと思った。幼稚園のお遊戯会の方がまだマシだと思うくらい、あまりにも棒読みの台詞になってしまった。不器用なところは俺も同じだ。

「私だってうっかりすることくらいあるよ。それより今日は部活お休みになったの?」
「急遽変更。元々外練の日だったんだけど、急に顧問が来られなくなって。雨も振ってきたし、それなら試合の映像観ながらミーティングしようって」
「ああ、だから微妙に終わる時間も早いってことか」

 正解、と俺は言い、二人並んでバス停に向かって歩き出す。雨は傘で生じた俺たちの間を埋めるように降っている。

「そういえばさ、この先に駄菓子屋さんがあるの知ってる? おじさんが一人でやってるとこなんだけど。次のバスまでまだ時間もあるし、よかったら行ってみない? あ、バスケ部って帰り道、買い食いとか禁止だっけ?」

「校則読んだことないからわからないけど、バスケ部だけ禁止ってことはないんじゃない? いいじゃん。行ってみよう、駄菓子屋」

 私も校則読んだことないやー、と茜は笑う。今度は自然な笑顔だった。

 いつもの帰り道。一人では曲がることのなかった路地を一本奥へと入っていく。心なしか、雨の音が柔らかいものへと変わった気がした。半歩先をいく茜の後ろ姿を見ながら歩いていると、ローファーと足の隙間に雨が入り、靴下が濡れた。


「あそこだよ」


 茜は駄菓子屋を指しながら振り返る。傘から滴る透明のカーテンが、茜の表情を彩っていた。

「こんなところに駄菓子屋があったんだ。それにしても、随分と雰囲気のあるお店だね」
「このまえ友達に教えてもらったんだ。私も初めてきたときはびっくりした。ここだけ年号が違うみたいなんだもん」

 いつから店を構えているのかは知らないけれど、その言葉通り、店の佇まいは空間ごとタイムスリップしているような雰囲気を漂わせている。高校の制服ですら、どこか場違いに思えてしまう。これを懐かしいと思える年代は、俺の何個上の世代なるのだろうか。

 店の軒先の下に入り、傘についた雨を払う。俺の傘は下ろし立てのものだったのか、軽く左右に振るだけで、ほとんどの水が地面に落ちていった。雨の様子を窺うように、茜は空を見上げていた。

 少しだけ緊張を覚えながら入った店内は、どこか懐かしく思えた。スナック菓子やお金の形をしたチョコレート、大手飲料メーカーのロゴが書かれたラムネなど、今や島ではなかなか見る機会のない商品が所狭しと並んでいる。

「懐かしいなあ……って、え、やっす。駄菓子ってこんなに安かったっけ?」
「学生のための値段設定だよね。私たちの親世代がこれ基準で育って来てるのなら、お菓子代に渡されるお小遣いが少ないのも納得する」

 たしかに、とも思ったが、家にあるお菓子はここにあるものとは違う。だからそれを言い訳にされても困るとも思う。

 オリジナリティに溢れた心躍る商品を眺めていると、不意にカウンターの奥に居た男性に話し掛けられた。

「最近の子は駄菓子なんて言葉、聞き馴染みもないんじゃないか? 島のスーパーでも置いていないものばかりだろうし」

 背丈のあまり高くない、ふくよかな体格のおじさんだった。腰巻きエプロンの紐を前で止めているが、その体型のせいで長さが足りないのか、結び目の紐は今にも解けそうなくらいに短い。

「昔はこんなお菓子ばっかりだったのに、いつの間にかすっかり変わっちまったからなあ。だから今は、おじさんが島の外に行った時に大量に仕入れてきているんだよ」

 低く渋みのある声が、狭い店内に響く。

「時代って言っちゃえばそれまでなんだけどね。今の子の中には、もうこういうお菓子が売られていたことを知らない子だっていると思うんだ。まあそれがなんか切なく感じて、こうしておじさんが今も店をやってるわけなんだけども。このお菓子を覚えているおじさんが、駄菓子を知らない子どもや忘れてしまっている大人に伝えていきたいと思ってね」


『大切なのは〝記憶を想いと一緒に保管すること〟だ』


 あの日のクリスマス。ケーキ屋の店長も言っていた。俺が来たこともない店のことを懐かしいと思ったのは、そのせいなのかもしれない。

 おじさんは想いも伝えてくれている。だからこの店に来れば、俺は何度だって懐かしいと感じるだろう。

 おじさんが、記憶を想いと一緒に保管している限り。

「そっか……もうこういうお菓子を知らない子たちも居るんだもんね」

 感慨深い、といった表情で、茜は目の前に置いてある駄菓子を手に取った。

「でもさ、その子たちもここで駄菓子を知れば、今度はそれを懐かしむ日が来るのかもしれないよね。誰かがおじさんの想いを共有して、繋がっていったら素敵だね」

 共感を求めるような顔をする茜は、どこか寂しそうでもあった。

「想いを共有……か」
「想いが共有できればさ、それはきっと、これからもっともっと時間が経っても色褪せることなく、私たちの記憶の中でずっと残り続けていくんだと思うの」


「お嬢さん、随分と大人の考え方をするんだね」


 頭の中を覗かれた――そんな気がした。おじさんは口元を緩ませ、俺の目を見て言った。その瞳が俺に訴えかけている。

 そういうことか、と俺は悟った。

「まさかあなたの方から来てくださるとは思いませんでした」大袈裟に鼻を鳴らして微笑する。


「でも〝ここ〟で会えると思っていました」
「そのときが来たと、思ったのでね」

「あなたが〝思念の神さま〟なんですね?」


 俺の質問に、おじさんはずっと深く、笑った。