「余裕だと思ってたけど、全然そんなことなかったね」
茜の家から約二十分。俺たちは、会場である空き地を目指して歩いていた。
軽くなった足取りとは裏腹に、互いに慣れない下駄を履いていたことが影響して、なかなか歩く速度が上がらない。気持ちに身体が追いついていない感覚は、部活動を引退してから数年が経ち、久しぶりに運動したあの時の感覚にも似ている。太陽も祭りの準備を始めたのか、攻撃的な日差しが幾分か落ち着きを取り戻してくれたのはありがたかった。
俺よりも少し狭い茜の歩幅に合わせて歩く。規則正しく響く下駄の音が、俺の記憶を覗きにくる。
――ここよりもう少し……前かな。
あの時の茜の言葉。俺がどのページに居るかはわからないと言っていたけれど、茜は本の終わりを知っている。この本があと少しで終わることをわかっている。
それならば、この祭りに来ている可能性も高いと思った。いや、可能性の話をするならば、このページが最後という可能性すら考えられる。次第に人が増えてきている。この中に本物の茜が居ると思うと、息をするのも忘れそうになる。
会場までは十分足らずで到着したが、気を張って歩き続けた俺は、強い疲労感を覚えていた。
「やっぱりこの島の人たちは祭りごとが好きだよね。というか、何事も大袈裟なのかも」
思念の神さまについて知った初詣の日と同様、会場は人で溢れている。普段はだだっ広いだけでなんの取り柄もないただの空き地も、例年以上の人集りが生み出す空気と相まって、すっかり祭りの色に染まっていた。この人たちは一体今までどこに隠れていたのだろうと思ってしまう。
「本当だね。この時期だけに現れる異星人だ」
その言い方も大袈裟だよ、と笑う茜を横目に、俺はアンテナを張るように視線を右に左に動かしていく。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中だ。そう思うだけで、金魚すくいのおじさんも、射的のおばさんも、焼きそばを作るお姉さんも、ここに居る全ての人が疑わしく思えてくる。瞬きをする時間さえも惜しかった。
「……み? おーい、匠くーん」
近くから聞こえるはずの茜の声が遠く感じる。その声に向き合えたのは、俺の肩がビクリと震えた後だった。
「なに上の空になってるの? 早く食べ物、買いに行こう」
匠の奢りなんだから、と茜は俺の手を強引に引いた。俺の身体は小走りになり、人混みの中に紛れていく。紛れて、紛れて、祭りの一部になっていく。それでも神経だけは研ぎ澄まされているのか、まるで映画のワンシーンを観ているように、目に映る一つ一つの映像が音声とともに脳内に流れ込む。
どうやらあの子は、たこ焼きを一つ多く入れてもらえたらしい――その光景を捉えた直後だった。
俺は、視界の片隅に纏わりつくような視線を感じた。
一度は前を向き直したが、直後にまた視線を戻す。違和感とは思えない。ただ見ているとも違う。ねっとりと纏わりつくようだ、とも、刺すようだ、とも感じる不自然な感覚。
探さなければ。今の視線を。俺は車のワイパーのように右に左に首を振った。
意外にも、再会はそう遠くない未来にあった。視界に一組の男女が入り、俺の目は止まった。
あれって、あのときの――。
女性の顔はよく見えなかった。でも男性には、あの服装には見覚えがある。
純白無文の斎服。
確証はないが確信はある。
「思念の……神さま」
言葉は考えるよりも早くに口を衝く。男は俺の視線に気付いたのか、女性の手を引き、俺から背を向けた。
あれが思念の神さまなら、隣を歩く女性が誰かは決まっている。
「茜!」
叫んだ。雑踏の中を、俺の声は突き進んだ。目だってしっかり獲物を捉えていた。でもすぐに、強制的に引き剥がされた。
隣に居る茜が、俺の手を強く引いたからだ。
「ちょっと、急に大きな声出さないでよ……びっくりするじゃん。急にどうしたの?」
俺を見つめる大きな目が瞬きを繰り返す。茜の瞳の中には俺の顔が映っている。俺は俺から目を背けるように振り返る。
そこにはもう、誰も居なかった。
「本当に……大丈夫?」
不安な声が耳に届く。嘘でも冷静さを装うべき場面なのだろうけれど、脳内に純白無文の斎服がちらついて、表情を作る余裕はない。
「ごめん。大丈夫だから」
当然その言葉の中に茜の不安を取り除く力なんてなくて、茜は黙って笑みを浮かべるだけだった。
見間違いなんかではない。顔は見えなかったけれど、俺の第六感とも呼べる感覚が、あの男は思念の神さまなのだと語り掛けてくる。隣に居た女性は本物の茜だと主張してくる。本の終わりが近いのだと声を上げる。
自分の感覚に耳を傾けるのも悪くない。答えは自分の中にあるのだと、そう教わった気がした。
「……そう? 大丈夫ならお祭り、まわろっか?」
俺は茜の本の中に居る。過去には過去の茜が居て、当時は気付けなかった顔を見せてくる。たくさんの声を俺にくれる。俺は茜を感じながら、この声を道標に進むだけ。声を辿れば見えてくる。
必ずたどり着く。
茜が預けた幸せの、大元にある想いまで。
「行こう」
俺が差し出した手に、茜の小さな手が収まる。懐かしさの中に優しい温もりが隠れていることも、俺は感じることができていた。
薄っすらとした記憶を上書きしていく。綿あめを頬張る嬉しそうな顔も、穴の開いたポイから逃げ出した金魚に向けた悔しそうな表情も、射的の音に驚いた表情にも、俺は目に映るすべての茜に感情という色を付けて書き足した。
もう二度と、忘れることのないように。
藍色の空には、この島の住人よりも遥かに多くの星が浮かんでいた。
「そろそろ花火が上がる時間だね」
星がきれいだね、と茜は空を見る。時刻は十九時を十分ほど回ったところだった。
「もうこんな時間か。あっという間だったな」
「あの時間に来て正解だったでしょ?」
「これを着る以外はぜんぶ正解」
甚平の襟元を掴む。まだそんなこと言ってるの? と茜は困り顔をして、「似合ってるよ」と笑顔をみせた。
この顔も、しっかり記憶に付け足しておいた。
「あ、そうだ!」
胸の高さで手を合わせ、茜は言う。「ちょっと移動しない? 花火さ、二人だけで見ようよ」
どういうこと? と言いたかったけれど、茜は返答も待たずに俺の腕を強く引いて歩き出した。茜の後ろ姿を目で追いながら、人混みを避けるように進んでいく。祭りを象徴するような笑い声や熱気、足音や香りも、なにもかもを置き去りにして進み続けた。
ものの数分もしないで、この甚平も茜の浴衣も、祭りの一部ではなくなった。
「こっち、こっち!」
祭り会場を離れた分、目的地に近づいていく。茜は行き先を言わなかったけれど、俺は覚えていた。茜が向かっているのは、新年を迎えた日に二人で初日の出を見に行った場所。
あの場所から、茜の本は生まれたのだ。
新年は枝だけだった木々に、青々とした葉が蘇っている。葉擦れの音を伴いながら、心地よい風が海側から吹き抜ける。
視界が徐々に開けていく。
「間に合った……かな?」
茜は海と空のちょうど中間を見ている。二つはほとんど同じ色をしていた。
「まだ音も聞こえてないし、間に合ったってことじゃない?」
平らな地面に腰を下ろす。それもそっか、と茜も俺の隣に座った。
「あとどれくらいだろう?」
「結構ギリギリの時間に会場出たからね、もうそんなに時間もないんじゃ――」
スマホを取り出そうとした時だった。ドン、と身体の内側から轟くような大きな爆発音とともに、視界に強い光が飛び込んだ。
「わあ!」
「びっくりした……」
色鮮やかな花は咲いた。空と海、それから茜の瞳に開花した。大きな音の後に訪れる細かな音が、後ろ髪を引くような余韻を残して消えていく。それがこの夜の輝きに、僅かな切なさを纏わせた。
「空がすごく近く感じるね」
茜が空に向かって手を伸ばす。島の中でも標高の高いこの場所は、空までが近く見える。部屋の天井に貼ったシールのように、手を伸ばせば本当に届きそうだ。
「本当だね。ここは特等席だ」
色や形を変え、その姿を水面に反射させながら、空には次々と花が咲く。季節の風物詩と呼ばれるその花は、役目を終えると美しいままに散っていく。
気付けば俺も空に向かって手を伸ばし、記憶に刻むように拳を握っていた。
「こんなの、息をするのも忘れちゃう……。やっぱりちゃんと残しておかなきゃな」
言葉の意味はわかっている。だけど俺は、決められたレールの上を歩くように繰り返す。
「残すってなにを?」
「これからの二人の思い出……かな」
茜の横顔が、鮮やかな光で照らされる。この表情だけは上書きを必要としないほど、鮮明に覚えていた。
「日記ってこと?」
「んー。日記ってすると毎日つけなくちゃって思って続かなそうだなあ。だから忘れたくないって思ったことだけ書いておこうかな。そうしないとさ、記憶っていつかは薄れていっちゃうものだから。今感じているこの気持ちは、これからもずっと残しておきたいの」
空には今なお、地響きのような破裂音が鳴っている。次から次へと轟いて、島に花を咲かせている。これ以上ないほど鼓膜は振動しているはずなのに、茜の声は針より細く小さな声で、俺の耳にだけ届いている。
「こうやって思い出を少しずつ重ねたらさ、日記っていうより、小説みたいになりそうじゃない? うん、それだ! 私、これをいつか〝本〟にする! 匠が忘れても、私が思い出させてあげるよ! だから今日のことも絶対に書かなきゃね」
瞳だけでなく、茜の顔にも花が咲いた。
これが、茜が一冊のノートを〝本〟と呼ぶようになった理由だった。
「忘れないよ」
「じゃあいつか一緒に見よう? そこで本当に忘れてないか、確認してあげる」
「そういう茜だって忘れてるかもしれないじゃんか」
「それは……そうね。わかった、それなら〝あの日〟のことを最初に書くよ! 『約束した日』のこと。そのページのところだけ当てっこしよう!」
これで終わる。きっと、大丈夫。俺は胸の内で呟いた。
美しく夜を彩る音色とともに、本は静かに、終わりかけの夜を超えた。
茜の家から約二十分。俺たちは、会場である空き地を目指して歩いていた。
軽くなった足取りとは裏腹に、互いに慣れない下駄を履いていたことが影響して、なかなか歩く速度が上がらない。気持ちに身体が追いついていない感覚は、部活動を引退してから数年が経ち、久しぶりに運動したあの時の感覚にも似ている。太陽も祭りの準備を始めたのか、攻撃的な日差しが幾分か落ち着きを取り戻してくれたのはありがたかった。
俺よりも少し狭い茜の歩幅に合わせて歩く。規則正しく響く下駄の音が、俺の記憶を覗きにくる。
――ここよりもう少し……前かな。
あの時の茜の言葉。俺がどのページに居るかはわからないと言っていたけれど、茜は本の終わりを知っている。この本があと少しで終わることをわかっている。
それならば、この祭りに来ている可能性も高いと思った。いや、可能性の話をするならば、このページが最後という可能性すら考えられる。次第に人が増えてきている。この中に本物の茜が居ると思うと、息をするのも忘れそうになる。
会場までは十分足らずで到着したが、気を張って歩き続けた俺は、強い疲労感を覚えていた。
「やっぱりこの島の人たちは祭りごとが好きだよね。というか、何事も大袈裟なのかも」
思念の神さまについて知った初詣の日と同様、会場は人で溢れている。普段はだだっ広いだけでなんの取り柄もないただの空き地も、例年以上の人集りが生み出す空気と相まって、すっかり祭りの色に染まっていた。この人たちは一体今までどこに隠れていたのだろうと思ってしまう。
「本当だね。この時期だけに現れる異星人だ」
その言い方も大袈裟だよ、と笑う茜を横目に、俺はアンテナを張るように視線を右に左に動かしていく。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中だ。そう思うだけで、金魚すくいのおじさんも、射的のおばさんも、焼きそばを作るお姉さんも、ここに居る全ての人が疑わしく思えてくる。瞬きをする時間さえも惜しかった。
「……み? おーい、匠くーん」
近くから聞こえるはずの茜の声が遠く感じる。その声に向き合えたのは、俺の肩がビクリと震えた後だった。
「なに上の空になってるの? 早く食べ物、買いに行こう」
匠の奢りなんだから、と茜は俺の手を強引に引いた。俺の身体は小走りになり、人混みの中に紛れていく。紛れて、紛れて、祭りの一部になっていく。それでも神経だけは研ぎ澄まされているのか、まるで映画のワンシーンを観ているように、目に映る一つ一つの映像が音声とともに脳内に流れ込む。
どうやらあの子は、たこ焼きを一つ多く入れてもらえたらしい――その光景を捉えた直後だった。
俺は、視界の片隅に纏わりつくような視線を感じた。
一度は前を向き直したが、直後にまた視線を戻す。違和感とは思えない。ただ見ているとも違う。ねっとりと纏わりつくようだ、とも、刺すようだ、とも感じる不自然な感覚。
探さなければ。今の視線を。俺は車のワイパーのように右に左に首を振った。
意外にも、再会はそう遠くない未来にあった。視界に一組の男女が入り、俺の目は止まった。
あれって、あのときの――。
女性の顔はよく見えなかった。でも男性には、あの服装には見覚えがある。
純白無文の斎服。
確証はないが確信はある。
「思念の……神さま」
言葉は考えるよりも早くに口を衝く。男は俺の視線に気付いたのか、女性の手を引き、俺から背を向けた。
あれが思念の神さまなら、隣を歩く女性が誰かは決まっている。
「茜!」
叫んだ。雑踏の中を、俺の声は突き進んだ。目だってしっかり獲物を捉えていた。でもすぐに、強制的に引き剥がされた。
隣に居る茜が、俺の手を強く引いたからだ。
「ちょっと、急に大きな声出さないでよ……びっくりするじゃん。急にどうしたの?」
俺を見つめる大きな目が瞬きを繰り返す。茜の瞳の中には俺の顔が映っている。俺は俺から目を背けるように振り返る。
そこにはもう、誰も居なかった。
「本当に……大丈夫?」
不安な声が耳に届く。嘘でも冷静さを装うべき場面なのだろうけれど、脳内に純白無文の斎服がちらついて、表情を作る余裕はない。
「ごめん。大丈夫だから」
当然その言葉の中に茜の不安を取り除く力なんてなくて、茜は黙って笑みを浮かべるだけだった。
見間違いなんかではない。顔は見えなかったけれど、俺の第六感とも呼べる感覚が、あの男は思念の神さまなのだと語り掛けてくる。隣に居た女性は本物の茜だと主張してくる。本の終わりが近いのだと声を上げる。
自分の感覚に耳を傾けるのも悪くない。答えは自分の中にあるのだと、そう教わった気がした。
「……そう? 大丈夫ならお祭り、まわろっか?」
俺は茜の本の中に居る。過去には過去の茜が居て、当時は気付けなかった顔を見せてくる。たくさんの声を俺にくれる。俺は茜を感じながら、この声を道標に進むだけ。声を辿れば見えてくる。
必ずたどり着く。
茜が預けた幸せの、大元にある想いまで。
「行こう」
俺が差し出した手に、茜の小さな手が収まる。懐かしさの中に優しい温もりが隠れていることも、俺は感じることができていた。
薄っすらとした記憶を上書きしていく。綿あめを頬張る嬉しそうな顔も、穴の開いたポイから逃げ出した金魚に向けた悔しそうな表情も、射的の音に驚いた表情にも、俺は目に映るすべての茜に感情という色を付けて書き足した。
もう二度と、忘れることのないように。
藍色の空には、この島の住人よりも遥かに多くの星が浮かんでいた。
「そろそろ花火が上がる時間だね」
星がきれいだね、と茜は空を見る。時刻は十九時を十分ほど回ったところだった。
「もうこんな時間か。あっという間だったな」
「あの時間に来て正解だったでしょ?」
「これを着る以外はぜんぶ正解」
甚平の襟元を掴む。まだそんなこと言ってるの? と茜は困り顔をして、「似合ってるよ」と笑顔をみせた。
この顔も、しっかり記憶に付け足しておいた。
「あ、そうだ!」
胸の高さで手を合わせ、茜は言う。「ちょっと移動しない? 花火さ、二人だけで見ようよ」
どういうこと? と言いたかったけれど、茜は返答も待たずに俺の腕を強く引いて歩き出した。茜の後ろ姿を目で追いながら、人混みを避けるように進んでいく。祭りを象徴するような笑い声や熱気、足音や香りも、なにもかもを置き去りにして進み続けた。
ものの数分もしないで、この甚平も茜の浴衣も、祭りの一部ではなくなった。
「こっち、こっち!」
祭り会場を離れた分、目的地に近づいていく。茜は行き先を言わなかったけれど、俺は覚えていた。茜が向かっているのは、新年を迎えた日に二人で初日の出を見に行った場所。
あの場所から、茜の本は生まれたのだ。
新年は枝だけだった木々に、青々とした葉が蘇っている。葉擦れの音を伴いながら、心地よい風が海側から吹き抜ける。
視界が徐々に開けていく。
「間に合った……かな?」
茜は海と空のちょうど中間を見ている。二つはほとんど同じ色をしていた。
「まだ音も聞こえてないし、間に合ったってことじゃない?」
平らな地面に腰を下ろす。それもそっか、と茜も俺の隣に座った。
「あとどれくらいだろう?」
「結構ギリギリの時間に会場出たからね、もうそんなに時間もないんじゃ――」
スマホを取り出そうとした時だった。ドン、と身体の内側から轟くような大きな爆発音とともに、視界に強い光が飛び込んだ。
「わあ!」
「びっくりした……」
色鮮やかな花は咲いた。空と海、それから茜の瞳に開花した。大きな音の後に訪れる細かな音が、後ろ髪を引くような余韻を残して消えていく。それがこの夜の輝きに、僅かな切なさを纏わせた。
「空がすごく近く感じるね」
茜が空に向かって手を伸ばす。島の中でも標高の高いこの場所は、空までが近く見える。部屋の天井に貼ったシールのように、手を伸ばせば本当に届きそうだ。
「本当だね。ここは特等席だ」
色や形を変え、その姿を水面に反射させながら、空には次々と花が咲く。季節の風物詩と呼ばれるその花は、役目を終えると美しいままに散っていく。
気付けば俺も空に向かって手を伸ばし、記憶に刻むように拳を握っていた。
「こんなの、息をするのも忘れちゃう……。やっぱりちゃんと残しておかなきゃな」
言葉の意味はわかっている。だけど俺は、決められたレールの上を歩くように繰り返す。
「残すってなにを?」
「これからの二人の思い出……かな」
茜の横顔が、鮮やかな光で照らされる。この表情だけは上書きを必要としないほど、鮮明に覚えていた。
「日記ってこと?」
「んー。日記ってすると毎日つけなくちゃって思って続かなそうだなあ。だから忘れたくないって思ったことだけ書いておこうかな。そうしないとさ、記憶っていつかは薄れていっちゃうものだから。今感じているこの気持ちは、これからもずっと残しておきたいの」
空には今なお、地響きのような破裂音が鳴っている。次から次へと轟いて、島に花を咲かせている。これ以上ないほど鼓膜は振動しているはずなのに、茜の声は針より細く小さな声で、俺の耳にだけ届いている。
「こうやって思い出を少しずつ重ねたらさ、日記っていうより、小説みたいになりそうじゃない? うん、それだ! 私、これをいつか〝本〟にする! 匠が忘れても、私が思い出させてあげるよ! だから今日のことも絶対に書かなきゃね」
瞳だけでなく、茜の顔にも花が咲いた。
これが、茜が一冊のノートを〝本〟と呼ぶようになった理由だった。
「忘れないよ」
「じゃあいつか一緒に見よう? そこで本当に忘れてないか、確認してあげる」
「そういう茜だって忘れてるかもしれないじゃんか」
「それは……そうね。わかった、それなら〝あの日〟のことを最初に書くよ! 『約束した日』のこと。そのページのところだけ当てっこしよう!」
これで終わる。きっと、大丈夫。俺は胸の内で呟いた。
美しく夜を彩る音色とともに、本は静かに、終わりかけの夜を超えた。



